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デザインはなぜ、なぜが求められるのか①

noteでは日常思った感覚を忘れないために文字にしてるので、建築外の事を書く事が多かったのですが、たまにはデザイン(建築)について思う事も文字にしてみようと思います。

なんだか自分の無知が恥ずかしくてこういう事は思い切って書けない(話せない)性分なのですが・・・

今回は「なぜ」にまつわる思うことを書こうと思います。色々トピックがあるので、一応①にして、今回は大学(学びの場所)におけるこの問いの存在について思っていることを書きます。

私は6年ほど建築を学んできましたが、'WHY'に本当によく囲まれてきました。

特にアカデミックな場では「何故」、そこから派生して「社会背景」、「社会における意義」について問われたりします。

前向きな諦めとして「建築だけで社会問題を解決できる」「社会を変えられる」と私は思っていません。
しかし、社会と関わりを持つべき、言い換えれば持ち得る運命にあるし、だからこそ社会問題や社会背景と関係性をもち、その変化の一部となり得るし、影響される、と感じています。

確かに、いい空間を作り、美しい建物を作ることは人々の心を豊かにします。しかしそれが過ぎると簡単に言えば「建築家のエゴ」となります。

ザハ・ハディドの国立競技場なんかは、「建築家のエゴ」をメディアが面白く取り上げたと言っても過言ではない一例だと私は思っています。実際にエゴだと私は到底思っていませんが、そのように「捉えられて」世間一般に「伝えられた」と感じました。

つまり、建築に携わっていない人たちが見れば、簡単にそのように捉えられてしまうのが建築の繊細な部分の1つかもしれません。それは、そこに「使い手」がいる限り、避けれられない危険性だと思います。

話を戻します。

長い学生生活が終わろうとしている今、「何故、何故が求められるのか」と自問することがあります。これは修士の中間諮問が終わったたった今、まさに直面していたことです。

それは、お金があって勝手に建物が建つ時代ではないからかもしれません。建物が有り余ってる時代だからかもしれません。というように、そこにはもうすでに「社会の背景」が存在するのです。

いかような建築でも、どこかに「社会背景」は存在します。それは将来、クライアントを持った時も同じです。この世界に生きてる限り、社会に属し、その建築を欲するのはそこに属する人間です。

そして、大学は壮大で自由な社会実験の場であると私は考えています。

「何故提案するのか」「背後にある社会はなんなのか」「何を伝えたいのか」これらの「問い」は純粋に美しいものを作ると同じくらい、時に難しい課題であり、故に結果何も作りたくなくなる時だってあります。

しかしそれを思考し続けてこそ、学びの場所の意義があると、最近とても思うのです。

実務とアカデミックの大きな違いはそこにあるのではないでしょうか。

どうしても実務レベルの綿密な提案に憧れる自分がいたり、実務的な知識を、無知だからこそ手に入れたくなります。そしてそう思うと、「なんで必要なの?」と聞かれると、「いい空間だったらいいじゃん」と、昔は(特に学部時代なんかは)よく思っていました。しかし、それではきっとただの職業訓練学校に過ぎないことになってしまいます。

必ずしも提案に社会背景が必要だとかそういうことを言ってるのではなく、自分たちの表明(提案)に対して、「問い」や「疑問」が必要だと思っています。そしてそういう態度に私は可能性を感じるし、実は必然的にそこには社会という影が存在している気がします。

自分が疑問に思い、描き、感じる世界を実験し、それを議論できる。そして過去や伝統を継承しつつも、時代の変化をいち早く受け止め、適応し、更新していく。

「なぜ」はこのような場所にとって大事な疑問詞です。

そして、学びの場はこうあってほしいし、あり続けたいと、残り数ヶ月の学生生活を思うのでした。

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