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ネット長者達の黄昏          20190806_C/4

1 労働価値説

 商品の価格は通常原材料+付加価値+純利益によって定められる。このうち付加価値を決めるものは、その商品を完成させるまでに注ぎ込まれた「労働の量」によって決定されると言われている。

 アダム・スミスの時代では、資本主義の、利益の多くは、次への投資につぎ込まれた。そしてその中で最もウェイトを占めるのは、投下した労働力と考えられた。

 実際この計算方法はかなり最近まで正確だった。

 この考えは、資本主義経済においては重要な要素をもたらす。

 トリクルダウンと呼ばれる現象である。(金持ちと喧嘩しよう - 説難で紹介すると言って、ずいぶん遅くなりましたが(-_-))

 さっきも言ったように、通常資本家は利益の多くを人権費に支払う。

 特にある事業者がなんらかの原因で、法外な利益を得た場合、かなりの確率で、従業員や外注先・そして顧客に還元する。

 

 彼らが格別慈悲深いわけではない。

 誰にでも想像がつく話だが、韓非子でも紹介されている。
 『韓非子』内儲説より「狡兎死して走狗烹(に)らる 。」、すなわち誰でもわかる原理、一部の物が獲物を獲り尽くしたら次は猟犬が食われる。これを知らない経営者は無能だ。

 しかし、この理念は、富が集中し貧富の格差が増大してしまう資本主義の宿命に歯止めをかけ、資産の再分配を促す。実にありがたい信念だ。

 労働者はすなわち消費者であり、受給した給料を貯蓄することなく経済に流し込む。経済全体のパイ(取り合う利益)は膨らみ、経済は成長し、庶民も、ひいては事業者自身の利益にもつながっていく。

 トリクルダウンは、法的な強制力を持たずして、資本を再分配させるいわばオートマチックな制御機能(スタビライザー)の一つなのだ。

 こうして、トリクルダウンされた資本は、経済を流転し、皆を幸せにしていく。これを資本主義社会のダイナミズムという。

 ループを繰り返しながら何かを失い続ける「スパイラル」に対し、 生産的・発展的ループという経済学上の好意的表現で、大学で習った頃は、とても前向きで心地よい表現に思えた。しかし、それから30年、その言葉は経済界から消えた。

 事業者達は、効率的に利益を得ることを追うあまり、あの欲深いモルガンですら手を出さなかった、賃金に目を向けたのだ。

 2 ネットビジネスの複雑骨折

 そもそもネットビジネスの強みとはなんであったのか?

 SOHOと呼ばれる小さなオフィス、ホームオフィスからネットに配信される格安商品。設備が要らない、人手がかかってない、だから安く売れる。「薄利多売」それだけなら実に健全な経済活動だった。

 しかし消費者は、店に出向く必要が無い「コンビニエンス」に対価を払い始める。原価のかかっていない商品が、オークションの中で適正価格を越えて行く。

 ニッチと呼ばれるそれまで大多数の人が認知せず、見向きもしなかったレアな商品が注目を浴びる。

 ご存知のように、たとえ生産個数が少なくても、需要がなければ価格は上昇しない。しかしネットと言う便利な販売網で容易に手に入るとなると、生産個数が少ないにもかかわらず需要が生まれ、その額はオークションの原理で必要以上に高騰する。しかし、労働価値説から計算された価格とは比較にならない金額になっていく。

 ネットビジネスの事業者はアダムスミスの「神の見えざる手」を超える利益を得てしまうわけである。

 

 最終的に残ったのが、経済活動最低限不可欠とされるレベルをはるかに下回る人件費だ。

 詳しく彼らの決算書を確認したわけでは無いが、おそらく異常に低い人件費率(外注費を含む)だろう。

 いやあ、決算を見ると、ちゃんと人件費も払っているよと言う人もいるかもしれない。
 しかし、人的サービスのクオリティの低下は現実として起きている。
    みんな気づいているはずだ。

 気に入らないことが有っても、なかなか連絡先の電話番号を見つけさせないホームページ。ようやくつながったかと思ったら、まともな日本語が話せないオペレーター。(外国人を育成することには反対しないが、問題回避のためのフォロースタッフを付けるくらいの利益は得ているだろう?)。不在連絡せんに明らかに嫌味な殴り書き、低賃金への限界を振りまいている不穏な配送業者。

 ヒトと言う最高の機械がクオリティの高いサービスを提供しているから、価格が存在する。

(ちなみに私はSiriと喧嘩するたびに、Aiが人間を凌駕すると信じている人間はサル以下の脳みそしかない連中だと感じてしまう。)

 挙句に登場してきた、「UBEREAT」と言う宅配業者は何者だ。

 友だちのお母さんの握ったおにぎりが食べられない世代の連中が、衛生検査もまともじゃない半分ニートの運んだ食事を、例え何らかの養生をしているとはいえ、疑いもなく食する世界。

 どうして、高い人件費を負担し、クオリティの高いサービスを求めないのか?

