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『聊斎志異』を読む~蜂の妖精「蓮花公主」と「緑衣女」


清・蒲松齢 (1640~1715)の怪異小説集『聊斎志異』には、狐妖・花妖をはじめ、さまざまな異類譚が含まれています。その中で、蜂妖を扱った作品として、「蓮花公主」と「緑衣女」の2篇があります。

『聊斎志異』

蜂について

蜂と儒家思想

『詩経』小雅「小宛」に、蜂の一種で「蜾蠃」(ジガバチ)が登場します。

螟蛉有子  螟蛉めいれい 子有れば
蜾蠃負之  蜾蠃から 之を負う
教誨爾子  なんじの子を教誨し
式穀似之  もっく之に似せしむ

とあるように、蜾蠃は、螟蛉(クワムシ。苗を食う害虫)の幼虫を背負って巣に運び入れ、それを自分の子として教え諭し、親である自分に似るように育てたと考えられていました。

生物学的事実としては、蜾蠃は螟蛉を捕まえ、刺して麻痺させてその体内に卵を産み付け、孵化後は幼虫の餌とするのですが、古代中国の俗信においては、蜂はすべて雄であり、自らに繁殖能力がないため、螟蛉を捕まえて自分の子として養育するとされていました。

このように、蜂が自らとは類を異にし、しかも害虫である螟蛉を自分の後継者として育て上げるという俗信が、やがて儒家の政治理念に結びつけられ、蜂は「無知な民衆や野蛮な異民族を教化する為政者の模範」とされるようになります。

また、蜂の巣における組織的な群棲のさまは、儒家が理想とする人間社会の君臣関係や国家秩序になぞらえられています。

『本草綱目』(巻39)「蜜蜂」の項に、宋・王元之の「蜂記」を引いて、次のように記されています。

嗚呼、王の毒無きは、君の徳に似たり。営巣すること台の如きは、国を建つるに似たり。子が復た王と為るは、分けて定むるに似たり。王を擁して行くは、主をまもるに似たり。王の在る所にてさざるは、法をまもるに似たり。王を失えば則ちくずれるは、義節を守るに似たり。取るにれ中を得たるは、じゅういつにして税するに似たり。

蜂王が毒針を持たないことを君子の徳治に喩え、巣の設営・継承を人間社会の国家建設、世襲の封建統治に喩え、さらに、蜂王と群蜂の関係を君主と臣下、為政者と人民の間の秩序立った主従関係に喩えています。

これは、コロニーとし ての蜂の生態を人間社会の規範的モデルとして見立てたものです。

このように、蜂は、伝統的な儒家思想の立論における恰好の比喩として扱われていました。明らかな誤謬であり牽強附会ですが、こうしたアナロジーが儒家の政治観を表すレトリックとして語られていました。

蜂のイメージ

儒家思想でどう扱われたかはさておき、人々が実際の生活において関わりを持つ蜂のイメージは、決して好ましいものではありません。

それは、蜂が毒針で人を刺すからにほかなりません。『説文解字』の字釈においても、「蜂」(古くは「蠭」)の字は、

飛蟲、人をす者なり。

とあり、第一義を「人を刺す飛虫」としています。

古い文献では、蜂は、蟻、蜹(ぶよ)、蠆(さそり)などの有害な生物や、虎、豹、蛇などの危険な生物と並べて語られています。

また、蜂が群れをなして攻めることから、蜂の群棲を軍隊の比喩に用いることも多く、「蜂聚」「蜂起」「蜂屯」「蜂攘」などの語で人の集団を表す時は、体制の脅威となる危険を孕む攻撃的な群衆や叛徒を指します。

