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血も涙もある法治国家

1 法治主義は冷血か?

 庶民の正義である道徳と社会の正義である法律とは実のところ水が合わない。このため、厳格な法治国家はどうしても国民を縛り付ける印象を与える。「法律には血が通っていない」「情けも容赦もない」と人は何かと言うと、法律のことを無慈悲な支配者のように決めつけている。しかしこれもまたメディア等が操作した思い込み(マインドコントロール)である。

 先日YouTubeを見ていたら、世の中には「法の支配」という言葉があり、私が殊更に活用する「法治主義」とは若干ニュアンスの違うものであると説明されていた。 高校の政治学で習うらしく、センター試験にも出るらしい。
 その模範解答は「法の支配とは、議会が制定した法によって政治権力を制限することで、権力の濫用を防ぎ、国民の自由と権利を擁護しようとする考え方。一方、法治主義は、行政権の行使は法律によって規定されなければならないとする考え方で、法の内容は問われない。」だそうだ。
 もしこれが定説であると言うのであれば、私はこれまでとんでもなく間違いを犯してきたことになる。韓非子が法治主義の祖であり、理想の法治国家を唱えた人物であると言う、これまでの記述は全て誤りということである。

 確かに韓非子は、行政機関に対する厳格な法規制を唱えたが、同時に君主に対してもあるべき姿を示している。そして、君主制が、民主制になった現代においても、その指摘事項は、その国家に仇なす危険と平安をもたらす手法を的確に捉えている。つまり、政治権力の中枢である君主、現代の民主制でいうところの議会の振る舞いについても、いやむしろ、そちらの方が主となって、議論が展開されている。そして、何より、手続きさえ備わっていれば、法の内容は問わないなどとは一度も言っていない。ああ、参った、この模範解答を適用すると、韓非子はとても法治主義者とは言えない。

 しかし、これに対して「法の支配とは、議会が制定した法によって・・・」云々という部分。いや、これ、現代世界で、法治国家と認められる国のほとんどが取り入れている制度だろう。

 Wikipediaにこんな記述があった。「実質的法治国家:立法過程の民主性、法内容や適用の正義や合理性を要求するもので、この意味での法治主義は法の支配とほぼ同じ意味を持つ。」だって。いや、それ以外にどんな法治国家があるの?
 ロシヤや北朝鮮だって、一応は民主制の法治国家だぜ。ただ正常に機能していないだけで。
 それから、アラブとかの王国が敷いているのも、民主制ではないが、法治国家と言える。君主制だからって、「法の内容は問われない」そんなバカな法治国家は存在せんわ!
 Wikipediaでは、これらの機能していない、もしくは民主的でない法治国家を「形式的法治国家」と名付け、前述の実質的法治国家と区別すると説明しているが、「法」が支配する法治国家の理念の根幹は、法定による「予測可能性」(何をやったら、こうなる)である。民主化が不十分な国家では、しばしば、この約束が裏切られるわけであるが、それは「法治」が正常に機能していないだけで、「法治」そのものの概念を変化させる根拠にはならない。

 さらに調べていたら、「法治主義」では、「道徳」や「自然法」(簡単にいうと、基本的人権など)は無視されても良い。らしい。
 現代世界における法律のほとんどが、「道徳」や「自然法」から派生した「憲法」(イギリスの「権利の賞典」に始まり、アメリカでは「独立宣言」、そして最新型が「日本国憲法」)もしくは、その社会の道徳そのものである「宗教」に準じて制定される。両者が不可分の関係にあることは明白だ。これを、何の因果で無理に引き裂いて、「法の支配」などというくだらない対語を設けるのか?「法治主義には、人権が含まれていないから、冷酷だ。」などという暴論を唱えたい奴らの陰謀か?

