もっと死ぬミミズの話
朝、3歳の次男を保育園に送っていると、道端に干からびたミミズの死骸を見つけた。
前日は猛暑だった。餌を求めてか土から出てきてみたはいいものの、アスファルトのあまりの熱さに身体の水分をごっそりと持っていかれてしまったんだろう。
「ミミズさん、死んじゃってるね」と僕が声をかけると、彼は「踏まないように気をつけなきゃ」と言った。
靴が汚れるからとか虫を踏むと気持ち悪いからという衛生意識からなのか、もしかすると、死骸とはいえ生物を踏むことに抵抗があるという倫理観が育っているのか、と思い「どうして?」と聞いみた。
すると彼は、
「踏んじゃうと、もっと死んじゃうから。かわいそう」
と答えた。
「もっと死んじゃう」
予想外の答えに思わず復唱した。
常識と偏見に塗れた僕の感覚では、「死」とはデジタルなものだ。死んでいる状態は、死んでいない状態でない状態だ。死んでいない状態は、死んでいる状態でない状態だ。「死んでいる」と「死んでいない」の間は存在しない。どちらかの状態を必ず取る排反事象だ。
ところが彼にとって、「死」とはアナログなもののようだ。死には程度がある。だから、「もっと死ぬ」という事が起き得る。多分、もっと生きるとか、ちょっと死ぬとかもあるんだろう。
でも、よく考えると、「死」をデジタルなものとして捉えるという方が、人類史においてはむしろ圧倒的マイノリティなのかもしれない。
キリスト教やイスラム教では肉体の死は最後の審判までの一時的な状態でしかない。
仏教でも輪廻転生のコンセプトは死というものをグラデーションとして捉えているという風にも解釈出来る(と思う)。
日本の葬儀の文化でも、通夜、葬儀、初七日、四十九日と、人は段々と死んでいく。
メキシコを舞台にした『リメンバー・ミー』も、「本当の死」は忘れ去られるまではやってこない。
近い将来、もし自分の思考を完全に再現するAIが作れたら、「死んでる」と「死んでない」の境界線はもっと曖昧で不明瞭なものになるんだろうとも思う。
もし、自分の「死」を自分が好きなように定義していいのだとしたら、死なないために、肉体を伴う自由意志(と僕が思ってる何か)が稼働している間をどう過ごすのかの考え方も全く異なるものになるんじゃないだろうか。
ミミズの死骸には早々と飽き、汗だくになりながらダンゴムシを観察する息子の背中を見ながら、そんなことをふと考えた。
とりあえず、早く保育園にたどり着きたい。
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