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人種差別、そして反黒人主義に、日本の私たちも加担している(後半)

アメリカの人種差別に日本がどう関わっているのか、特にアメリカや世界で起きていることを中心に前半でお話しました。では「日本国内の人種」ってどうなのでしょうか。

日本の学校で人種の授業は殆どないと思うので学ぶこともないと思います。でも、私達はなんとなく「日本人は古来より日本列島に住んでいて、単一民族で同じような人たちに囲まれて暮らしてきた」と感じていると思います。

それが時代によって「日本の人種や民族」が違うとなったらどうでしょうか?

アメリカの人種問題を考える上で、日本の人種について理解を深めることが大切だと思います。以下、私の学びをまとめましたが、日本の人種については専門家ではありませんし、私も学び途中です。みなさんが考える、学ぶ上での、一つの情報を提供していると考えてください。

なお、「日本人」という言葉は、扱いが難しいと感じます。外国の血が入っていたりすると日本人と法的にも社会的にみなされない、などかなり狭い意味を持つからです。日本に住む差別をされてきた方達も「日本人」という言葉は違和感があるかもしれません。また「日本人」という言葉の問い直しも必要だと思います。そのため、一般的に国籍や居住地を指してもちいる場合は日本人、ある概念として用いている場合には「日本人」と括弧書きにしました。

日本の人種のはじまり

江戸時代まで日本に人種の概念はほとんどありませんでした。むしろ日本人というアイデンティティもない状態です。武士は〇〇藩の藩士、村人は藩や村に属すると考えたり。そもそも武士と農民が同じアイデンティティをもつなんて考えられないのが封建時代でした(1,2,3)。

日本が開国したころは、西洋諸国が自分たちの領土を拡大する帝国主義の時代でした。明治政府は日本が西洋諸国に植民地支配されないよう、必死に対抗して帝国を築こうとします。その中で、西洋学問の一部として「人種」という考え方を紹介したのが福沢諭吉です。医師ブルーメンバッハが提唱していた5つの人種分類、白色人種、黄色人種、赤色人種、茶色人種、黒色人種に世の中の人々は分類される。白色人種は聡明で美しい、その他の人種は白色人種より劣り、黒色人種が最下位に位置する、と伝えられました(4)。

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一方、欧米の学者たちが人種という言葉と概念を使うようになったのは18世紀後半で、非ヨーロッパ人以外の人々を説明するところから生まれました。人種の語源は「家畜の品種 (breeding line)」のため、人種とは当初から「人々の見た目、行動、内面の優劣」をつけるものでした(5)。

日本が開国した当時、欧米の自然科学、社会科学は白人が優れていると考える白人至上主義を学術的に裏付けることをしていました。人種差別を批判的にみず、あらゆる面から白人が優れている、白人は優れており、有色人種は劣っている、奴隷制は廃止されていましたが、最も劣っている黒人を奴隷にしていいのだ、という論をサポートする論文を出していたのです (その後、自然科学の遺伝学で人種の優劣を証明することは困難だとなり盛り下がりましたが、社会科学の文化人類学や社会学は執拗に白人の優位を証明しようとします)(6,7)。

明治の知識人からするとショックすぎます。なんとか自分たちを白人の地位につけたいと模索。沖縄、アイヌ、部落の人たちを下に位置づけるようにしました。知識人達は、遺伝的に日本人は劣るので白人と結婚することを提唱したり、身体を白人に負けないように鍛えたり、白人に抵抗するためには日本人が一体となる精神が必要だと訴えていました(8,9)。

「民族」は人種差別に対抗するために生まれた

日本では人種というより民族という言葉が使われるのではないでしょうか。大和民族、朝鮮民族とかあります。その考えはいつから出てきたかというと、人種のあとです。民族という概念はドイツ語のvolkから取り入れられました。フランス人やユダヤ人に文化的に劣ると思っていたドイツ人が自分たちを違う位置づけにするために考えた言葉です。日本人をなんとか高めたいと考える知識人からすると、中国や朝鮮などのアジアの人たちも含め黄色人種とひとくくりにされると都合がよくない。民族という考え方は、日本人をアジアの他の黄色人種から自分たちを区別するのに有用だと考えました(10)。

