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よつばを育ててくれたとーちゃんへ

 はじめて「よつばと!」15巻の書影と帯が発表されたとき、私は「普通という奇跡」の意味を、コロナ禍における変わらない物語と捉えて疑わなかった。

 しかしながら、これまで読者に感動と驚きを与え続けた「あずまきよひこ」「里見英樹」の両者が、そのような形で簡単にことを終わらせるはずがなかった。

 このキャッチコピーは時代背景の反映なんてものではない。もっと長く、深く続く、変わらない想いを指した言葉だったのだ。

 普通とは、奇跡である。
 これまでの「よつばと!」で語られてきたメッセージを私たちは、本当に正しく受け止めてきたのだろうか?


 私はこれまで計4回に渡り、「共によつばを育ててきた人たちへ」というタイトルでこの作品に関する感想をまとめてきた。
 しかし、15巻を読んでいただければ分かる通り、この解釈は間違っていたことになる。我々は決してとーちゃんと同じようによつばを温かく見守り、育ててきたわけではなく、あくまでも「よつばととーちゃん」の人生をのぞき見ていたに過ぎない。
(作者の手を離れたよつばという存在、を明確に否定されたのだ。)

 よく他作品において、作者本人に対し「〇〇(キャラクター名)を生み出してくれてありがとう」といった表現を目にするが、私がこの15巻を読んで得た気持ちは、とーちゃんという人物に対する「よつばをここまで育ててくれてありがとう」の感謝の念に違いない。

 フィクションの中で生きるキャラクターにこういった感情を抱くのはおかしいのかもしれない。しかしながら、第104話「よつばとランドセル」におけるとーちゃんの涙からくみ取れることは、これまで私たちが目にしてきたものは「物語」なんて言葉で済ませられるものではなく、この現実に存在する「人生」そのものだった、ということだ。

 これまで「よつばと!」において過去回想という技法は用いられて来なかった。(第69話「よつばとさいかい」の中でみうらによって偽装された過去はあるが、今回の回想シーンと異なり、枠の黒塗りがない)

 あくまでも「よつばと!」は今を生きるよつばのためのものであり、回想と呼べる技法の必要性がなかったのだ。
 けれど、今回とーちゃんが回想するのは、「よつばと!」の中でも名シーンとして名高いキャンプ回にて大人たちがたき火を囲むあの場面。大人になっても友人らと語らう理想象として登場したはずのシーンには、よつばに対するとーちゃんの想いが隠されていた。

 「父親としての自覚」。これはよつばが拾われてきた子である設定に基づくテーマではない。たとえどのような経緯を辿ってきているとしても、その「自覚」が芽生える瞬間はいつなのか?をとーちゃんは自身に問いかける。

 そうしていま目の前の大きくなった「我が子」を見て、名前のない感情に涙するのだ。これまで自分の庇護の元で育った子どもが、この手を離れようとしている。その予感が冬の海に揺れる波のように押し寄せてくる。そして涙が溢れてくる。

 「とーちゃんはよつばがまもってやるからな!」

 彼らは守り、守られる関係性にある。引き継がれてゆくそれぞれの想いを、人生と呼ばずになんと呼べるのだろう。


 直近の「よつばと!」の扉絵には、毎回意匠が凝らされている。
 15巻のはじめにページをめくれば、意味深な三本の線があるだけだ。
 しかし、最後のページをめくればその意味を知ることになる。よつばととーちゃんは、二人果てしない水辺線を辿るように暮らしている。それは変わらないものの象徴でもあり、どこまでも、どこまでも続く、人生の尊さを明示しているのだ。

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