寂しさの引力で、貴方とコーヒー豆を挽こう

 初恋は多分小学校の先生だった。あの頃は一括りに大人に見えたけど、たしか若い先生だったと思う。情熱的で面倒見の良い彼女に、私はすぐに懐いた。そう、大学を出てからまだそれほど経っていない、若い女の先生だ。
この頃の私は自分が何者かなど考えもしなかった。
 次に好きになった記憶があるのは中学の部活の先輩だ。小学校からの友人の誘いでうっかり入部してしまったテニス部で、よく面倒を見てくれた三年の先輩。たった二歳年上なだけの彼女が当時の私にはとても大人に見えた。よちよち歩きの赤ん坊がそのままテニスラケットを握ってしまったような私に、彼女は数ヶ月間根気よく指導をしてくれた。当時は寝ても覚めても彼女のことを考えて、それだけを楽しみに生活していたので、やはりあれは恋だったのだと思う。勿論三年生だった彼女はすぐに引退してしまい、それに伴い部活へのモチベーションを失った私もすぐにテニス部を辞めてしまった。それがなんとなく後ろめたくて、結局卒業までに彼女に話しかけることは出来なかった。
 このとき、私は自分が少し変なんだろうという漠然とした疎外感を覚え始めていた。
 同性愛者という単語を知ったのは中学の二年か三年の頃だったと思う。私は自分を説明してくれる言葉との出会いに驚きつつも喜んだ。だがその後すぐに葛藤を覚えるようになる。自分のセクシャリティが受け入れられずに苦悩した、あるいは今もそれで苦悩している話は枚挙に暇がないからだ。
 私は苦しかった。当時はそれをうまく言語化出来なかったが、今無理矢理表現するなら、自分のものだと思っていた身体と心に、自分では到底コントロールできない未知の塊が鎮座していることへの失意、苛立ちそして恐怖というのがその中味出会ったように思う。
 私はその苦しみに耐えられなかった。親しい相手に隠し事をしているという罪悪感、そうは言っても変えようのない自分の性質への苛立ちと諦観。それらが火山灰のようにみるみる降り積もって、私の小さな心の器は早々に音を上げた。誰かに言おう。明日こそ言おう。誰に?今考えて思いつくはずも無いだろう。それも明日考えるんだ。でもそんな調子で明日言えるのか?そもそも誰かに言えばこの苦しみからは逃れられるのか?じゃあ他にどうすればいいんだ。うるさい。もういやだ。
 そうやって眠れない夜を何度か過ごした私は、結局母に伝えることにした。というより、様子のおかしい私を気遣った母になし崩し的に告白したといった方が正確だろう。今思い返しても嗚咽と涙混じりでとてもまともに話せたとは思えないのだが、かくして母にはどうやら私が同性愛者であることが伝わったようだった。
 そしてそれは意外にもあっさりと受け入れられた。それまでの苦悩が一体何であったのかと思うほどの肩すかし具合に、私はなんだか無性に泣きたくなってしまったのを憶えている。
 その夜、私は目下の苦悩が取り除かれたことによって少しハイになっていた。私の未来には、たとえ苦しいことがあってもそれを補ってあまりある幸福が待っていると素直に信じることができた。具体的に言うなら、いつか私のことを受け入れてくれる恋人が現れて、身近な人達もそれを祝福してくれるだろうという希望だ。勿論―他の多くの希望がそうであるように―この希望には根拠が無かったが、その日の私にはそれは問題では無かった。高揚感は麻酔のように私の中の不安を感じる器官を麻痺させていた。ある十五の夜のことだ。


 それから五年以上が過ぎた。私は先日二十歳の誕生日を迎えた。
 未だに私に恋人は出来ていない。

 「自分から動いてないんだから、恋人なんて出来るわけないじゃん」

 三限が始まった大学の学生食堂。昼休みの喧騒の余韻を空中に漂わせつつも、もはやレポートやカードゲームをやる集団が二、三ある以外は人もまばらになったその場所で、いきなり核心に切り込んできたのは中学からの友人だった。彼女は私が同性愛者であることを打ち明けた数少ない一人で、その中でも大学生になった今でも交流が続いているとなると彼女だけだった。

