『きみが死んだあとで』 代島治彦監督
代島治彦監督の最新作『きみが死んだあとで』に、僭越ながらコメントを寄せました。最小限のカット、写真、テクスト、音楽で構成されながら驚くべき力強さをおびたナラティブの映画です。4/17よりユーロスペースにてロードショーがはじまります。
以下はロングバージョンのコメントです。
50年あまり前に18歳の青年だった者たちが口にする挫折。代島治彦監督の『きみが死んだあとで』は、泥沼化し、世間から乖離していった学生運動の参加者が語る「敗者の歴史」だ。
驚くべきは、彼らの胸の中に、1968年の第一次羽田闘争で死んだ山﨑博昭が18歳の姿のまま息づいていることだろう。無垢な理想をたぎらせた青年が生きるキラキラと美しい青春が、取り返しのつかない参照点のようにして屹立している。証言者たちは、青年が夢見た理想とあまりに違う未来が待ち構えていることを知っている。山﨑の同級生だった詩人の佐々木幹郎が朗読する『死者の鞭』、また、舞踏家の岡龍二が山﨑を追悼する舞踏は、死者が憑依したかのように苦しみを再現する。しかしそれは誰の苦しみなのか。彼らの魂は、死者の鞭に打たれるようにして苦々しくざわめきつづけてきたのかもしれない。
勝者の歴史がもっぱら権力の正統性を述べるのなら、敗者の歴史は死者の慰撫鎮魂のために行われるのがこの国の常ではなかったか。であるならば、この語りの映画もまた、無念を背負って死んだ青年の弔いであると同時に、老境を迎えた友人たちが、50年のあいだ乱れたままだった彼ら自身の魂を鎮めるために紡がれた物語のように思われる。200分におよぶ長編映画だが、代島監督は「これ以上短くできなかった。」という。この映画が、興行性よりも、別の何かを大切にしていることの表れだと思う。
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