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ブレイクダウンⅰ守られない約束    20200209_C/3

 「一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。」
                      沖縄根拠地隊司令官 太田実

  太平洋では広島長崎はもちろんのこと、大阪東京など数万人クラスで民間人が殺害された都市がいくつも有る。

 しかし沖縄の場合は異質な物がある。それは、他の都市が空爆というおよそ対等とは言えない手段で、選択の余地もなく命を奪われたのに対し、沖縄戦においては「投降・降伏」と言う選択肢があった点だ。すなわち、彼らには生き残る選択肢があったわけである。にもかかわらず彼らは凄惨な死を遂げていく。その多くの理由は何であったか?

 悲劇を際立たせるかのように、殊更に軍人たちが、「生きて虜囚の辱めを受けるべからず」と言う戦陣訓を民間人に強要したと伝えられているが、果たしてそれだけが最大の原因であったのであろうか?

 彼らはもっと大切なことのために命を捨てたのではなかろうか?少なくとも、自分の栄誉などというレベルではない。また、自分の不名誉が家族に迷惑をかける程度の思惑は有ったろうが、そのレベルでもない。もうすこし、中長期的なレベルの思惑だ。

 すなわち、少しでもアメリカを困らせ、諦めさせることにより、自分たちの家族や子孫が安寧な将来を得られること、あるいは負けたにしても、格別の配慮を受けられることを望んだのではなかろうか?

 沖縄戦の話をつぶさに聞けば、聞くほどにその思いを感じずにはいられなくなるが、太田司令官の最後の電信は、そのような沖縄県民の凄まじい思いを締めくくっているように思われる。

 しかしご存知の通り、この約束は守られなかった。

 終戦5年後の1950年には、日本本土がアメリカの占領下から逃れる中、沖縄県は1972年まで27年間アメリカの占領下に置かれることになる。いや、今なおアメリカの占領下にあるのではないかという意見もある。香港や天安門並みのデモが起きてもおかしくないほど、民主国家とはありえないほど強引に国家の都合が押し付けられている。

 一生懸命やれば報われる。命をかければできない事は無い。そのような事は個人のレベルで語られることである。会社勤めの人は知っているだろう、努力が常に認められるわけではない。組織の中でタイミングやバランスなどという言葉でごまかされ、裏切られた経験は無かろうか?(だから計算通りの努力では足りない。計算以上の努力をしなければいけないのだが。)

 それが国家レベルの組織となると、釣り合いのとれた答えを求めること自体が既に合理的でないことに気づかなければいけない。

 「残酷」と言うのは火炎放射器に焼かれ体の3分の2に火傷を負った少年を言うのではない、その少年やその親族が、戦後その背負った傷に見合った格別の配慮を受けられないことである。
 

 特攻隊員の御霊は靖国神社に奉納され、天皇陛下を始め国の宰相・要職者が代々その御霊を弔い、奉る事になっていたかと思うが、天皇陛下はおろか総理大臣ですら参内することもままならない状況になっている。
 

 どんなに周りの空気が背中を押して命が軽くなっていたとしても、自分の命を捧げると言う事はとても勇気を必要とすることに変わりは無い。

 投降を選ばなかった沖縄県民も、特攻機に乗り込んだ青年たちも、死の恐怖を追い払ったものは、きっと国が自分の親族の後の面倒を見てくれるという期待にかけたに違いないのだ。それに対する現在の国の答えはあまりにも酷い。

 じゃぁ国はどうしたらよかったのか?戦争に負けながら、どこにもない予算を使って彼らを救済すべきだったのか?

 全然違う。

 果たせる予定が明確でない約束を最初から言わないことに決まっているじゃないか。

 戦争と言う博打には競馬ほどの勝算もない。国が大手を振って約束手形を出すようなものではない。そしてその約束手形を信じる方も無暴すぎる。

 

勝てばよかったのではないか?