詩に歌われる蜂

古典詩における「蜂」の用例をいくつか見てみましょう。

詩文における花鳥風月の一つしての蜂は、多くの場合、果実や花蕊の蜜との関わりで、花と共に歌われます。

刺す蜂のイメージが「胡蜂」(スズメバチ)の類に基づくものであるのに対して、詩文の中で歌われる蜂のイメージは、「蜜蜂」に基づくものです。

唐・杜甫の「敞廬遣興奉寄嚴公」では、

野水平橋路  野水 橋路に平らかに
春沙映竹村  春沙 竹村に映ず
風輕粉蝶喜  風軽くして 粉蝶喜び
花暖蜜蜂喧  花暖かにして 蜜蜂かまびす

というように、陽光と微風を伴う春景色の中で詠われています。

また、唐・元稹の「春詞」に、

山翠湖光似欲流  山翠 湖光 流れんと欲するに似て
蜂聲鳥思卻堪愁  蜂声 鳥思 却って愁いに堪えんや

とあり、宋・王安石の「憶昨詩示諸外弟」に、

幽花媚草錯雜出  幽花 媚草 錯雑として出で
黄蜂白蝶參差飛  黄蜂 白蝶 参差しんしとして飛ぶ

とあるように、しばしば「鳥」や「蝶」と対で用いられます。

このように、古典詩における蜂は、花や鳥や蝶と共に春の風物の一つとして歌われますが、女性との関わりで歌われる場合も少なくありません。

唐・李賀の「難忘曲」に、

蜂語繞妝鏡  蜂語 粧鏡をめぐ
畫蛾學春碧  蛾を画いて春碧を学ぶ

とあるように、「蜂語」や「蜂声」は、閏房の女性に付随する一種の風物として歌われます。

また、「蜂腰」が女性の細い腰を表し、「蜂髪」が女性のしなやかな頭髪を表すなど、蜂の身体の一部が女性美を象徴する小道具として用いられる例は、宮体詩や閨怨詩などにしばしば見られます。

清・沈南蘋「菊花蜂圖」

「蓮花公主」

さて、『聊斎志異』に収録された蜂妖の話2篇を見ていきましょう。
まず「蓮花公主」の梗概は、以下の通りです。  

竇旭とうきょくが昼寝をしていると、夢に使者が現れ、楼閣が幾重にも重なる別世界に招かれる。宮殿に入ると王様が出迎え、酒宴のさなか公主の蓮花と引き合わされる。竇はその類い稀な美しさに心を奪われ、王様が縁組をほのめかしたのを気づかぬまま家に帰り着くと、そこではっと目が覚める。ある夜、友人と榻を共にしていると、再び王様に召し出され、公主と婚姻を結ぶ。祝宴の翌朝、宮殿が蟒蛇の妖物に襲われ廃墟と化したとの知らせがくる。竇は公主を自分の家に連れ帰り難を逃れるが、公主は父母を思い泣き悲しむ。なだめることもできずに困惑するうち、ふと目が覚めると蜂が枕元を飛んでいる。竇は友人に夢のことを話し、蜂のために巣を作ってやると、塀の外から蜂が群れをなして集まってきた。蜂がやってきた方を辿っていくと、隣の畑に古い蜂の巣があり、中に長さ1丈ばかりの蛇がいたので、これを捕まえて殺した。蜂は竇の家で盛んに増えたが、不思議なことは起こらなかった。

 

「蓮花公主」は、異類の話であり、かつ夢幻の別世界の話でもあります。

馮鎮巒評に、「大槐安国の後、又世界にひらく」とあり、何守奇評にも、「蟻穴蜂房、後先に轍を一にす」とあるように、この話が、唐・李公佐の伝奇小説「南何太守伝」(蟻の巣の中に広がる夢幻の世界を描いた小説)の構想を借りて書かれたものであることは明らかです。

蟻と蜂は、生物としての生態・習性に共通の点が多く、詩文において、しばしば同義の比喩として用いられます。

また、竇旭が最初に夢から覚める場面で、

冀舊夢可以復尋、邯鄲路渺、悔嘆而已。

再び夢の世界を訪れたいと願ったが、邯鄲の夢路は遥か遠く、悔いて嘆くばかりだった。

とあるのは、唐・沈既済の伝奇小説「枕中記」(枕の中での波瀾万丈の半生を描いた小説)に基づく表現です。

ちなみに、主人公竇旭の「竇」は穴を意味しますが、「南何太守伝」と「枕中記」では、夢幻の世界への入り口は、それぞれ槐の木の穴、青磁の枕の穴という設定になっています。また、「旭」は朝日の意味で、夢から覚めることを暗示するものでしょう。

