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「拙」の系譜~潘岳・陶淵明・杜甫・白居易、および明清の小品文に見る文人精神


はじめに

 本稿は、「拙」の諸相を古代から明清まで通観し、中国の思想・文学にしばしば現れる文人精神の一典型として、その系譜を辿ることを目的とする。

 潘岳・陶淵明・杜甫・白居易らの詩文に見られる詩語としての「拙」に加えて、明末清初の小品文に見られる「拙」についても論及する。

 なお、本稿は、「愚の系譜」(投稿済)の姉妹編である。中国の文人精神における「狂」と「痴」をテーマとする考察の一環として、これらと関連深い概念である「愚」に続いて、今回は、「拙」について新たに考察を加えるものである。

一 「拙」の字義

 「拙」は、『説文解字』巻十三「手部」に、

巧ならざるなり。

とあり、清・段玉裁『説文解字注』には、

技巧を為す能わざるなり。

とある。また、白川静『字通』には、

 不器用の意。[老子]第四十五章に「大巧は拙なるが若(ごと)し」とあり、器用さを示さないことを尊ぶ風があった。守拙・養拙とは高尚な生活態度とされている。芸術の分野においても、それは重要な理念の一とされた。字はまた謙称に用いる。

とある。

 「拙」は、手偏が示すように、元来は、手先が不器用であることを指したが、日常における行動全般について、その仕方の拙さを言うようになり、さらには、詩文や書画の創作における一種の文人精神を示す概念となった。

 古くは、『老子』第四十五章に、次のような一節がある。

 大成は欠けたるが若きも、其れ用うれば弊(すた)れず。大盈は沖(むな)しきが若きも、其れ用うれば窮まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若く、大弁は訥なるが若し。

 真にすぐれたもの(「大成」「大盈」「大直」「大巧」「大弁」)は、その逆の様相(「欠如」「空虚」「屈曲」「拙劣」「訥弁」)に見えるという老子特有のパラドックスである。この中で、「拙」は、「巧」と対峙して置かれている。

 「巧」(たくみ)に対する「拙」(つたなさ)であるから、「拙」の原義は貶義である。動作に俊敏さを欠き、事を行うに不器用であること、また、人や物のさまが劣悪、粗悪であることを表す。

 「拙悪」「拙惑」「拙訥」「拙謀」「拙計」「稚拙」などは、いずれも原義のままの貶義の例であり、また「拙医」「拙匠」などは、手先が不器用という元来の意味を含む。「拙宦」「拙見」「拙作」「拙文」「拙妻」などは、自分自身に関する謙称である。

老子

 中国には、古来、貶義の文字に褒義の意味を認める伝統、つまり、元来は否定的なものを肯定的に捉え、そこに新たな積極的な価値を認めようとする伝統がある。

 「拙誠」は、行いは拙くとも真心のあるさまをいう。『韓非子』「説林上」に見える古諺に、次のようにある。

巧詐は拙誠に如(し)かず。

 また、漢・劉向『説苑』「談叢」に、次のようにある。

 智にして私を用うるは、愚にして公を用うるに如かず。故に曰う、巧偽は拙誠に如かずと。

 ここでの愚かさや不器用さには、否定的なニュアンスはなく、「智」や「巧」よりも、むしろ良しとされるのである。

 また、「拙直」は、「愚直」と同様に、必ずしもマイナスではなく、多くは褒義で用いる。「拙朴」もまた、飾ることなく質朴・淳朴であることをいい、プラスに解される要素を含む。

 なお、詩論においても、「拙」はしばしば「巧」と相対して用いられる。梁・劉勰『文心雕龍』「神思」に、次のようにある。

拙辞は或いは巧義を孕み、庸事は或いは新意を萌(きざ)す。

 また、宋・羅大経『鶴林玉露』巻三に、次のようにある。

 作詩は必ず巧を以て進み、拙を以て成る。故に作字は惟だ拙筆のみ最も難く、作詩は惟だ拙句のみ最も難し。

 さらに、清・施補華『峴傭説詩』に、次のようにある。

 五言古を作すに、寧ろ拙なるも巧なる毋(な)かれ、寧ろ樸なるも華なる毋かれ、寧ろ生なるも熟なる毋かれ。

 これらの詩論においては、「拙」は、拙いという意味ではなく、質朴自然であることをいう。

 「巧」を求めるのは、初歩的な段階であって、最後は、そうした技巧や修飾を越えて「拙」に達するとするものである。技巧を凝らしたものから質朴自然なものへと完成度を上げていくことを論じている。