 「ミホはさ、たぶん重く考えすぎなんだよ。そりゃミホの慎重さは知ってるけど、別に恋愛は大学選びや就活みたいに事前に情報を集められるわけじゃないんだから、ある程度行き当たりばったりはしょうがないって」

 彼女はきわめて分かりやすく私の苦手な部分を指摘した。要するに、私は意気地が無いのだ。恋人が欲しければ、まず恋人をつくる努力をしなければならない。それは相手が男だろうと女だろうと関係が無かった。そういった恋愛以前の私の心構えの部分を指摘されると、たとえ自分から相談したとしても耳が痛かった。

 「もうこの際だから、今ここでなんかやろう」
 「なんかって」
 「そりゃ恋人づくりの為の具体的な一歩ってやつよ。どうせアンタ一人にしたらへたれるんだから、最初の一歩くらいは私が面倒見てあげる。ほら、映画やゲームでよくあるじゃない。なかなかエンジンがかからない車を、最初だけ後ろから押すやつ。あんな感じよ」

 彼女は明らかに私が先週貸した「Last of us」のことを言っていた。もうそこまで進んだのか。持ち主の私より上手いかもしれない。

 「いや、そこまでしてもらうのは流石に悪いよ」
 「残念。アンタが今まで誰かに告白するところまで漕ぎ着けたことがあったら、私だって今の遠慮をおとなしく聞き入れてあげたわよ」
 「うぐ…」
 「ほら、やっぱり無いんじゃない」

 そう言うと彼女はスマホでたぷたぷと検索を始めて、一分とかからずに顔をあげた。

 「よし、マッチングアプリいれましょう」
 「え、入れるの?」
 「私じゃないわよ!アンタよ!ずっとアンタの話してたでしょうが」
 「ひぇ、すいません」
 「いいからスマホ出して。とっとと入れる。どうせアンタのことだから、調べるだけ調べて目星つけたとこで止まってるんでしょ」

 アタリだ。彼女の理解の深さを喜ぶべきか、それとも自分の分かりやすさを恥ずべきか、そんな余分なことに脳の処理能力を割かせまいと彼女は急き立てた。

 「うん、登録終わったわね。じゃあ来週までになんらかの成果を持ってきなさい。会う約束を取り付けるとか、そこまでいかなくてもこの先関係を発展させられそうな相手に当たりをつけておくくらいはしときなさいよね」
 「一週間?早くない?」
 「遅すぎるくらいよ!アンタ高校の卒業式のとき『大学入ったら彼女欲しいなー』とか言ってたわよね。もう二年も無駄にしてるじゃない。これは二年と数ヶ月+一週間なのよ」
 「そういや貴方この前二十歳になったときも十六歳四十八ヶ月とか言ってましたね」
 「私のその場限りのしょうもない冗談を掘り返すのはやめなさい。とにかく、一週間だからね。来週のこの時間、ちゃんと報告してもらうから」
 「はーい」

 そう返事したところでその日の相談はお開きになった。アプリのダウンロードや登録で意外と時間を食ったのか、いつの間にか三限終了のチャイムが鳴っている。彼女はきびきびと立ち上がって、食堂を颯爽と立ち去っていった。あとには四限の授業に出たくない私と、アプリ一つ分だけ重たいスマホだけが取り残されていた。



 数週間後、私は一人の女性と待ち合わせをしていた。案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、私の恋人探しは思いのほかとんとん拍子で進んだ。それこそアプリを入れた週には話の合う人が数人見つかり、その中の一人とそのまま今日のデートまで漕ぎ着けてしまったというわけだ。
 端的に言って、私は緊張していた。なにせ生まれてこのかた、デートというものをしたことが無いのだ。しかも生身では初対面である。今まで経験した友人同士のお出かけとは違うという意識が、私の胸から喉にかけてをぎゅうっと締め上げているようであった。

