見出し画像

「疎であること」は「自由である」と言い換えられるかもしれない。

決められない、ビジョンもない鹿児島都市部の限界。

鹿児島市に「ドルフィンポート問題」と言うのがある。鹿児島市の港湾部、もともとドルフィンポートと呼ばれる繁華街の天文館に近い港湾の一等地の開発が棚上げになっていると言う問題だ。

いまの知事が体育館を作ると言い始め、鹿児島市長はスタジアムを作るといい、市民は「そんな景観の最高な所に体育館と立体駐車場を作るってアホか?もっと別の場所でいいだろ」となって、いまだ対話の糸口は見つかっていない。ちょうど3日前にもこの件に関する討論番組がNHKであったが、知事や県の関係者は出演拒否だった。

自分の所属するNPOのSELFでもchange.orgで1.2万人の署名を集め、クラファン(上のリンク、終了済み)でも500万円を超えて集めたりした。大きな県の関心ごとでもあるし、今度ある県議選でも大きな話題になるだろうと思う。

しっかりしたビジョンがあり、それをベースに議論できるなら落とし所があるのだろう。ただ、ビジョンありきではなく、内部事情と一部の業界との癒着があるような決まり方だから落とし所が見えてこない。

鹿児島県で特に鹿児島市のサイズくらいだと、政治も財界もうるさい人が多くて、調整型のリーダーシップが強い。結果、20年も決められない状態が続いている。

決められない、変われない政令指定都市は見限られている。

先輩後輩関係が強く、出る杭が叩かれる鹿児島から、長く上場企業が出ていないというのも、鹿児島大学生の8割が県外就職してしまうというのも、鹿児島が遅れた、変化ができない場所と見限られているからだとも言える。

そんなふうに、いわゆる政令指定都市レベルの都市は、関係者の利害調整のコストの大きさによって新しい状況への変化がスタックしている状態にあって、ビジョンありきの都市政策が推進できないような全員にとって不幸な状態になっている。

疎であることの自由と可能性

自分は今、90世帯ほどの漁港の街に住んでる。自分より若い人らは1-2世帯しかないので、きっと自分はこのコミュニティの最後を見とるんだと思う。

鹿児島市の繁華街から、田舎に移る時には、「そんな所に何で?」と言われたりもしたんだけれど、これって自分が最後に残れるなら、逆に「コビラ王国」作れるよねと思ってる。人がまばらで利害関係者が少ないと、口を出す人もないし、自由に自分が生きやすい思い通りの場を作ることができる。そんな自由さってあるよねと思っている。

鹿児島市のように半端に密であることで、意思決定ができずに、変われない中途半端な都市よりも、疎であることの自由を謳歌する時代が来るかもしれない。東京まで行くとと関係者が多すぎて調整できないので逆にビジョンが求められだろうが、半端な都市で地方財閥的なところが仕切ってるとこがやばいと思う。うちの日置市もそうなんだけど、逆に数万人以下の人口の都市だと市長も尖ることができるし、危機感も半端ないので裁量も取れやすいという変化できる素地があると思ってる。

今まで、過疎地に住むことのデメリットはインフラ的な不自由さだったけど、ネットもskylinkもできるし、テレビもネットがあればサブスクできるし、水もWOTAもあるし、ガソリンも大気中から作る装置もできる。そもそもAmazonあればなんでも買えるので不自由さなどない。未来の可能性は意外と自由な疎な場所から生まれるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?