二 詩語としての「拙」

(一)潘岳

 中国の歴代詩文において、「拙」は、文人精神を担う詩語としてしばしば用いられてきた。

 詩語としての「拙」を論じる際、とかく陶淵明の「守拙」が注目されるが、実は、潘岳の「閑居賦」が、これに先立つ。

 西晋・潘岳の「閑居賦」は、その序文も本文も、いずれも「拙」字に始まり「拙」字に終わる。 

潘岳

 潘岳は、元康六年(二九六)、五十歳の年に、都洛陽にあった自らの住居にて隠遁し、「閑居賦」を詠じた。その序文に、次のようにいう。

 岳嘗て汲黯の伝を読み、司馬安の四たび九卿に至り、而して良史之を書し、題するに巧宦の目を以てするに至り、未だ嘗て慨然として書を廃して歎ぜずんばあらず。
 曰く、嗟乎、巧は誠に之れ有り、拙も亦た宜しく然るべしと。

 序文の冒頭で、四たび九卿となった司馬安のことを司馬遷が「巧宦」(巧みな役人)と評したことに対して慨嘆を発し、そうした「巧」なる者がいるのであれば、逆に「拙」なる者がいるのも当然なことだと語り、自らの官界での世渡り下手を述懐する。

 下文に、自らの経歴を記し、二十歳から五十歳まで八度官職に就いたが、位が進んだのは一度のみで、あとは免職や除名を繰り返し、何度も官を移されたことについて、次のように述べている。

 通塞(つうそく)に遇有りと雖も、抑々(そもそも)亦た拙なる者の効(しるし)なり。

 出世できるか否かは、時の運とはいえ、結局は、やはり自分の「拙」なる性分が招いた結果であると語る。そして、さらに、

 昔、通人和長輿の余を論ずるや、固より多を用うるに拙しと謂えり。多と称するは則ち吾豈に敢てせんや、拙しと言えるは信(まこと)にして徵(しるし)有り。
 方今俊乂(しゆんがい)官に在り、百工惟(こ)れ時あり。拙き者は以て意を寵栄の事に絶つべし。

と述べる。和嶠から与えられた「多を用うるに拙し」という人物評をはじめ、ここでは、繰り返し「拙」字を用いて、自らが官界ではすでに役立たずの存在であることを語る。

 続いて、「閑居賦」本文においても、その冒頭で、次のように自らの「拙」を語る。

 吾顏の云(ここ)に厚しと雖も、猶お內に甯蘧に愧ず。道有るも吾仕えず、道無きも吾愚ならず。何ぞ巧智の足らずして、拙艱の余り有るや。
 是に於いて退きて洛の涘(ほとり)に閑居す。

「道有るも仕えず」ゆえに蘧伯玉に恥じ、「道無きも愚ならず」ゆえに甯武子に恥じるという。
 
 字面の上では、自虐的な口吻で語っているが、実は、一連の「拙」字が、謙遜の辞ではなく、自らを卑しめているわけでもないことが、末尾の二句に次のようにあることによって明らかになる。

衆妙を仰いで思いを絶ち、終に優遊して以て拙を養わん。

 「拙宦」であること、つまり、役人としての世渡りが下手であることを、むしろ誇らしげに語っているさまが行間に現れている。 
 
 「養拙」とは、巧みに立ち回ることをやめて、「拙」なる自らの性分を大切に養い育てていく、という積極的な志向の語である。

 悠々と構えて、自らの道を行くこと、自分らしい本来の生き方を貫くことを表明しているのである。

 中国の古典詩文における「拙」の系譜を考える上で、潘岳の「閑居賦」は、見過ごすことのできない重要な作品である。

 とりわけ、「閑居賦」によって、隠居という主題と「拙」という概念が結びついたことに意義がある。「拙」は、後世、官界から身を退いて隠居する際に、文人が決まって口にする常套語となるのである。