 あ〜あ。こんな考えの方が正論と言われているから、人はいつまで経っても、法治の理性を信用しないのだ。

 とはいえ、学者でもない私の戯言が、正論という保証もない。受験生の方々は、どうぞ、長いものに巻かれて模範解答を書いてください。ただ、この定説は、ボロだらけであり、「法治主義は冷血」などという情報操作に惑わされず、人類が理性的な社会を築くために欠かせない制度であることを忘れないでください。

2 「法」と「道徳」の融合

 しかし、社会の正義である「法」と、庶民の正義である「道徳」は、実際上手くブレンドするのは難しい。他人の決めた正義と自分の信じる正義、多様化する現在において、その最大公約数を見つけるのは非常に困難である。そもそも、「法」は、それをやったら誰かの迷惑になる、憲法で言うところの「公共の福祉に反する」自由を制限しようとしている。
 弱肉強食でない、バランスの取れた、理性的社会の実現のために定められている。法に縛られていると言う人はたくさんいるが、世の大多数は、法に守られている。
 にも拘わらず、「法」は嫌われ、これを執行する役人は、悪の手先扱いで、韓非子は非情の思想家と呼ばれる。

 何とか、「法」と「道徳」を上手くブレンドできないものか?

 韓非子は、なぜ、君主に対して、直接国民を統治することよりも、行政官を法によって厳格に統治することを主張したのか?
 韓非子もまた、「法」が、庶民には簡単に受け入れられないことをわかっていたと考えられる。しかし、君主の直下に従う行政官は、これを守らないと直接身の危険に及ぶ。君主に逆らうには、必ず民衆の後ろ盾が必要になるが、韓非子の手法を以ってすれば、君主は民衆に嫌われない。臣下が君主より後ろ盾を得ることはできない。

 秦は、民衆を直接統治しようとしたから滅びた。公明正大で、民衆を虐げるのではなく、民衆を富ませる行政を行ない、民衆の怨嗟を買っていなかったら、臣下の李斯が、権力を簒奪することはできなかっただろう。

 そして、韓非子は、さらに、行政官を社会の正義である「法」と、庶民の正義である「道徳」とを融合させる媒介にしようとしたと考えられる。
 「吏は民の本綱なる者なり。故に聖人は吏を治めて民を治めず」(韓非子55篇:外儲説篇 右上)と、「善く吏たる者は徳を樹て、吏為る能わざる者は怨みを樹つ。」(同:外儲説篇 左下)などの説話・記述がそれを示している。
 どんなに厳しくても、庶民感覚からズレたような「法」であっても、行政官が公明正大で、率先して法を遵守していれば、庶民は納得するのではないか?という理念だ。
 要は、法治と徳治の融合は、役人の資質にかかっているということだ。

 この極めて困難とも言えるミッションを見事にこなしたのが、日本の役人「サムライ」だ。
 彼らは、君主には絶対服従で、畑を耕さない代わりに、国のため、民のため、勉学に勤しんだ。国法を守るだけでなく、自らを律し、静謐を心がけ、惻隠の情(弱い者を助ける)を持ち、義を見ては、勇気を惜しまなかった。
 庶民は、その生き様のあまりの美しさに憧れ、彼らが適用する「法」とあらば、やむを得まじと受け入れた。しかも、その憧れは、やがて、庶民の道徳にも影響していく。今日、日本人が礼儀正しく親切で、勤勉で規範を重視する民族であると賞賛されるのは、結局、衣食足りて礼節を得ようとした時、手本としたのが、「サムライ」のBUSHIDOだったからと考えられる。

 そして、「法」と「道徳」を両立させた、血と涙を持つ法治国家が誕生した。

 法治主義は、冷血だと、メディアも学者までも言う。
 法治主義が冷血に見えるのは、庶民にとって都合が悪い場合が多いことと、行政官が「その考えは過ちであり、社会全体から見るとあなたは罪を犯しているのです。」と、庶民を諭すだけの資質に欠けているからだ。その最たるものが国会議員だ。
 従って、メディアや学者が問うべきは、法治主義における情の有無ではなく、行政官の資質のみで良いのだ。

3 難しいことは勉強ができる子に任せておけば良い

 ところで、現代法は、複雑さを極め、裁判は専門家同士の独壇場になっている。これも、「法」と庶民を引き離す抗力になる。しかし、この点については、私なりの意見がある。

 私は、庶民感覚を取り入れようとする裁判員裁判制度には反対だ。
 「法」は、社会の正義であり、庶民には理解できなくて良いのだ。「法」を定め、活用する知識層が、庶民のことを思って、運用すればそれで良い。