3 独占と寡占

 みんな信じているのだ。ネット業界のやることは正しい。
 GAFAが、やっていることはいつも正しく、おしゃれで未来的だと。

 「寡占」と言う言葉が有る。

 独占は有名だが、寡占の方は一部の経済学を学ばないと聞くことはない。

 独占は一つの企業が、ある産業を独裁的に支配していることだが、「寡占」は、数社の大企業が協力して、ある産業を独裁的に支配していることを言う。
 実際には、独占よりこの寡占の方が、より現実的に起こっている。

  ネット業界の現状を見るとゴールラッシュに沸いたアメリカの西部開拓期を彷彿させる。人々は我先に一攫千金を求め、人智の届かぬ荒野を目指す。そこには、正式な手続きを経た法律ではなく、土地の有力者が個人的な見解と場合によっては都合によって定められる「掟」が跋扈している。

 ”The code is more what you'd call "guidelines" than actual rules.”
 「掟というのは、規則というよりむしろ“ガイドライン(心得)‘というべきだろう。」【パイレーツオブカリビアン_キャプテン・バウボッサ】

 あいまいで身勝手で、都合によって変わる、法治理念からは最も忌避すべき世界だ。

 

 我々は一部の勝ち組が勝手に支配する「自由」でない世界で、電子商取引を利用している。複雑骨折している社会に無理に順応しようとしている。

 経済原則から多少外れていても、新社会だから、他に選択肢が無いからと言って甘受している。

4 公正取引委員会

 この不公正を是正する希望の光が、公正取引委員会だ。本当は、ジャニーズや吉本が問題にになる前にその存在を喚起したかったのだが、あれほどの大騒ぎにも拘らず、彼らの存在がクローズアップされないのは、権力が低すぎるのか。皆さん公正でない世界がさほど不満足ではないのか?

 

 ロックフェラーは自由な経済により世界が平和になることを夢見、アダム・スミスは、自由経済は神の見えざる手によりバランスが保たれると言ったが、際限無く認められた自由の行き着く先は、万民の万民に対する戦いであり、強者の論理が跋扈する、北斗の拳かマッドマックスの世界なのだ。

 基本的人権に掲げる自由が「公共の福祉に反しない限り」と言う制限を負うように、自由主義経済といっても、いくつかは制限される行為があるべきなのである。

 独占や寡占は、健全な経済の発展を妨げるものであるため、規制の対象となるべきである。

 いつまでも、西部開拓時代は続かない。

 人はいずれ、「公正な取引」を求め、秩序を求めるだろう。いや、求めなければならない。

    そしてネット長者達もまた、自らの黄昏を自覚し次の手を打たなければいけない。

 ①カスタマーズが満足できる人的資源によるサービス向上。②業界覇者として、公取委に突っ込まれない程度の競争ルールの確立。③業界利用者が不満に思う点の積極的改善。インフラ整備。

 彼らの利益は、これくらいやって当然なのだ。

 税金を払わないのなら、代わりに国がしなければならないそうした整備をやってくれ。

 

 それにしても、ネット長者達の富はどこへ行くのだろう?

 豪邸を買おうが、プライベートジェットを買おうが、どこかの生産者に行き渡るはずなのだ。

 貯金で握っていたって、その金は預かった金融会社が展開する。富の半分が集中するメカニズムが私のは理解できない。しかし彼が一番浪費している先は予想がつく。

 際限の無いマネーゲームの世界だ。

 奴らは、儲けた金を、消費者や労働者、社会資本の整備にも投資せず、金持ち同士で取り合って楽しんでいるのだ。

 

 よく似た歴史的前例がある。フランス革命前夜の王侯貴族達だ。

 断頭台など野蛮な手法は使わず、現代人らしく、ネット長者達が自らを律するか、公取委と相談して、健全な経済を取り戻していただきたいものだ。

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ピーテル・ブリューゲル「バベルの塔」

 俗にいう「スランプ」というものは成長における不可欠なプロセスである。

 成果の頂点を飛び石のように踏み続けると、その成果が何によって形成されたものかを見失う。あるとき、飛び石が途切れ、あるいは次の飛び石まで若干距離が有り、飛び出ししきれないとき、人は、その飛び石が何でできているのかを考え、自分で補正や補強を加えるのである。

 バベルの塔は、神の怒りによって破壊されたといわれているが、その手段として、神は雷(いかずち)を下したり、大地震を起こしたわけでなく、労働者間のコミュニケーションを奪ったというのが秀逸だ。

 砂山を作ったことのある人はみんな知っている。土台がしっかりしていないと高い山は作られない。

 土台に見合わない頂点に達した者の救われる道は、その頂点が何によって築かれ、何によって支えられてきたかを見直すことだ。

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