 「あの、ミホさんですか…?」

 緊張に身を固くしていると、突然声を掛けられた。いや別に向こうが気配を消してきたわけではないのだが、今の私にはどう声を掛けられても突然なのだ。

 「あ、は、はい!ミホです…そう言う貴方は、カオリさん…ですか?」

 いっそ自分で自分が哀れになるレベルのテンパり具合だった。目の前の待ち人はくすりと笑うと、私の問いを肯定した。今まで交際はおろかデートさえしたことが無いことは既に伝えてある。彼女の笑みには私を嘲笑う色は一切無く、ただ目の前の初心な娘を微笑ましく思う気持ちだけが見て取れた。そしてそれは一層私の羞恥を掻き立てるのであった。

 「ええ、チャットでは色々教えてくれたけれど、直接会うのは初めてだものね。実は私も少し緊張していたの」

 挙句こちらを気遣ってくれる余裕まで見せられては、第一印象もクソもあったものでは無かった。私は今すぐにでも消え入りたい惨めさと、今日は年上の女性とデートするんだという今更やってきた実感に胸を引っ掻き回されたまま、元々約束していた喫茶店へと場所を移したのだった。桜の新芽が暑くなりだした風に揺られて、万華鏡ともステンドグラスともつかない光をアスファルトに投げかけていた。

 
 「じゃあ、改めて自己紹介させてもらうわね。カオリと言います。ミホちゃんよりは少し年上になるけど、別に大した差でもないから気楽に焦らず、まずはお互いのことを知っていけたらなって思っています。よろしくね」

 綺麗なひとだな、とまずは素直に思った。緩く巻いた自然な茶髪、メイクもファッションも私の同期たちより一回り大人のもので、自己紹介のこなれた態度も相まってそれは実際の年齢差より彼女を年上に見せた。呼び方もいつの間にかちゃん付けになっていて、警戒する間も無く自然と半歩ほど踏み込んでいる。
 しかしそれが頼りになる方面の大人っぽさかと言われればそうではなさそうだった。こちらをじっと写す虹彩、それを穏やかさの薄膜で覆う瞼、あと数歩で病的の域に踏み込みそうなほど細い首、総じて経験という積み木を散らし書きみたいに積み上げて、その不安定さを色気と呼ぶような「大人らしさ」であるように感じられた。

 「あの、私はミホと言います。今まで誰ともお付き合いをさせていただいたことが無いので分からないことだらけで恐縮ですが、よろしくお願いします」
 「ミホちゃん固いわよ。ほら、コーヒーも来たことだし、ひとまず飲んでリラックスしましょ」

 気後れだらけの私の自己紹介は当たり前にたどたどしいものになったが、二十になった女のそんな無様さも、カオリさんの優しさと、運ばれてきたコーヒーのアロマが有耶無耶に包んでくれるようだった。
 この喫茶店もカオリさんが選んでくれたお店で、世界中から仕入れた様々な豆と、それを丁寧にハンドドリップで淹れてくれるのが評判のお店らしかった。確かに、自然光の差し込む明るい店内、メニューに載っているコーヒー豆の横に描かれた半分も分からない国旗たち、すぐ見えるところで煎られているコーヒー豆が奏でるじゃらじゃら、パチパチというBGM、どれをとってもお洒落だった。私の好みを聞きながらカオリさんが選んでくれたコーヒーは、口の中で繊細な苦みを伝えたかと思えば喉をつるりと通り過ぎて、後には不思議と甘いような香りが鼻の方へ抜けていった。私が思わず「おいしい…」とこぼすと、カオリさんは「気に入ってくれたみたいで良かった」と微笑んだ。そのときの少し安心したような笑顔と、付け合わせのピスタチオを剝く細い指先は、クラクラするような落差で私の脳裏に焼き付いて、結局その日の寝る直前まで消えることはなかった。