 「責任能力」とやらを問う裁判には、私もうんざりだが、裁判に庶民感覚を取り入れたいのなら、裁判官に、庶民の暮らしを体験させれば良い。ちょっと犯罪者と関わり過ぎて、奇人が普通に見えているのではないかと言う点は否めないから。
 裁判員裁判制度では、所詮裁判官に主導権があり、裁判官の「良心」を開明させることはできない。
 難しいことは専門家に任せて、庶民は、「日本人らしい」という道徳を守り、自分の利益につながるところだけ、法を学べば良いのだ。その方が、裁判官も自分の「良心」に自信が持てるようになるだろう。

 ちょっと前、静岡県知事が、県庁の職員たる者は、「頭脳」を使うものと、発言したら辞任に追い込まれた。これでは役人もかわいそうだ。
 だいたい役人になる人間というのは、勉強以外に取り柄がない奴が多い。虚弱で、運動神経は人並み以下で、手先は不器用。政治家向きの人間と違って、ほとんどコミ症かオタクだ。オタクと言っても、アイドルやアニメに没頭するのではない。石を集めて研究したり、星の名前や運動に興味を持ったり、いわゆるインキャというやつだ。そんな彼らが日の目を見る方法はただ一つ、役人になって、世のため、国のために尽くすことくらいなのだ。
 かの県知事の言うとおり、農産業や畜産業に従事しても、ひ弱で役に立たない。ついでに、勉強はできるのに、「賢く」ないから、商売にも向いていない。でも知恵を絞ると言う作業なら、不眠で何日でもできる。そう言う人種なのだ。
 これが、勤勉を重んじる日本人にとって、何よりも理想的な役人になっていくのである。

 第一次産業は頭を使わない?それを言っているのはマスコミと、第一次産業者自身だけでしょう。役人はそうは思わない。どの仕事にも、必要な知識や技術があり、自分たちが簡単に真似のできるものではない。自分たちにできることは、頭脳を使ってそれらの苦労や問題点を慮ることぐらいだ。と。そんなインキャが、そんなに妬ましいなら、どうぞ、机に齧り付いて、恋愛力数%で社内結婚率90%の役人を目指してください。

 あの県知事は、色々問題発言の多い人だから、たまたま問題になったと言う人も居るが、そうやって、「法」や役人が果たしている役割を湾曲する報道が跋扈している限り、日本はいつまで経っても、次のレベルにはRaise upできない。

パブロ・ピカソ「泣く女」

 ピカソの作品では、ゲルニカに次ぐ有名作ではないだろうか?
 私が、作者の名前を見てから作品を見る癖を知人が非難する。まず「絵画」を観て、感動してから、誰の作品か知りたくなると言うのが筋だろうと。
 この絵を初めて観た頃は、激しく放射されてくる「悔しさ」「憎らしさ」「いじらしさ」に、なるほどこれが”抽象”を表現するということか?と感激したものだが、絵画や画家の背景にある物語を知って鑑賞する楽しさを覚えてから、情報の方が先行して、その情報を確認するような鑑賞をしていることが多くなった。

 知ることは良いことだが、知らなくても、画家の力量は、画群の中から飛び抜ける。

 法律も、ピカソの作品も、実は暗号だ。その解き方を知れば、それほど難しくない。しかしそれを知らなくても、画家の”叫び”が届くことは珍しくない。
 一番良くないのは、ピカソを観て感動している人を見て、「本当にわかっているのかね。」と言うゲスな勘ぐりをすることだ。
 法律は難しい。しかし、ピカソだから感動しなければいけないわけでないように、法律だから守らなければならないわけではない。ピカソには専門家にはわかるテクニックが有り、法律には専門家だけが知る「立法趣旨」というものがある。
 それをわからないからと言って、勝手に冷血だの、意味のわからん落書きだのと罵るのは、最も恥ずべき行為である。

 ところで、今年は没ピカソ50周年である。彼は、4月8日に亡くなっているので、本来この挿絵は、著作フリーなはずなのだが、著作権法によって、本年末まで著作権が持続するそうだ。だから法律の勉強はやめられない。

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