(二)陶淵明

 こうした隠居と「拙」の関係は、東晋に至って、陶淵明に受け継がれる。

 「歸園田居」五首は、義煕二年(四〇六)、淵明四十二歳の年、彭沢県令を辞して郷里に帰った翌年の作である。

 官界での不本意な生活と訣別し、郷里の田園に帰って、自適の生活を送る喜びを歌っている。

少無適俗韻  少(わか)きより俗に適する韻無く
性本愛邱山  
性 本(もと) 邱山を愛す
誤落塵網中  
誤りて塵網の中に落ち
一去三十年  
一たび去りて 三十年
羈鳥戀舊林  
羈鳥 旧林を恋い
池魚思故淵  
池魚 故淵を思う
開荒南野際  
荒を開く 南野の際
守拙歸園田  
拙を守りて園田に帰る

陶淵明

 「拙」は、世渡りが下手なことをいう。愚直で要領の悪い生き方ではあっても、小賢しい知恵を働かさない、世俗におもねらない、という信念を持った生き方であり、これは謙遜というより、むしろ自己主張の言葉である。

 「守拙」は、そうした生き方を貫くことによって、純朴な本性を保つことをいう。

 生き方が不器用だというのは、自分を世俗に合わせることができないのではなく、合わせようとする意志を持たないのである。

 拙い自分の姿をそれで良しとし、そうした自分の在り方を大切に守っていこうとする態度であり、「拙」なる生き方の中に、本来あるべき人間的生活の営みを見出そうとしているのである。

 陶淵明は、つねづね自らの生き方を「拙」とみなしていたようである。 
 「與子儼等疏」に、  

性剛才拙  性は剛にして才は拙
與物多忤  物と忤(さから)うこと多し

とあり、世俗と同調できない性癖を語っている。

 また、「雑詩」其八に、

人皆盡獲宜  人は皆尽く宜しきを獲たるに
拙生失其方  拙生 其の方を失う

とあり、人と比べて自分の生き方が不器用であることを歌う。

 しかし、同詩の最後の二句に、

理也可奈何  理や奈何すべき
且爲陶一觴  且(しば)らく為に一觴を陶(たの)しまん」

とあるように、「拙」なる生き方が招いた自らの境遇に対する悲愴感は無く、貧窮の道を楽しむ余裕すら感じさせる。

 そして、「感士不遇賦」では、次のように歌う。

寧固窮以濟意  寧ろ固窮以て意を済(わた)すも
不委曲而累己  委曲して己を累(わずら)わせず
既軒冕之非榮  既に軒冕は之れ栄に非ず
豈縕袍之爲恥  豈に縕袍を之れ恥と為さんや
誠謬會以取拙  誠に謬会して以て拙を取るも
且欣然而歸止  且らく欣然として帰止せん
擁孤襟以畢歳  孤襟を擁して以て歳を畢え
謝良価於朝市  良価を朝市に謝せん

 ここで「取拙」というのは、「歸園田居」において「守拙」というのと同義である。

 「歸園田居」では、「守拙」に至った動機について主に歌っており、「守拙」そのものの心意については語られていないが、「感士不遇賦」においては、明白にそれが語られている。

 頑なに己を屈することなく貧窮を守り通し、官界における栄達を棄てて、粗末な生活に甘んじる、そうした了見が見当違いであることを自ら認めつつ、「拙」なる生き方をあえて「取る」と詠じているのである。「守る」というよりも、より積極的に「拙」を肯定した言辞である。

 潘岳の場合と同様に、陶淵明における「拙」も、隠遁生活と深く関わっている。

 「歸園田居」のみならず、「拙」の用例が見られる詩は、いずれも隠遁直後、または隠遁時期の作であり、「拙」は、いわば隠遁生活における一種の精神的支柱となっていたのである。

 前述の通り、「拙」を集中的に採り上げ、隠居と関連づけて詠じたのは、潘岳の「閑居賦」が最初であった。

 しかしながら、潘岳の場合、彼は貴族的生活を一貫して維持しており、「閑居賦」を書いた後も、実は、出仕しており、「拙」は、いわばポーズであったように思える。

 これに対して、陶淵明の場合は、郷里の田園での隠遁生活において「拙」を守らんとしたことから、彼の歌う「拙」には、単なる表面的なポーズではなく、真実性と精神性が認められるようになる。

