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花を生ける

少し前に、読書メーターの企画『好きなことを語るアンソロジー』に、生け花をテーマにした「カサブランカ・エゴイスト」という作品を寄稿した。

今回は花の話。

ガーデニング好きの父の影響で、幼少の頃から花が好きだった。はじめて剣山と鋏で「花を生ける」ということをしたのは中学二年生のとき。ダンス部のクラスメイトたち(カースト上位)が、梅やら桃やら柳やら、その季節の枝ものを振り回し身体に打ちつけ、「SMごっこ!」と嬌声をあげる横で、日陰者たるわたしは花を生けていた。花はきれいなので、好きだった。

再び花を生けたのは、それから十年近く経った頃のこと。経過した年月の分だけしっかりと大人になって、自分の食い扶持は自分で稼げるようになっていた。同僚に「よかったら華道やりませんか?」と誘われるまま体験に行き、久しぶりに花鋏を握り、その場で入会を決めた。当然だが、教室にいるのはみんな良識ある大人なので、枝を乱暴に振り回してその小さな花弁を無残に床に散らしたりなどはしなかったのだ。

花材は毎回ランダムで、提携の花屋さんから安くてボリュームのあるものが届く。当たり外れはあったが、驚くほど品質が良かった。新聞紙に包まれた花材を見て、どういう生け方をするか自分で決める。平たい水盤か、壺か、縦に長い花瓶か。黒か白か透明か色付きか。花器を選ぶところから個性が出た。わたしは花瓶に生けるやり方(投げ入れという)が苦手で、水盤生け(盛り花)ばかりやっていた。おかげでいつまでも投げ入れを克服できない。

先生はおおらかな方だった。縁側でお茶を飲んでいるのが似合うような穏やかさを持った、気品のある方だった。こう生けなさい、こう生けるのが正解です、なんてことは何も言わず、ただわたしたちが花を生けるのを微笑みながら見ていた。それでも、生け終わったあとに先生に見ていただき「この枝はこっちのほうが良いわね」なんて涼しい顔で少し直されるだけで、作品は驚くほど良くなった。後から知るところによると、先生はすごい人だった。生ける花も、当然すごかった。

花を生けるのは楽しかった。その行為は、ただそこにあるだけで美しいものに手を加え、自然にあるだけでは得られない美しさを付与することだと思っていた。おそらくそれは「敢えて壊す」という意味を持っている。枝を削り、葉を取り、時にはもうすぐ開きそうなほど綻んだ蕾も摘んだ。

花の種類によっても生け方が決まっている。菊の小さな葉はすべて取り、真っ直ぐな茎を見せるとか。水仙は茎と葉をすべてバラバラにしてから組み直すとか。でもそんなものは人間の勝手であって、植物の側からすれば知ったことではない。

「当然だけど、何もしなくても、植物は生きているだけで完成されているのよね。でもその植物をあえて摘み取って、別の形に作り替える。自然に咲く花の中から、生け花という花を自分の手で咲かせるということ。そこに生け花の面白さと自己表現の難しさ、そして生け手の責任のようなものがあると思うの」

件の小説の中でわたしが書いた文章。手前味噌だが、まさにこれに尽きると思う。良い文章書きますね。

仕事が忙しいときは半年ほど休んだりしたが、華道は結局六年ほど続けている。かなり時間がかかったが、一昨年なんとか一級修了し、雅号もいただいた。先生の名前を一文字いただいた雅号だ。コロナがなければ、今ごろ師範資格を取れていたかもと思うと、言っても詮無いことなのだがやはり残念だ。

最後に、わたしが今まで生けた花でも見ていってください。え、嫌だ? まあまあ、そんなことは言わずに……。


秋の野の原イメージ。
かわいくないですか? バッグみたいで。


右が紫陽花、左がトルコキキョウかな。
かわいい。♡です。


葉物オンリー。都会的で好き。


敢えて下から見せる構成。格好いい。


水を見せる。
生けてたら右腕がびちゃびちゃになったやつ。


こちらも葉物オンリー。
緑のグラデーションがきれい。


葉をとにかく割いて編んだやつ。
地味な作業だった。


お正月。
葉牡丹は生けるのが難しい。


クリスマス。柊は手が痛い。


野で摘んだ花と、愛用の花鋏。
鋏、錆びすぎている。

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