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還暦ゴルファーの徒然草 「ポンコツで愛しい私の体」

こんばんは。
現在、悪性リンパ腫で抗がん剤治療中の還暦ゴルファーですが、この記事はちょうど右頸部のしこりが大きくなった7月3日に書いたものです。
noteは日付も残っていて便利ですね。

まだ唾液腺の炎症か何かだと思っていた頃で、この後次々に出来るしこりに異変を感じて病院へ走る事になります。

そして8月4日に癌宣告を受け、8月16日に抗がん剤治療に入りました。

病を得ると生活は激変します。
仕事も治療費も日常生活も。

悪性リンパ腫の闘病で下書きのままでしたが「最終6クール目を前に完成させたい」と思い、加筆修正してupする事にしました。


ポンコツな私の体

以前noteで1歳の頃に中耳炎から難聴になり、毎日耳鼻科に通ったお話をしましたが、それ以降も様々な病気と向き合って来ました。

今日はそのお話を。
同じ病に向き合っている方や、似た症状をお持ちの方の一助になれば幸いです。


難聴 1歳〜15歳】

時計の秒針の音が聞こえる様になったのが15歳。4歳の頃は半年ほど全く聞こえない時期がありました。風邪→中耳炎→難聴


蓄膿症 中学1年】

中学に入った頃から鼻詰まりに悩まされる様になり、息をするのも口呼吸で頭痛や頭の重さから逃れる為に市販の点鼻薬を利用する毎日。

中学2年まで様子を見ていたものの改善する兆しがないので、夏休みに手術をする事が決定。
夏休み直前の診察時に日程を決めることになっていましたが、その頃には自覚症状が改善。

レントゲンを撮ると相変わらず蓄膿症の所見はあるものの、手術をしても完治するとは限らないらしく見合わせることになり手術を回避。

風邪をひくと酷いことになる以外は普通に過ごせるようになりました。


トキソプラズマによる眼底出血 高校3年】

高校3年生になった春、ある朝目覚めると右目が見えないのです。もやもやして、ちっとも焦点が合わないというか見えないのです。

何度目をこすっても。。

「目を閉じて開けたら見える様に戻っているんじゃないか」と、何度も何度もやってみますが見えないのです。

「疲れているから?」「どうしよう・・」と困惑したまま2日が経ちました。3日目に初めて母に伝え、一人で眼科へ。

様々な検査をした後「注射をしますから、絶対に目を動かさないで」と言われ、眼球に注射をされました。

「え!え??」と思っている間に注射終了。
経験のない痛さでした。

白目だけが、注射液を含んで「ぼよ〜ん」とふくらんでいました。結局、紹介状を頂き大学病院へ行くことに。

血液検査でトキソプラズマ抗体が異常に多く、これによる眼底出血とのことでした。
レーザー照射と服薬による気休めの治療。

治ることはないとの事でした。
左目も同様に眼底出血していたのですが、わずかに一番大切な場所を外れていた為自覚症状はありませんでした。

通院の度、眼底を見るために瞳孔を開くのが苦痛でした。今は医療機器も進化していて、簡単に眼底写真を撮る事が出来ます。

一番見たい場所のすぐ右が欠損した形なので、好きだった英語が嫌いになりました。
視力も集中力も一気に急降下です。

結婚が決まった24歳の頃、仕事もプライベートもハードでレーザー治療をしていなかった左目が見えにくくなりました。

すぐに近くの眼科を受診したところ、再発を告げられました。3回まで再発事例があるとか、最高齢で40代半ばで再発したとか色々な話をお聞きしました。

「トキソプラズマで視野欠損して、これだけの視力が残っているのは初めて見た」そうです。

私ってラッキーですね。

大学へ行って、仕事をして。
やりたいことをやってきましたから。

それでも、体力がなくなると再再発の可能性が十分あることを聞き「いつか見えなくなる日が来るかも・・」と思いながら25年以上を過ごしてきました。

50代になってようやくホッとした事を覚えています。

ところが、今回の抗がん剤治療で再燃の可能性があるとの事で眼科でも診察を受けています。

命が掛かった治療なので仕方がない事なのですが、何ともやり切れません。


あ、妊娠中にも「水頭症の可能性もありますからね」と言われましたっけ。無事に生まれて、目が見えていると分かった時は本当にホッとしました。

ここまでの病気は両親も知っていた事です。
でも、病気になる度に「お前は業が深い」と責められるか「20歳までの病気は親の責任」と自分を責めるかしか出来ない母を見て、本当に切なくて悲しくて。