 詩語としての「拙」は、潘岳から陶淵明へ受け継がれる過程において、内面性の高いものへと深化を遂げているのである。

(三)杜甫

 唐代に至ると、「拙」は、詩語として詩人たちの間に定着する。
 『全唐詩』には、二百九十四箇所の用例が見られる。杜甫には、二十七例がある。

 天宝十四載(七五五)の作「自京赴奉先縣詠懷五百字」は、杜甫の代表作の一つである。この詩の冒頭は、次のように歌う。

杜陵有布衣  杜陵に布衣有り
老大意轉拙  老大 意 転(うた)た拙なり
許身一何愚  身を許すこと 一に何ぞ愚なる
竊比稷與契  窃(ひそ)かに 稷と契とに比す

 無官のまま成すことなく年を重ね、老いるにしたがってますます世間から遠く離れていく、そうした自分自身の心境を「拙」の字を以て表している。

 ここでは、世の中と調子が合わないことを歎いているわけではなく、むしろ、もはや調子を合わせようとする気がないことを表白している。

 そうした状況にありながら、身の程知らずにも、稷と契(いずれも舜帝に仕えた名臣)に比べようとしている自分自身を「愚」と称している。

 「拙」と「愚」という自嘲的な詩語を列ねながらも、詩人の傲岸なまでの自負を感じさせるところであり、老いぼれてもなお天下の政治に関わらんとする杜甫の静かな意気込みを伝えている。

杜甫

 のち、乾元二年(七五九)、秦州から同谷へ向かう際の作に、「發秦州」がある。

我衰更懶拙  我 衰えて更に懶拙
生事不自謀  生事 自ら謀らず
無食問樂土  食無くして 楽土を問い
無衣思南州  衣無くして 南州を思う

 流浪生活の中で老いが迫り、ますます「懶」(ものぐさ)かつ「拙」になり、いよいよ自ら生活を謀るのが難しくなったことを歌う。

 天宝十載(七五一)、病床に伏していた時の作「投簡咸華兩縣諸子」に、

自然棄擲與時異  自然 棄擲(きてき)せられて時と異なる
況乃疏頑臨事拙  況んや乃ち疏頑にして事に臨みて拙なるをや
饑臥動卽向一旬  饑臥 動(やや)もすれば即ち一旬に向かう
敝衣何啻聯百結  敝衣 何ぞ啻(ただ)百結を聯(つら)ぬるのみならんや

とあるのも同様で、杜甫は貧窮した生活を歌う時に、しばしば「拙」の字を用いる。

 官界での世渡り下手、諸々の世事における不器用さ、というものが自らの生活の困窮を招いているのだと言わんとするかのようである。

 さらに、のち、宝応元年(七六二)、成都の浣花草堂に閑居していた時の作に、「屏跡」三首がある。その第二首に、次のように歌う。

用拙存吾道  拙を用て 吾道存す
幽居近物情  幽居 物情に近づく
桑麻深雨露  桑麻 雨露深く
燕雀半生成  燕雀 半ば生成す

 自分は「拙」でありながら、自分自身の道を保っていると語っている。

 浣花草堂での生活は、杜甫の生涯において比較的平穏な日々であった。
 ここでは、「拙」は、もはや困窮の元凶ではなく、「拙」であるからこそ自分の生き方を貫き、周囲の自然とも一体となれたのだ、という喜悦の心境さえ窺うことができる。

 杜甫の「拙」は、潘岳や陶淵明に見られるような隠居や閑居に関わる措辞ではない。杜甫は、つねに天下国家のことに携わろうと希求しながら、そうした理想とは乖離した境遇に置かれている自分自身のことを「拙」と称しているのである。