それから、何度かデートを重ねた。年齢も経済状況も違う私たちだから一緒にファッションを見に行くということは無かった。代わりに選んだのはもっぱらカフェ巡りだった。最初のデートがあれだったからだろう。彼女は他にも色々なカフェに連れて行ってくれた。そのうち二人で新しいカフェを開拓したりもするようになった。当たり外れは勿論あったけど、彼女と二人なら不味いコーヒーを啜るのもそれほど苦ではなかった。
 その頃になると段々私も自分の好みの味というのが分かってきて、一人でお店を回って、初心者向けという謳い文句のコーヒーミルを買った。ペットボトルの天然水は軟水のものを常備するようになった。豆は初めて彼女と行ったカフェで、彼女が選んでくれたものにした。焙煎を待つ間も、家に帰って挽くときも、想うのは彼女のことだった。
 我ながら舞い上がっている自覚はあったから、背中を押してくれた友人を家に招いてコーヒーを振舞いがてら聞いてみたが、帰ってきた言葉は「初めてなら、まぁそんなもんでしょ」だった。その声音が含んでいた呆れと苦笑と、少しの郷愁とも憧憬ともつかない色は、どこかそのとき飲んでいるコーヒーに似ていたと思うのはやはり恋愛脳なのだろうか。流石にそれは恥ずかしくて口には出せなかった。


 冬が近づいたある日のこと、私は初めて一人暮らしの自室にカオリさんを呼んだ。初めて恋人に自分で挽いたコーヒーを淹れるのだと、いつも以上に舞い上がっていた。
 だからそれは、晴天の霹靂だった。

 「あのね、別れてほしいの」

 頭が真っ白になるという表現があるが、それは別に人間が本当に驚いたときを形容したものではないのだろう。その証拠に、こんなに驚いている私の頭を巡っていたのは「東京のコンクリートには冬の乾いた風がこんなに似合うのか」という微塵も関係のない考えだった。

 「えっと、あの…私、何かしてしまいましたか…?何か気に障るようなこと…」

 出会ったのは春の終わり頃、そこから半年と少し、私としてはそれなりに良い関係を築けているつもりだった。もとより人付き合いが得意ではない私としては、情けなくも心当たりが一切無かった。あれかも、それともこれ?と頭の中で掴みかけるたびに、そのとっかかりはぽろりと剥がれて、思考は上滑りするばかりだった。

 「いいえ、違うの。悪いのはミホちゃんじゃなくて私なの。貴方は何も悪くないわ」

 カオリさんは本当に申し訳なさそうな顔でそう言うと、手袋を外した。

 「私、実は結婚しているの」

 手袋を外したカオリさんの左手、その薬指には指輪が嵌まっていた。何度見惚れただろう、彼女の指。細く、長く、少し骨ばっていて、でもそこが艶っぽい大人の女性の指。そこに今日は結婚指輪が、まるではじめからそうあるのが自然であるかのように嵌まっている。結婚なんて考えたことも無いから相場は知らないけど、きっと安い値段ではないのだろう。大き過ぎもしないが、決して小さいわけでもないダイヤは、曇り空越しの太陽を写したみたいに上品に輝いていて、悔しいほど彼女に似合っていた。
 それから彼女はひとつづつ語ってくれた。初恋からずっと同性愛者であったこと。それを家族の誰にも言えなかったこと。大学を出て暫くして、親から結婚相手を紹介されたこと。その人は人格にも経済状況にもケチのつけようが無く、何よりその人自身が是非結婚したいと言っていたこと。それを彼女は受けたこと。

 「そしてそれは、当時付き合っていたひとを裏切る選択だったの」

 その人―当然女性だ―とは付き合って三年だったらしい。しかし結婚に向けて自然消滅させるように連絡を絶ってから一度も会っていないということだった。「きっと恨んでるでしょうね」と言う彼女の声は、むしろ恨んでほしそうであった。
 彼女の話はそこで終わらなかった。