 面白いアンチテーゼだ。

 確かに勝った方の、特にアメリカは民間人にほとんど死者が出ていないので、戦死した軍人の遺族はもちろんのこと、生還した軍人の生活についても、格別の扱いを受けることになったと思われる。

 しかし、戦争でなくて、命を懸けるほどの勝負に出るなら、配当は、まあ最低でも家一軒と、妻が死ぬまでの安泰だな。生命保険クラスってとこだろう。

 それと戦場という恐いところにいる期間の慰謝料、病院のベッドじゃなくごついおっさんに囲まれながらドロドロで死ぬことに対する慰謝料も。

 ああ、それから、国が勝って利益を上げたのなら、その配当も頂かないと。(実は国は勝っても全く儲けないのだが、これは次回「ブレイクダウンⅱ勝者の配当」で)

 イギリスは、意外と民間人の死者が多い。ネットで調べたところでは、どのような補償を行ったかは定かではないが、日本ほど酷いことにはならなかっただろう。しかし、おそらく空爆で亡くなられたと思われるその人たちの遺族に対していちいち英雄視されるなど、その死に見合う格別の厚遇を受けたというのは考えにくい。

 さらにイギリスについては、中東中心にあちらこちらで、戦争に勝つために、独立をちらつかせ、様々なコミュニティーを戦に駆り出したが、そのどの集団に対してもまともな約束が果たせず、その後いったい何万人が約束の帰結をめぐって、血を流し合ったか。それを思うと、戦時中に独立を信じて命を捧げた人に対して、日本以上に「残酷」なことをしていたことと考えられる。

 

命より重いものが有るのだ

 人は戦争を始める時こう言う。「命よりも大切なものが有りそのために戦っているのだ」と。そして、「命より大切なものは無い。」と言って戦争を止めるそうな(田中芳樹先生:銀河英雄伝説の一説)。

 

 こんな話を聞いたことがある。行き着くところまで修練を積んだ営業マンというのは、神社の前でたまたま出会った見知らぬ人に、その辺に落ちていた石を拾い上げ、「これは奇遇なところで出会ったものだ」「この石は他人には何の役にもたたないものだが、あなたが持つとたいそう霊験あらたかな効果を現す」などと持ちかけて、ただの石をまんまと百万円前後で売ることができるそうである。私たち素人には想像もつかない手練手管のテクニックが有るのだろう。なんとも恐ろしい話だ。

 この話を聞いて、「石の値段が高すぎる。」と考えてはいけない。石はただの石ころで、価値は無い。この交換取引が成立している理由は、買い手の貨幣価値が紙屑以下に下落しているということだ。

 

 イデオロギー、ナショナリズム、大義名分、正義、名誉、高尚な理念に立ち、理屈が通っているものもあれば、いやむしろ現実的に、領土や利権など、わかり易いものも有る。いずれにしても、命より大切なものが存在することを私は全く否定しない。

 しかし、命の価値を下げて取引する必要はないと信じている。命は尊いものであることに変わりはない。それを差し出すのなら、それに見合う代償を受け取らなければならない。

 後日「ブレイクダウンⅲ平和が不都合な人たち」で取り上げるつもりだが、石ころを売った営業マンのように、人を戦にいざなう側にも都合というものが有る。だから、美辞麗句を並べ、手練手管を弄して、殊更に命以上に価値のある物を強調する。

 しかし、どんなに見事な背負い投げが決まったとしても、場外なら「一本」は取れないのである。技をかける時、すなわち命を捨てる時は、よく足元を見て、本当に今そのタイミングで代償を支払って、本当に、命を懸けるに値するものが手に入るのか?約束は守られるのか?自分は場内に足をついているのか、しっかり考えるべきなのである。

 人類の大半が、この簡単なロジックを理解するようになれば、たとえ、命よりも貴重なものが世界に溢れていても、命の価値は簡単には暴落しないだろう。

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グスタフ・クリムト「パラス・アテナ」

 第2回ウィーン分離派展という、当時の定番の画風に反旗を掲げるために行われた展覧会で、その象徴として、戦いの女神アテナの勝利する姿を描いたもの。

 正直、私はクリムトの絵はあまり好きではないのだが、そのきらびやかな衣装と不信を抱く余地を与えぬドヤ顔が、勝利と栄光を約束するように感じさせるため、思わず「おお、これぞ戦いの神アテナ」と感心させられてしまった。

 絵画の醍醐味は、時折、そういった好き嫌いや予測という理性を、名作の持つ感性が上回ってくることだが、絵画に限らず起こるこの現象を、人は「感動」と呼び、どうしてもやや高めに評価する傾向が有るのが難点ではあるが、快いものではある。

 ただ、ウィーン分離派については、ウィキペディアで調べた程度で、クリムト以外誰も知らない。多くの人は、アテナに約束を守ってもらえなかったようだ。

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