(四)白居易

 中唐の白居易もまた「拙」字を多用した詩人の一人である。『全唐詩』には、四十六個の使用例がある。

 白居易の「拙」の用例については、「北院」詩に、

性拙身多暇  性 拙くして 身 暇多く
心慵事少緣  心 慵(ものう)くして 事 縁少なし

とあり、また「自喜」詩に、

身慵難勉強  身 慵くして 勉強し難く
性拙易遲廻  性 拙くして 遅回し易し

とあるなど、しばしば「慵」字と合わせて使用されている。このことからもわかるように、白居易の「拙」は、閑適の情を歌う際に用いられる。

白居易

 白居易が自ら分類した詩集の中で、「閑適」の類に分類された詩には、「詠慵」と並んで、「養拙」や「詠拙」など、「拙」そのものを詩題としている作が見られる。

 「詠拙」詩の冒頭は、次のように詠う。

所禀有巧拙  禀(う)くる所 巧拙有り
不可改者性  改む可からざる者は性なり
所賦有厚薄  賦せらる所 厚薄有り
不可移者命  移す可からざる者は命なり
我性拙且蠢  我が性は拙にして且つ蠢なり
我命薄且屯  我が命は薄にして且つ屯なり

 「巧拙」は、その人のもともとの本性であり、変えられるものではないという。そして、己が「拙」であることの根拠として、下文に、

亦曾擧兩足  亦た曽て両足を挙げ
學人蹋紅塵  人を学びて紅塵を蹋む
從茲知性拙  茲に従りて性の拙なるを知る
不解轉如輪  転じて輪の如くなるを解せず

とあるように、自分は世俗的な名利を齷齪と追い求めることができないからだと語る。

 白居易にとって不器用な生き方とは、官界での栄達や利得に身をやつすことなく、人生の幸福を悟って恬淡として生きることに等しい。

 「拙」は、いわば江州閑居時期の白居易が心掛けていたライフスタイルとも言えるものであった。

 以上のように、詩語としての「拙」は、初めは潘岳・陶淵明におけるように、専ら隠遁生活と関わりを持つ場面で用いられたが、しだいに隠遁とは特に関わりなく、広く詩人の生き方そのものを象徴するようになった。

 官界における不如意や、世俗的価値観に対する反撥を示す際、詩人たちは「拙」の字を以て自らの不遇を慰める弁明としたり、己の精神生活を是認する拠り所としたりしたのである。

三 明清の小品文における「拙」

 明清の小品文には、「狂」「痴」「癖」「愚」などと並んで、「拙」なる生き方を讃美する数々の文章が残されている。

 清初の張潮『幽夢影』には、次のような一節がある。

 痴と曰い、愚と曰い、拙と曰い、狂と曰うは、皆好(よ)き字面に非ず、而れども人は毎に楽しみて之に居る。
 奸と曰い、黠と曰い、強と曰い、侫と曰うは、是に反す、而れども人は毎に楽しみて之に居らざるは、何ぞや。

 「痴」「愚」「拙」「狂」などは、みな元来マイナスの語気のある文字であるが、人々はつねに喜んでその境地に身を置こうとするのだという。

『幽夢影』

 また、明末の程羽文『清閑供』の「刺約六」では、「癖」「狂」「懶」「痴」「拙」「傲」など、六つの病的習性を取り上げ、そうした病態を容認し、極端な個性尊重の時代風潮を示している。

 明末清初は、完全無欠な聖人君子よりも、むしろ疵や癖のある奇人変人を尊び、そうした個性的な人間の姿に「真」を見出そうとした時代であった。

 礼教的に立派な人間は、俗物・偽善者として敬遠され、むしろ世間的には無用者であったり、偏屈で風変わりな人間であったりする方が良しとされたのである。

 明末の袁宏道に「拙效傳」と題する文章がある。四人の愚鈍な下僕の逸話である。

 「狡」なる者が、罪を得て禍に遭う一方、四人の「拙」なる者が、事なきを得て平穏に暮らしたという。その末尾に、次のようにある。

 余が家の狡猾の僕は、往往にして過を得、独り四拙のみ頗る能く法を守れり。其の狡猾なる者は、相継いで逐去せられ、身を資するに策無く、多く一二年を過ぎずして、凍餒を免れず。
 而して四拙は過無きを以て、坐して衣食し、主者は其の他無きを諒して、口を計えて之に粟を受(あた)え、唯だ其の所を失うを恐るるのみ。
 噫、亦た以て拙なる者の効(しるし)を見るに足れり。