 「結婚してからの生活は思いの外充実していたの。恋人を裏切った罪悪感はあったけど、家族やあの人が喜ぶ顔を見る度に、これで良かったんだって思えた。なんて言えばいいのかな、親切のレールに上手く乗れたんだって」

 でも、そこで満足していたら、彼女は私と出会ってないだろう。

 「結婚生活に慣れてきて、一人で落ち着く時間が増えてきたら、急に寂しくなっちゃったの。自分から裏切っておいてひどく身勝手な話だけど、誰かに私の秘密を知ってほしい。愛するんじゃなくて、恋してほしいって」
 「それで出会ったのが私、というわけですか…?」
 「ええ、本当にごめんなさい。酷い話だって自分でも思うわ。償いも、私に出来る範囲でならなんだってやるつもりよ」

カオリさんの表情があまりに悲痛だから、私はなんだか教会で告解を受ける聖職者にでもなった気分だった。だが私の頭の奥では、聖職者とは似ても似つかない感情が芽生えつつあった。

 「なんで、それを今日言ったのか、聞いていいですか…?」

 私の声は自然と震えたものになった。それを彼女は傷ついているからだと解釈したようだった。

 「貴方が…貴方があまりにも真っ直ぐだから…」
 「真っ直ぐ?」
 「そうよ。初めての恋人、初めての両想い。会う前までは、経験の少ない子の方が主導権を握りやすいと思ってたのよ。実際そうだった。付き合う上での苦労なんてほとんど無かった。だって何をしても喜んでくれる。私のことをひとつ知る度に笑顔を見せてくれる」

 確かに、私は初めての恋愛で舞い上がっていて、いっそチョロいと言っても過言ではなかった。

 「だから、その素直さを見る度に胸が痛んだ。純真さに触れる度に妬ましく思って、そう思った自分の醜さに嫌気がさした。なんてことはない。夢中になってたのは私の方なの。貴方の一挙一動から目が離せなかった。こんなに真っ直ぐ恋が出来る人が居るなんてって、勝手に救われたような気持ちになっていたの」

 彼女は苦々しい顔で続けた。

 「だから、貴方に私は相応しくない。私は貴方の隣に私がいるのが許せない。貴方にはきっと、もっと素敵な恋人が現れるわ」

 そこまで聞いて、私はようやっとさっきから私の脳裏をちりちりと焦がす感情の輪郭を捉えつつあった。それは怒りだった。あるいは悦びだった。そのどちらでもあって、どちらでもない感情が、寂しさという外皮を得て急速に膨れ上がるのがわかった。まさか、まさか自分にこんな感情があったなんて!二十年も生きていながらこれに気が付かないとは、とんだ間抜けが居たものだ!

 「ねえ、私の話も聞いてくれますか?」

 私は意識して声を抑えながらそう言った。でなければ、この場で叫びだしてしまいそうだったのだ。何か暑いエネルギーが頭の中を渦巻いて、ここから出せと喚いている。

 「なんで私がこんな歳まで、恋人の一人もいたことなかったか分かりますか?」

 私は彼女の返事を待たずに畳みかけた。

 「端的に言って、私は意気地なしだったんです。私は自分が同性愛者であることを家族に打ち明けました。これは逃げだったんです」
 「そんなことないわ。本当に逃げたのは、私みたいに打ち明けられずにだらだらとここまで来てしまった方で…」
 「もちろんそれも逃げのひとつの形でしょう。けれど、私としては打ち明けてしまう方が楽だった。今思い返せば、きっと心のどこかに受け入れてくれるだろうって期待があったんです。むしろ、隠し通す度胸の方が私には無かった。」

 握った手の中で、爪が皮膚を突き刺している。その痛みが、辛うじて私最後まで喋れと繋ぎとめている。

 「負い目です。私には常に負い目があった。世界には今も同性愛者というだけで差別的な扱いを受けている人たちがいて、それに真正面から立ち向かう勇敢な人たちがいる。他人事じゃない。他人事であっていい筈のない話です。だって私も同じ問題を抱えているのだから。」