ただ一言「大変だけど頑張ろうね」と寄り添って欲しかっただけなのに。

そう言えば父は何一つ言葉を掛けてくれる事はなかったなぁ。知っていたとは思うのだけど。

そんな感じだったので、トキソプラズマの再発も、それ以降の病気も何一つ両親には伝えていません。


甲状腺機能後退症(橋本病) 21歳】

検査を受けて診断されたのは21歳の時ですが、症状は幼い頃からありました。

人より体格も運動神経も良いのに、小学校の遠足の帰路は疲労困憊。球技大会の翌日も起き上がれずに休んだり。マラソンやスポーツテストの1kmが完走出来ませんでした。

短距離は早かったので、先生も親も「怠け者」のレッテルを私に貼りました。

私は私で「こんなにしんどいのに、皆どうして走れるのだろう??」と不思議に思っていました。私は目の前が真っ暗になってしまうのに本当に凄いなぁって、自分の事を怠け者だと認めていました。

友人の彼がDR.で検査を勧めてくれて、橋本病の診断を受けた時には心からホッとしました。

怠け者でも何でもなく、病気のせいだったんだ」と分かった事で、本当に救われました。
21歳まで長かったです。

診断以降は、無理をせず【疲れたと思ったら休む】という生活を心がけています。

もっと早くに病気の事が分かっていれば、母の「怠け者!」という罵声も減っていたかも…と残念です。

親も子も知識がなくて、病気だと分からないまま15年くらいを過ごした事になります。今はwebなどで簡単に調べられるので、いい時代ですね。



五十肩 49〜52歳】

左肩半年、その後右肩も20cm程しか上がらなくなりました。血流が極度に悪くなり、コンクリートの塊をぶら下げている様で毎日泣いていました。

眠れなくなり、夜が恐くなるというのを初めて体験しました。

どちらも2年ほどかかり、なんとか回復。
右は肩甲骨が癒着し、今も可動域に制限があり動かすとゴリゴリ音がします。

でも元気にゴルフを楽しんでいます!
今悩んでいる方も大丈夫。必ず抜け出せます。



シェーグレン症候群 59歳】

沖縄へ来てから喉や目が乾くなぁと思っていましたが、通っていた耳鼻科で「橋本病」である事を話すと「シェーグレンが疑われるので、一度生体検査をしてみましょう」と。

検査の結果、シェーグレンであると確定診断を受けました。夕方には痛くて目を開けていられなくなるので、目薬を処方して貰っています。



難聴と五十肩は治りましたが、他の病気は今も私の身体と共にあります。

本当にポンコツですね。
でも、結構ギリギリの所で頑張ってくれています!こうして還暦まで元気で、癌と闘うだけの体力が残っていますから。

やっぱり「よく頑張ってるよねー!」と褒めてあげたいくらい愛しいです。


橋本病もシェーグレンも自己免疫疾患です。
そして、このシェーグレンが悪性リンパ腫を引き起こした可能性が高い上、副作用をも酷くしている様です。


一番大切な事は「自分の状態を知っていること」だと思うので、何かがおかしいと思ったら病院へ行って下さい。

その上でどうしたいかを自分自身に問いかけてみて下さい。


今あるものに満たされている幸せ。
失くした物を振り返らない。
それは意味の無い事。

様々な病を得て、若い頃に得た考え方です。
この考え方があったから、様々な事にチャレンジし楽しい毎日を過ごす事が出来た気がします。

闘病中の今も、副作用は辛いですが毎日楽しいです。変かな?

幸せはきっと貴方の足元にありますよ。


長文を最後までお読みくださり、ありがとうございました。体調の変化にはくれぐれもお気をつけ下さいね。



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