なお、夢と蜂とを併せた話としては、元・林坤『誠斎雑記』に見える「痩腰郎君」の故事に、

女の夢に男が現れた。男は、実は、蜂の化身であった。女は、のちに蜂蜜で富を得た。

という話があります。

こうした夢と蜂を結びつける着想の背景には、空中を舞う蜂の姿に人の肉体を出入りする霊魂の働きを象徴させる遊魂信仰があるとも考えられます。

北方ユーラシアには、人間の霊魂が蜂の姿になって身体から抜け出るという言い伝えがあります。また、日本の民話にも、眠っている男の鼻から飛び出した蜂に教えられて黄金の在りかを発見するという「夢買長者」の話があります。

さて、『聊斎志異』の異類譚に顕著な特色の一つは、作品全体に執拗なまでに次々と重ねられる異類暗示の表現にあります。

「蓮花公主」においても、女が蜂妖であることを暗示する表現が随所に見られます。以下に、その例をいくつか挙げましょう。

疊閣重樓、萬椽相接、曲折而行、覺萬戸千門、迥非人世。

楼閣が幾重にも重なり、無数の建物が連なっている中を曲がりくねりながら進むと、何千何万の家や門があって、到底この世のものとは思えなかった。

ここは、無数の六角形の小部屋が密集する蜂の巣のさまを巧みに描写しています。「椽」(たるき)は、屋根を支える斜めの横木のことですが、蜂の巣の六角形の斜線を連想させる文字として効果的に用いられています。

宮人女官往來甚夥。

宮女や女官たちの往来がおびただしい。

ここは、造巣・営巣・採蜜・育児など全ての仕事を担う雌蜂(働き蜂)が密集し、せわしなく動き回る巣のさまを描いています。
下文に「にわかに数十の宮女、公主を擁して出ずるを見る」云々とあるのも、多くの雌蜂が女王蜂を護衛するように常にその周りを取り囲むさまを連想させます。

酒數行、笙歌作於下、鉦鼓不鳴、音聲幽細。

幾度か杯が回るうち、笙の音と歌声が階下から聞こえてきた。かねや太鼓を鳴らすことはなく、優雅で繊細な音色だった。

蜂の王国の宮殿では、音楽は笙の音と歌声のみで構成されています。銅鑼や太鼓のような打楽器を鳴らさないのは、蜂の羽音のイメージにそぐわないためです。

洞房溫凊、窮極芳膩。

新婚の閨は、温かくもまた清々しく、何とも芳しくしっとりとしていた。

「溫凊」は、暖かで涼しいこと、つまり暑くも寒くもないことを言います。ここでは、新婚の閨が適温に保たれていることを表しています。
これは、巣の内部の空調管理に長けた蜂の習性を意識した表現です。蜜蜂は幼虫の発育に適した温度を維持するために、巣温が下がると雌蜂が胸の飛翔筋を振動させて運動熱を発生させ、一方、巣温が上がると水を採取してきて巣内に撒いて一斉に翅で扇いで温度を下げます。

妾從君來、父母何依。請別筑一舎、當舉國相從。

わたしがあなたについて来たら、父上母上は誰に頼ったらよいのでしょう。どうか別に一棟建ててください。きっと国中の者がついてまいるでしょう。

蜜蜂の場合、一番早く産まれた雌の子蜂が生長して女王蜂になると、元の女王蜂は若干の働き蜂を従え、旧巣を捨てて他に新たな巣を作ります。
「父母のために別棟を用意して欲しい」というのは、こうした蜜蜂の生態を意識したものです。