 口が渇く。喉がひりつく。耳の奥で血流がごうごうと音を立てて流れていた。

 「でも私は逃げました。立ち向かう勇気も無く、隠し通す度胸も無い私は、この問題をひどくドメスティックなものにスケールダウンさせました。私と母、私と父、あるいは私ととても親しい友人一人。そうやって巨大な問題の、私と直接接している部分だけ小分けにして切り取って、そこで話をおしまいにしたんです。目の前に山があるのを見ながら、山道の入り口だけ埋めて誤魔化したんです。これが卑怯でなくてなんだっていうんでしょう」

 口の中でいつの間にか溜まっていた唾液を飲み込んだ。

 「私は怖かったんです。目の前から取り敢えず退けた問題が、恋人を作ることでまた目の前に突き付けられるのが。これから恋人になるであろう人と同じ苦しみを分かち合えないのが。お前は敵前逃亡したんだってなじられるのが。その負い目が、私をずっと縛っていました。それでも、ずっと恋人が欲しかった。この寂しさを埋めてもらいたかった」

 体がどんどん前のめりになる。

 「ねえ、貴方は酷い人です。恋人を裏切って結婚して、安定した生活を得て、それすらも裏切って恋人を求めた。自分の寂しさを埋めるために。貴方にはもう、誰かを糾弾する権利は無い筈です」
 突然の罵倒に、彼女の瞳が揺れるのが見えた。そうか、私は今までずっと彼女の瞳を覗き込んでいたのか。彼女に会ってから、きっと初めてのことだろう。私はこの脳みそを埋め尽くす感情を吐き出すのに必死で、そんなことにも気が付かなかった。
 私はのけぞる彼女の襟首を思わず掴んだ。この時の私には、そうしなければ逃げられてしまうという強迫観念が確かにあった。

 「お願いです。これからも私の恋人でいてください」

 人の襟首を締め上げておいて、私のほうがよっぽど喉を締め付けられたような声をしていた。

 「罪深い貴方、どうかこれからも、罪深いままでいてください。誰にも赦されないでいてください。私を責める権利を、これからも持たないままでいてください」

 先程までとは立場が逆転していた。今度は私が赦しを請うているようだ。こんな襟首まで掴んで、彼女が思い描いていた純朴な私はどこへ行ったのだろう。幻滅されただろうか、愛想を尽かされただろうか、でも他にどうしろと言うのだろう。彼女が今の生活を捨てるリスクを取ってまで、わざわざ私に罪を告げたように、寂しさの前では人はこんなにも無力なのだ。

 「私には、貴方でなければ駄目なんです。貴方の罪深さだけが、きっと私の弱さを包んでくれる」

 返ってきたのは抱擁だった。だがそれは、私を癒す柔らかなものではなかった。むしろあの細い骨ばった指の痕さえ付かんばかりの力強さだった。たまらず私も、痕が付けとばかりに抱き返した。
 彼女の胸が私の胸でつぶれる感触があった。彼女の首の細さも、私の首で感じ取れた。熱い雫で濡れた肩が冷たかった。ずるいひとだ。私はこういうとき、どこもかしこも渇いて涙の一粒も出やしないんだ。

 きっといつか差別は無くなるだろう。勇敢な戦士たちがそれを打ち倒して、平等と公平の輪を築くだろう。でも私たちはそれに入れない。
 私たちの心から、私たち自身への差別が消えることはないからだ。寂しさの引力で惹かれあって、繋いだ手を罪で括り付けた。私たちは今、いつか完成する楽園の端から自由落下している。今日かもしれない、明日かもしれない。あるいはずっと先かもしれない。いつか地面に叩きつけられるその日まで。きっとそこは冷めたコーヒーで満ちているだろうと、その香りを嗅ぎながら、彼女の華奢な躰を搔き抱いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?