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夫れ火は形厳なり、故に人灼(や)かれること鮮(すくな)し。水は形懦(だ)なり、故に人溺るること多し。 20200425_C/1

 新型コロナによる混乱を利用して詐欺を働いたり、空き巣を働いたり者が居るらしい。

 悲しい事だ。

 阪神淡路大震災の時は、火事場泥棒が現れない日本の事を世界は称賛したものなのに。
 江戸時代の火事場泥棒は、即刻市中引き回しの上、磔(はりつけ)になったとか。
 現在の刑法では、再犯や凶器・脅迫と言う手段を使った場合、罪が加重されるようだが、火事場泥棒に格別加重する要件は無いようだ。

 子供を虐待したり殺したり、女性を狙ったりする犯行も含めて、道義的・道徳的に問題のある場合は、同名の罪状でも、規定を超えて、罰を加重すべきたという意見は多いだろう。

 

 韓非子は、「法家」の人であるから、制定された法は、絶対であり、その適用においては、感情はもちろん、道義も道徳もさしはさむことを許さない。

 法家の対極に在る思想が、孔子の論語を軸とする「儒教」だ。韓非子はその著書の中で、しばしば、孔子を批判する。

 孔子は、人民がみんな、道徳をよく理解した徳の高い人物になれば、世の中は丸く治まると唱えている。しかしこれは、イスラム教の国家が、コーランの規定を守らせているのと同じである。韓非子は、人は誰しもそれほど徳の高い人間になれるわけではないのだから、「法」を以て縛り、統制すべきだと唱えている。

 このことから、韓非子は、人を信じない性悪説の人で、「非情」で知られたイタリアの思想家マキャベリにちなんで、東のマキャベリと呼ばれるようになったのである。

  しかし、法の適用においては「非情」であれ、と言うが、法を制定する(すなわち立法)においては、かなりに人情を考慮することを主張している。

 八経篇(はちけいへん)
 天下を治むるには必ず人情に因る。人情には好悪有り。故に賞罰用うべし。

 彼は決して人情を無視しているわけではない。むしろ、利益を求め、刑罰を恐れる人間本来の資質を利用して、「法」を制定せよと言っている。

すなわち、同じく八経篇
 爵禄は賞する所以なり。民、賞する所以を重んずれば則ち国治まる。
 罰は禁ずる所以なり。民、禁ずる所以を畏るれば則ち国治まる。

 爵禄は、地位とお金のこと。簡単に言えば、褒めるべき時は地位と金を与え、禁ずることを犯した時は罰すれば、国は治まる。と言うわけである。

 

 法律は、万民を縛るものではない。普通に暮らしている者にとっては無害である。よからぬ企みで、不当な利益を得ようとする者、他者に迷惑を掛ける行為を行う者。これらの人々の自由を一部制限し、普通に暮らす人々の平穏を守るために有るのだ。

 また、あまり日本の法律では見当たらないが、上記に挙げたとおり、善い行いには賞を与える制度が有れば、普通に暮らす人たちの励みにもなるだろう。

 つまり韓非子は、孔子のように、国民に聖人のような徳を備えろとは言わない。
 「自由に振る舞っていいから、人に迷惑をかけない程度の最低限度のルールを守れ。そして野心が有るのなら、国が定めた方向性で精励せよ。さすれば、これを賞する。」と言っているのだ。

 私には、どうにも非情な思想家とは思えない。

 そして極めつけが表題の言葉である。

 「夫れ火は形厳なり、故に人灼(や)かれること鮮(すくな)し。水は形懦(だ)なり、故に人溺るること多し。」内儲説篇 上
 (火というものは見た目からして恐ろしい。だから火で怪我をする者は少ない。ところが水は見た目が優しいので、水で溺れてしまう人が多い。)

 この言葉は、人情と言うものをとことん観察している韓非子だからこそ、出てきた言葉だと私は感じる。

  火事場に老人を騙す卑劣漢も、外出できない鬱憤を虐待で晴らす内弁慶も、ひったくりも痴漢も、休業中の店舗を物色する連中も、やっている連中は、「大した罪ではない。捕まっても刑務所に行くことは少ない。」、つまり「水」だと思っている。しかし、犯している罪は、江戸時代なら、市中引き回しの上、磔だ。

 だから、刑罰を強烈に上げて、「火」にしてしまう必要が有るのである。

 しかし、軽罪を侵すものの多くは、少年である。
 厳罰を科すことは、彼らの更正を妨げはしないだろうか?