明治の初期から、学者たちは日本は単一民族なのか多民族なのが激論を交わしています。この議論を社会学者の小熊英二さんが「単一民族の神話の起源(1995)」という著作で研究しています(次のセクションも含め本文献の要約が中心です)。古来より一つの民族だと主張するグループ、朝鮮や南方など様々な地からきた人たちで作った多民族だと主張するグループ。後者の方が学術的な裏付けがしやすかったので多民族派が有利になったり、やはり古来より日本は単一民族だとするほうが優位性を示せるように見えて有利になったり、拮抗していました(11)。

その拮抗が変わったのが韓国、台湾を併合したころです。西欧の帝国主義に対抗するために、自分たちの国も帝国としようとしたときに、「正当性」が必要になります。白人が有色人種を支配する植民地的動きから、自分たちを違うように見せる必要もあります。そこで、日本はもとももと多民族なのだ、という考えが採用され、社会に広まったのです。日本はそもそもアジアの様々な地から来た人たちから構成されている、だから韓国や台湾、その他のアジア地域に進出し、アジア全体を反映させる役割を担うのは正当である、と(12)。朝鮮半島や台湾の人々は兄弟である。でも、兄が日本なのでしっかり上下関係はあります(13)。

今では考えられませんが、戦前、日本は「多民族」であり日本は「多民族国家」が一般的な考えだったのです(14)。

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アイデンティティを失った「日本人」に誇りをくれた「単一民族」

そして敗戦。戦後、知識人たちは多民族国家日本という主張をするフレームワークを失ってしまいました。むしろ多民族を主張すると、日本は帝国主義を正当化するために多民族主義を採用したため、帝国主義への回帰になってしまいます(15,16)。

そして一般の「日本人」は敗戦でアイデンティティを失いました。何を誇ればいいのか、自分は何者なのか分からなくなったのです。多くの人が仕事を求め農村から出てきたために、コミュニティも失い、宗教などもない状態でした(17)。

その頃から日本は古来より単一民族だった、という考えが強くなっていきます。古来より単一民族として平和に日本列島で暮らしてきた、という考え方は、帝国主義時代とは真逆であり、戦争で傷ついた、自信を失った人々の心を癒やすものでした。そしてアイデンティティを失った「日本人」にとって単一民族というのはとても便利な答えでした。「日本人」を連帯させることは日本政府側にとっても必要なことで、この考え方は都合が良いものでした(18,19)。

「平和な単一民族」は占領するアメリカにとっても都合の良い考えでした。占領当時の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本が「東洋のスイス」になる、と発言しています。アメリカは日本がアジアの平和な一小国になることを望んでいたのです。日本が統治していた時代に韓国(朝鮮)から移動してきた、させられてきた在日コリアンはそのうち自国に帰るだろうと考え、彼らの存在は忘れ去られました(20)。

「日本人」はユニーク!ブームとその影

そして1970年代に空前の「日本人論」ブームがおきます。社会学では「タテ社会の人間関係(中根千枝)」、心理学では「甘えの構造(土居健郎)」など「日本人」は均質な人たちであり、そのために欧米とは違うユニークさがあると主張する本が売れに売れたのです。それを支えるように欧米の日本研究者も似たような本を出します。「ジャパン・アズ・ナンバーワン(エズラ・ボーゲル)」など。経済成長と共に「日本人」はユニークである、日本流がすごいのだと、日本の大企業も「日本人論」の本を新入社員が読むべき本として指定しました(21,22,23)。

その考えは今でも引き継がれているのではないでしょうか。2020年にいる私達も、どこかで「日本人」は単一民族で欧米(白)人にはないユニークさを持っている、と思っているところがあるのではないでしょうか。

もちろん日本固有の文化は大事ですが、この「日本人論」というのは「日本人はこういうものだ」「欧米とこう違う」と単純化しすぎて主張しているところに注意が必要です 。そもそも中根千枝のいう縦社会も、ある日本の地域では横に広い社会が出来ていたりします。「日本」と「日本人」は多様なはずなのに(そういえば戦前は多民族と言われていたような・・・)あたかも全員そうです、という主張です。そして欧米もどこなのでしょうか?アメリカでも州によって違います。中西部には非常に均質なほぼ白人の街もあります。ヨーロッパでも文化や社会は多様です。