このように、『聊斎志異』の異類譚では、作者蒲松齢は、蜂に限らず、動植物の生物学的知識を存分に発揮しながら物語を創作しています。

「緑衣女」

もう一方の蜂妖の故事「緑衣女」は、やや異なる色彩を呈しています。
梗概は、以下の通りです。

書生のが寺にこもって勉学していると、ある夜、緑色の服を着た女が部屋に入ってきた。于は人間ではなかろうと気づいたが、その美しさに心を惹かれるまま、夜毎に訪れる女と親密に交わる。女が音楽に精通していることを知っ た于は歌を所望する。女はためらうが、于の熱意に負けて歌を歌う。歌い終わると、女はしきりに外を気にし、胸騒ぎがすると訴える。夜が明けて、女は于に見送りを頼んで帰っていった。 于が部屋に戻ろうとした時、女の悲鳴が聞こえ、駆けつけてみると、軒下で緑色の蜂が蜘蛛に捕らえられていた。于が救い出して机の上に置くと、蜂は硯の墨汁に身を浸し、「謝」の字を書き残して、いずこともなく飛び去った。

夜が更けて女子禁制の寺に美女が訪ねてくるという設定は、志怪では、狐狸の類が登場する常套です。さらに、男の方はこれが人間ではあるまいと思いつつも女と深い関係を持つところは、『聊斎志異』の異類譚に共通した展開です。

明・陸栗『庚巳編』に見える「芭蕉女子」と題する話は、「緑衣女」とよく似ています。

書生の馮漢が、夏の晩、書斎にいると、窓の外に緑の衣裳をまとった絶世の美女が立っている。女は焦氏と名乗り、部屋に入ってきた。書生は女が人ではないと疑い、衣を引っ張ると女は袴の端を断ち切って去った。手の中を見るとそれは芭蕉の葉で、庭の樹上のものと切れ目がぴったりと符合した。

「緑衣翠裳」の女が実は芭蕉の化身であったという話です。昆虫の蜂と植物の芭蕉という大きな違いもあり、「緑衣女」が直接これに基づいて書かれたとは考えにくいですが、細部において同じ表現やプロットを用いて似通った趣を醸し出していて、異類譚としての傾向は軌を一にするものです。

「緑衣女」においてもまた「蓮花公主」と同様、全篇にわたって異類暗示の表現がちりばめられています。以下に例を挙げます。

于驚起、視之、緑衣長裙、婉妙無比。

于が驚いて立ち上がり、よく見れば、緑色の衣に長い袴を身にまとい、この世に二人といない美しさであった。

「緑衣」は「緑蜂」の体色を表し、「長裙」は、踵まで垂れる長いスカートで、蜂の羽を表しています。

羅襦既解、腰細殆不盈掬。更籌方盡、翩然遂出。

薄絹の肌着を脱ぐと、その腰の細さは左右の掌で囲んでも余るほどだった。夜が明けかかると、飄然と立ち去って行った。

くびれたように細い腰は、蜂の形態的特徴の一つで、美しい女性の細い腰を「蜂腰」と呼びます。「飄然」は、ひらひらと翻るさまを言い、蜂が風に揺られながら軽快に飛ぶ姿を連想させます。

聲細如營、裁可辨認、而靜聽之、宛轉滑烈、動耳搖心。

その声は蠅の羽音のようにか細く、耳をそばだててやっと聞き取れるほどだったが、静かに聴くと、緩やかに抑揚する滑らかで澄んだ音色は、耳に染み入り心を揺さぶった。

上文にも、「卿が声嬌細なり」、「但だ只微声もて意を示せば可ならんのみ」などとあり、女の声の弱々しさ、繊細さが強調されていますが、これらはいずれも低く小さい蜂の羽音に由来するものです。