 諧謔的な口吻で描かれた処世訓である。「巧」は「狡猾」に置き換えられ、「拙」なる者の「無用の用」が称えられている。

袁宏道

 同じく明末の張岱は、『琅嬛文集』「山民弟墓誌銘」の末尾において、末弟の張岷(字は山民)を称えて、次のように語る。

才にして拙の若く、慧にして痴の若し。

 才知があるのに拙い者のようであり、賢いのに馬鹿者のようである、と称えている。本当は優れていながら「拙」や「痴」のようであるからこそ称賛に値するのである。

張岱

 明末の洪自誠『菜根譚』は、儒道仏の三教を融合した格言集として名高い。この中にも、原義の「拙劣」を超えて、文人精神を担う語として意味深い「拙」の用例を見出すことができる。

 前集第五十五条には、

 奢る者は富みて而も足らず、何ぞ倹なる者の貧にして而も余り有るに如かん。能ある者は労して而も怨みを府(あつ)む、何ぞ拙なる者の逸にして而も真を全うするに如かん。

とあり、能ある者が、懸命に苦労しながら人の怨みを買う一方、「拙」なる者は、気楽な自然体を保ち、天性を全うしていることをいう。

 また、前集第七十一条に、

 十の謀九成るも未だ必ずしも功を帰せず、一謀成らざれば則ち訾議叢(むら)がり興る。君子は寧ろ黙して躁なること毋く、寧ろ拙にして巧なること無き所以なり。

とあり、同じく第百十六条に、

 巧を拙に蔵し、晦を用てして而も明にして、清を濁に寓し、屈を以て伸と為す、真に世を涉るの一壺にして、身を蔵するの三窟なり。

とある。

 君子の心得として、「巧」であるよりはむしろ「拙」であれと説き、安全な世渡りの方策として、「巧」を内に隠して「拙」のごときであれ、と説いている。

『菜根譚』

 概して、明清の小品文では、「拙」なる生き方が、一種の「明哲保身」の人生訓・処世術とされたり、稚拙な生き方こそが本来の人間らしい「真」の生き方とされたりすることが多い。

 なお、そうした人間の生き方や性癖とは関わりのない文脈で、「拙」の字が用いられる場合もある。

 張潮『幽夢影』に、

 梅辺の石は宜しく古なるべし、松下の石は宜しく拙なるべし、竹傍の石は宜しく瘦なるべし、盆內の石は宜しく巧なるべし。

とあるのは、自然物である石について、その「拙」なる妙趣を語っている。
 
 また、『菜根譚』後集第九十四条に、

 文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。一の拙の字無限の意味有り。
 桃源に犬吠え、桑間に鶏鳴くが如きは、何等の淳龐(じゅんろう)ぞ。寒潭之月、古木之鴉に至りては、工巧の中に便ち衰颯の気象有るを覚ゆ。

とあるのは、詩文における「拙」の筆致を語ったものであり、いたずらに「巧」を凝らしたものに比べて、素朴で味わい深いものとして大いに称えている。

おわりに

 本稿は、歴代の「拙」について、潘岳・陶淵明・杜甫・白居易らの詩語、および明清の小品文を中心に、大雑把にその含意と用法を辿ってきた。

 詩語としての「拙」は、詩人によって、それぞれ用いられ方は異なるが、概ね、官界や俗世において「巧」な生き方ができない時、あるいは進んでそうした生き方を捨て去った時に、詩人たちは「拙」字を以て自らの胸懐を表した。

 小品文における「拙」の使われ方もまたさまざまであるが、とりわけ明末清初は、諸々の概念の褒貶が顛倒した時期であり、そうした時代背景の中で「拙」なる生き方が、「狂」や「痴」などと並んで、もてはやされるに至ったのである。

 なお、本稿では触れなかったが、中国の書画においても、「拙」は「巧」と相対して、つねに問題とされた概念である。

 中国歴代の絵画においては、しばしばその風格として「古拙」なることが問われ、「拙趣」を醸すことが求められた。

 また、書論においても、「拙」を尊び、「拙」を書美の極致とする説が見られる。

 これら芸術の分野における「拙」については、いずれ稿を改めて論じたい。

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