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短編小説)free way

 高速道路に乗ってから、車は順調に流れている。ウィークディの昼間に、ひとりで車に乗っている女なんて珍しいだろうか。

『東京 ――km』

  緑色した案内板の下を走り抜ける。ふと、車内が何の音もしていないことに気が付いた。苦笑いをしながら、FMをつける。
 意識の向こうで、聞いたことも無い外国の曲が流れ出す。自分以外の音が車内でし始めて、ようやく覚醒した。

 わたしは彼と別れたんだ。
 八年間つきあった彼と、たった十分前に別れてきたんだ。




 物語の始まりは、ハッピーエンドから。
 最初に好きになったのは、わたしだった。わたしは自分の存在を彼に知ってもらうのに一生懸命になった。そんなわたしに彼が気付いた。
「とても、元気がよくて、気持ちのいい女の子だと思った」 
 わたしたちは恋人になった。互いに、初めての彼と彼女だったわたしたちは、手探りで恋を始めた。
 
 大学生の時は、それだけで幸せだった。一緒に講義に出て、一緒に勉強して、一緒にご飯を食べて、一緒に帰って。

 それが愛だと思った。

 就職して、お互いそれぞれの会社で働き始めた。
 お金がもらえれば、仕事にはこだわらない。それが、わたしの労働へのスタンスだった。 
 けど、彼は違った。
 彼が、最初からそんな考えだったのか、徐々にそういう考えに変わったのかは、今でもわからない。

 二年前の春だった。彼から、話があると呼び出された。
 まじめで思いつめたようなその誘い方に、もしや、結婚? なんて、どきどきしながら、待ち合わせのカフェに行ったあの時のわたしは、完全に浮かれていたと思う。
「俺、今の会社を辞めようと思う」
「どうしたの? 突然、なにを言い出すの? あんな、いい会社なのに? 辞めるのなんてもったいないわ」
 彼が働く会社は、学生の人気ベストテンに毎年入るような一流企業だったのだ。
「いい会社だけど、与えられた仕事は、自分がやりたいことではなかった」
 彼は真っすぐな眼差しでわたしを見つめた。
 これは、相談ではなく、決定された事だ。それが分かった。
「会社を辞めてまで、あなたのやりたいことってなに?」
 心の動揺を隠すように、ゆっくりと冷静な声でわたしは聞いた。
「家具作り」
 目の前が真っ白になった。
「俺がよく行く青山の家具屋があるだろう。この間、会社の帰りに寄ったら、その店に商品を卸している長野の工房の人がいてさ」
 わたしが聞きやすいようにと、彼は言葉を一言一言はっきり区切って話す。
「その人といろいろと話すうちに、今度遊びにきませんか? って誘われたんだ。だから、先週の土日で行ってきた」
 その時わたしは、学生時代の女友達と温泉に行っていた。
「実際に働くひとたちの様子や生活を見て、俺もそこで働きたいと思ったんだ」
 
 彼が器用なのは知っている。
 わたしの部屋の家具のリフォームや、ベッドサイドに置く小さな本棚作りを、彼はすいすいとやってくれた。
 デートの時にも、よく家具屋さんに行き、こんな椅子が好きだとか、あんな棚がいいとか話していたことを思い出す。いや、しかし、だからって、家具が好きだからと言って、家具職人になろうとまで気持ちが動くものだろうか。
 
 子どもの工作じゃないのだ。
 今から始めて、モノになるのだろうか。
 生活はできるのだろうか?
 どこに住むのだろうか?
 わたしとの将来は、どうするつもりなのだろうか。

 心の中で、いくつもの疑問が浮かんだ。けれど、わたしはそのどれもが言えなかった。
 未来を語る彼の瞳の輝きに、見覚えがあったからだ。
 
 恋人になる、ほんの少し前。わたしを見つめる彼の瞳の奥にも、今と同じ輝きを見た。
 彼の情熱が、一つの勢いを持って突き進むエネルギーの強さを、わたしは誰よりも良く知っていた。
 けれど、わたしは無邪気に彼を応援なんてできなかった。そうするには、わたしたちの人生はすでに絡み合いすぎていたのだ。
 彼の就職先は、もう彼だけのモノではなくなっていた。わたしの親だって、娘の恋人の就職先を自分のモノの用に扱っていたのだ。
 母が伯母と電話で話していた声が蘇る。
「あの子の彼の勤め先? それがね……」
 鼻につく話し方だった。母を嫌だと思いつつ、自慢するその気持ちを完全に否定できない自分もいた。人間なんて、そんなきれいな心ばかりじゃないのだ。

 

 FMの曲が、いつのまにか日本の歌に変わっていた。
 でも、やっぱり、聞いたことの無い曲だった。
 今はこんな曲がはやっているのかなと思いながら、流行の曲にいつから敏感でなくなったのだろうと思った。



 彼が長野県に移住して、東京で働くわたしとは遠距離恋愛になった。生活のリズムが変わった。生活のスタイルも変わった。
 好きだと思うもの、楽しいと思うこと、大切だと思う出来事が、少しずつ少しずつ離れていった。
 今まで育てて大きくしてきたふたりの気持ちが、そんな毎日の誤差で、目に見えないくらいの量だけど、少しずつ少しずつ剥がれていったのだ。

 FMから流れた曲の中の言葉が、私の耳に生きた言葉として流れ込む。
 『……ふたりの愛のかけらが』
 アイノカケラ、か。
 上手いことを言う。

 少しずつ剥がれていったふたりの気持ちは、気が付いた時には指先位のアイノカケラになっていた。

 最後まで彼は優しかった。
 わたしの言葉にじっと耳を傾けてくれた。
 その姿に、やっぱりこれは、わたしの思い過ごしなのではないかと思いだした。まだ、まだ、まだ、わたしは彼と一緒に歩いていける。
 わたしは、彼の瞳にいつかの情熱を探した。
 けれど、永遠の黒のようなその瞳に、わたしへの想いなかった。
 残酷だと思った。





 運転するわたしの目から流れた涙が頬を伝う。涙は、唇の端からするりと口内へと入り込む。とっても塩辛い。
『悲しい涙は塩辛い』
 いつかの、テレビ番組でやっていた。
 だから花嫁の涙は塩辛くないという話だ。


 FMから、ようやく自分の知っている曲が流れ出した。
 少しアクセルを踏む。
 エンジンの音が変わった。
 心地よい振動を感じる。
 

 今はまだ、彼を恨んでしまう。
 自分の思い描いた未来が消えてしまった事実に、向き合えない。
 わたしの人生に彼はいない。
 それが不安で心細い。
 
 でも、自由でもあった。
 彼の言葉や行動に悩み、心を揺らす日々は、もう終わったのだ。
 

 わたしの手には、どんな色にも染められる未来がある。
 


 いつか、彼を応援できるだろうか。

 
 
 そう思える未来を
 そう思える自分を
 

 わたしは手に入れたい。


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