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『説経節・飯能の嵐 渋沢平九郎の最期の二日間』無料公開中

説経節の三代目・若松若太夫さんと撮影した短編映像をYouTubeにて無料公開中です。昨秋の二日間にわたって飯能の周辺を巡り、幕末の飯能戦争で命を落とした渋沢平九郎の最後の足取りをなぞりました。


今期の大河ドラマ「青天を衝け」でも渋沢栄一が渡仏の際に立てた見立て養子である平九郎が、壮絶な最期を遂げるシーンが放送されたばかりなので、ご存知の方も多いと思います。


幕府軍の一派「振武軍」を率いた平九郎は、飯能の戦闘で敗走し、官軍に追われて越生黒山の山中で自刃します。
その首は越生の宿で晒され、胴体は黒山の村人によって葬られたそうです。当初、この若者の身元は不明だったため、黒山の全洞院に収められた白木の簡素な位牌には次のように刻まれました。


「俗名不知 江戸之御方而候 於黒山村打死(俗名知らず 江戸の御方で候 黒山村において打ち死に)」


今もこの位牌は全洞院で供養されています。
胴体を埋めた墓所は「だっそさま(脱走様か)」と呼ばれ、首から上の病に効く神様として崇められたという伝承があります。ここにも横死者の霊に対する日本の民俗の対処の一例を見るような気がします。


栄一が平九郎自害の地を訪れたのは、明治32年のことで、その死から30年以上が経過していました。
その後、「振武軍」が本陣を置いた飯能の能仁寺には、振武軍戦死者を慰霊顕彰する「振武軍の碑」が建てられました。建立は昭和12年5月23日、飯能戦争が起こった日に合わせています。渋沢敬三も碑文を寄せています。


この時、境内で説かれたのが初代・若松若太夫による説経節『飯能の嵐 渋沢平九郎自刃の段』でした。
これは敗走した平九郎が故郷深谷へ落ち延びようと吾野の山中へと逃れ、やがて果てるまでの二日間を描いたものです。
昭和初期に各所で演じられたようです。


台本は吾野村出身で説経師でもあった大野鐵人。初代若松若太夫とともに栄一と親交があったそうです。若太夫も平九郎の最後の足跡をたどり取材したことが、往年の日記に残されています。


私はこの説経節が、戊辰戦争の幕軍戦死者の慰霊のために作られ、説かれた芸能だったのではないかとみています。(幕末の「平家物語」のようなものを目指したのかもしれない。)


私たちもちょうど二日間をかけて、映像を撮影しました。
説経節には当然脚色がありますが、平九郎の最後の足取りを辿ると、その先々に物語となった歴史が息づいていることにとても驚かされました。
詳しくはどうぞ映像をご覧ください。


映像で演じている説経節は、幻の「片瀬人形」の家元であり、この『飯能の嵐』も演じた説経師・薩摩千代大夫の生家の一間をお借りして撮影しました。吾野の日当たりの良い山肌に建つ日本家屋は、この地の文化的サロンであり、旅芸人の宿でもあったというゆかりの深い所で、この演目を行うのにこれ以上ない場所でした。


三代目が説経をはじめると、不思議と庭の池に棲むカエルがケロケロと鳴き始め、説経が終わるとぱたりと鳴き止みました。死者を悼む説経に感応したのでしょうか。お伽話のような撮影エピソードです。


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『説経節・飯能の嵐 渋沢平九郎の最期の二日間』
(2021年制作/2020年撮影/21分/カラー/ステレオ/HD・4K)https://youtu.be/cPgFwYmu6MM

幕末維新におこった戊辰戦争にともない埼玉県飯能もまた戦場となった。
この「飯能戦争」で、幕府軍の一派「振武軍」の副官を務めた渋沢平九郎は20歳の若さで命を落とした。のちに日本資本主義の基礎をきずく渋沢栄一の養子でありながら、平九郎は維新まで生き抜くことができなかったのだ。
明治から昭和にかけて、説経浄瑠璃の人気を再興した初代・若松若太夫は、この若き志士の最期を描いた説経節「飯能の嵐」を説いた。
それから約百年の時を経て、三代目・若松若太夫とともに、飯能から越生に至る平九郎最期の二日間の道のりを辿り、歴史に埋もれた物語の背景を探る。

東京都指定無形文化財・板橋区登録無形文化財保持者
説経節 若松若太夫公式サイト
http://sekkyou.s371.xrea.com/?page_id=57

【協力】
能仁寺
全洞院 増尾實道
平九郎茶屋 加藤ツチ子
越生町教育委員会
落合登美子
渋沢史料館

【出演】
三代目・若松若太夫

【監督・撮影・構成・編集】
遠藤協

【補助】
文化庁文化芸術活動の継続支援事業

【製作】
説経浄瑠璃若松会

(C)説経浄瑠璃若松会/遠藤協 2021

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