 これは韓非子の意見ではないが、私はこう思う。更正の妨げとなるのは、拘束される期間の問題だと。だからここでいう重罰は、短期間で厳しいものであればよかろう。

 身体に対する刑罰が最も短期間で効果的なのだが、野蛮であり、人によっては禍根を持つ。だから、無給で、リスキーな仕事をしてもらおう。 

 現在、新型コロナの感染の危険の中、社会維持のためやむを得ず働いている人がいる。エッセンシャルワーカーと言われる人たちだ。病院や介護施設・公共機関等に携わる人たちは、営利すら目的でない。

 もちろん彼らは、罪人ではなく、使命感に駆られてその職務を果たしてくれているのだが、コロナ騒ぎを利用した火事場泥棒は即決裁判で有罪無罪だけを判断し、全員これらの仕事(特に自分がターゲットにした老人介護施設がおすすめ)の支援に回ってもらい、その後で量刑を審議する裁判を行えば、結構反省していて、検察・被告、双方とっても気分の良い判決が期待できると思う。

 

 割れ窓理論と言う有名な理論が有る。

 町の中で、いくつか空き家になった建物が有り、一部のガラスが割れていたが、町の人たちは、大した問題ではないと放置していた。しかし、そこは管理が行き届いていない地区であると感じた不良や良からぬことをたくらむ輩が目を付け、住み付き、割れ窓は次第に増えてゆき、やがて、町の治安が大きく悪化する。と言う考え方だ。

 

 韓非子は言う。軽犯罪を軽んじることは、道徳の荒廃を生み。道徳の荒廃は、重罪の苗代になる。

 人生が上手く行かず引きこもっていた人が、自殺を思い立って、道ずれに大量殺人を企てるケースが増えたが、これらは、引きこもりが問題と言うよりも、完全に道徳の欠如だ。殺される側にも未来が有り、家族や近親者がいるという、単純な発想が欠如している。

 軽犯罪や詐欺罪を軽んじて、道徳的荒廃を見過ごしてきた影響ではないだろうか?

 

 孔子の言う道徳を重視する考え方はかなりの部分賛成できる。
 実際、韓非子もその手法を批判しつつも、その理想については、取り込んでいるところが多い。
 しかし、人のほとんどは、それほど高い理想にたどり着けないし、求めてもいない。

 そこで韓非子は、「法」により、理性的で合理的な社会だけでなく、人情的な道徳をも兼ね備えた社会の構築を目指した。その理念の一つが、この軽罪にこそ厳罰をと言う考え方である。

 

 法律用語で、法の利益を行使することを「援用」と言う。

 刑罰(刑法)もまた、人を縛るものではなく、最低限の道徳が維持されるために「援用」されるべきものだと思われる。

 韓非子は、非情な思想で人を縛ろうとしているのではなく、法を効果的に援用する術を説いているのである。

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「我が子を食らうサトゥルヌス」フランシスコ・ゴヤ

 ローマ神話に登場するサトゥルヌス(ギリシャ神話ではウラノス)は将来、自分の子に殺されるという予言に恐れを抱き5人の子を次々に呑み込んでしまう。

 この絵を家に飾りたいと思う人が居るのだろうか?と甚だ疑問に感じる。それほどに近寄りがたい迫力が有る。

 この神話は権力者の異常な猜疑心を揶揄しているのかもしれないが、私は本稿を書いていて、思わずこの絵を思い出した。

 些細なほころびが「道」の乱れを生み、ひいては国家を腐敗させる。国家は時に、例え受け子であろうと、その罪が「道」に照らせ合せて大きく問題であると判断される時は、首をかじって飲み込むような苛烈な対処により、「火」にならなければならない。

 とくに、教育水準が低い若年層に対しては、刑罰の質を考えることも重要だが、まず、理屈抜きに、国家がサトゥルヌスになって、近寄らせないことが重要である。

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