この「日本人論」、「日本人」のアイデンティティを持つ上で便利なのですが、グローバルな白人をトップとする人種ヒエラルキーの維持の上でも都合がよいのです。

東洋を異質なものとするオリエンタリズム

なぜ都合がよいか。それは「日本人がユニーク論」は「オリエンタリズム」を強化するものだからです。オリエンタリズムとは白人社会が、特に東洋や近東(オリエント)の文化や民俗を異質なものとして見ることで、自分の優位性を保つというものです(26)。

身近な例として、日本人の女性だととくに海外に出たときや、白人男性から「可愛らしい、おとなしい」とちやほやされることがあるかもしれません。逆に日本人男性は白人女性と恋愛するのを難しいと感じるかもしれません。

このオリエンタリズムという考え方はパレスチナ系アメリカ人の文学研究者サイードが提唱しました。特にアジア女性は、性の対象としてみられ、従順、あまり聡明でない、とみる。アジア男性は、男らしくないと去勢されたものとみられる(27)。これは本当にそう、なのではなく、白人社会がそう描くことで、自分たちの優位性を保つ、ということです。

ハリウッド映画をみても、現地の男性からひどい目に合わされたアジア女性が、白人男性に救われる、という筋はよくあります(最近は人種への配慮が出てきたため、少ないと思いますが)(28)。

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つまり、「日本人」はユニークだ、と声高に主張することによって白人は自分の地位を脅かされずに、日本の人々が勝手に下位の地位を固めてくれている、白人トップの人種ヒエラルキーはさらに強固になる、ということになります。

今私は欧米の学者たちが日本をどう研究してきた本を少しずつ読んでいますが、やはり「日本人」はおとなしく、受動的な、争いを避ける、均質な人たちだとフレームしたがるのだなと感じます。

自分たちの歴史を理解すること

歴史からもわかるとおり、日本の人々も白人至上主義とどう向き合うか、苦闘してきました。日本は幸運にも植民地化を逃れ、自分の国も住んでいる土地も奪われずに社会と文化を育むことができて、現在があります。

そして日本国内では、自分が「日本人」であることに疑いを持たず、差別を感じたこともない人は、アメリカでいう白人の地位にいると考えられます。つまり差別を作る立場にいる、ということです。日本でも被差別部落、アイヌ、在日コリアン、非白人の移民など差別されている人達がいます。

まず、自分たちの国の「人種」や「民族」という論理で他者を差別することの問題の理解を深めることがアメリカの人種問題を身近に感じさせてくれるのではないでしょうか。

住んでいたアフリカの地から無理やり引き抜かれ、自分たちの国も、社会も、土地も、家族も、生きる権利も失った黒人たちが、どう白人至上主義と戦ってきたのか、より深く学ぶことができると思います。

そして、学ぶ時に一つ気をつけてほしいことがあります。学術研究は極めて政治的なものです。つい100年前は白人至上主義を支持する学説ばかりでしたし、今でもその論調が完全に無くなった訳ではありません。社会や支配層がこうしたい、と思うものを裏付けることに使われてきました。人種は人為的に作られてきたものですし、日本が単一民族なのか多民族なのかは時代で学説は動いてきたのですから、そもそも「民族」とは何か、という問い直しも必要だと思います。

今まで当然だと思ってきたことを色んな視点からみて、21世紀の今、「人種差別とはなにか?日本人とはなにか?」を問い直すことが必要なのではないでしょうか。

自分がいる人種的な立ち位置(positionality)を理解し、世界的な白人至上主義にどのように自分が加担しているのか考え、また白人至上主義がどのように法律、選挙、警察といった法律の施行、文化にあらわれているのか、それを肌の色で差別されない社会にむけて改善していけるように動ける人達が日本から増えたら、人種差別問題は変わっていくと思います。

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最後に、このブログは複雑な人種、民族、差別というものを扱い、とても困難な執筆でしたが、多くの方々からコメントを頂き、このように形にすることができました。ありがとうございます。

*参考文献リストは下のファイル参照。


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