歌已、啓門窺曰、「妨窗外有人。」繞屋周視、乃入。

歌い終えると、戸を開いて外を窺い、「窓の外で誰かに聞かれたら大変だわ」と言って、部屋の周りをぐるりと回ってよく確かめてから戻ってきた。

女が部屋の周囲を一回りするさまは、蜂が敵を警戒して巣の周辺をぐるぐる旋回して飛ぶ様子を連想させます。

「緑衣女」は、『聊斎志異』の異類譚の中でもとりわけ筆の冴えた一篇です。但明倫評にも、

色を写し声を写し、形を写し神を写すに、倶に蜂に従い曲曲として絵き出す。(中略)短篇の中に賦物の妙を具う。

とあるように、姿形から風韻まで蜂の属性・習性に沿って細やかに生き生きと描かれています。

異類暗示の描写が重ねられるにつれ、読者は女が異類であると気づき、動植物の種類も容易に特定できるように仕組まれています。気づかないのは主人公の男だけで、作品の最後に至ってはじめて異類であることを知ります。
芝居「白蛇伝」で白素貞の正体になかなか気づかない許仙に観衆がやきもきするような舞台的効果が計算されています。
 
さて、「緑衣女」でもう一つ際立つのは、意図的に強調された男の性格描写です。于生は、寺の一室を借りて勉学に勤しむ科挙の受験生であり、うぶで世故に疎い男として描かれています。

于生は女心のわからない鈍い男であり、女の方が繊細可憐で細やかな情を持ち、しかも機知に富む賢さを持っているように描かれているのと好対照をなしています。

既而就寝、惕然不喜、曰、「生平之分、殆止此乎。」于急問之、女曰、「妾心動、妾祿盡矣。」于慰之曰、「心動眼瞤、蓋是常也、何遽此云。」

やがて床に就いたが、女は落ち着かない様子で、「あなたとのお付き合いももう終わりだわ」と言う。于が慌てて問うと、「胸騒ぎがするの。わたしの寿命もこれまでだわ」と言うので、于は慰めて言った。「心臓がドキドキしたり目がピクピクしたりなんてよくあることだよ。どうしてそんなこと言うのさ」

ここでは、「心動く」という語を女は「不安を感じる」という心理的な意味に用いて、切羽詰まった状況を訴えているのに、男は「動悸がする」という生理的な意味に解してしまいます。

異類の女を相手にする男にこのようなうぶで世故に疎い性格を与えるのは、情の純真さを表すためのものであり、『聊斎志異』の異類譚に共通して見ることができます。

蜂妖譚の系譜

清代以前の志怪の類においては、『太平広記』(巻473~479)「昆虫」の部に蜂に関する話が数篇見られます。

いずれも珍奇な蜂の種類を紹介するごく短い記述ですが、擬人化したものとしては、「蜂餘」と題する話が『稽神録』から採録されています。

科挙に赴く旅人が、ある老人の家に投宿する。そこには人が大勢いて、狭い部屋が百余間あった。空腹であることを告げると、珍しい甘美な食事を振る舞われた。床に就くと耳元でぶんぶんと音がする。夜が明け目を覚ますと、身は畑の中に横たわっており、傍らに大きな蜂の巣があった。旅人は中風を患っていたが、それ以来すっかり治ってしまった。

ここでは、1人の翁と大勢の客人が蜂の化身として現れ、蜂の巣を連想させる家屋の描写も見られます。しかし、話の焦点は蜂そのものにあるのではなく、蜂蜜が男の病を治癒した効能にあります。

蜂蜜は、『本草綱目』(巻39)「蜂蜜」の項に、

衆病を除き、百薬と和し、久しく服すれば、志を強くし身を軽くし、餓えず老いず、延年すること神仙のごとし。

とあるように、不老長寿の万能薬とされていました。

蜂を可憐な女性として描いた文学作品は、管見の限りでは、『聊斎志異』を以て嚆矢とします。

作者蒲松齢の目は、専らその小ささ、か弱さに注がれていて、「人を刺す飛虫」という蜂の第一義的な性格は完全に篩い落とされています。

『聊斎志異』の異類譚が他の志怪のそれと一線を画す所以は、人間の女性として描いても異類としての特性を失わず、また異類として描いても人間の女性としての風趣を失わない筆の妙にあります。

「蓮花公主」と「緑衣女」においても、蜂としての属性と人間としての風情が絢い交ぜになった女性の形象が、読者を夢幻と現実の交錯する妖しい世界へと誘うのです。


「蓮花公主」の連環画(中国語朗読)


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