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三月物語~ハルとわたし

  土曜日の午後二時。緑道沿いのカフェは、ほぼ満席だった。わたしと恋人のハルこと佐田 晴人《さた はると》は、無言でカフェオレを飲んでいた。
 すると、突然、隣の席のカップルが揉めだしたのだ。

「なに、それ! 東北の大学に進学するなんて、聞いてないし」
「言えなかった。受かるなんて思わなかったんだ。自信がなかったんだよ」
「受かる自信がない? デートできないほど勉強していたくせに、なによその弱気は」
「それに、遠くの大学を受けると言えば、きみが悲しむと思って」
「内緒にされていたほうが悲しいわ! 行きたい大学なんだよね? その想いを、わたしにも話して欲しかった。全部済んだ後に報告なんて、さみしい。わたし、頼りにならないダメ彼女だってことだよね」

 わたしの前に座るハルが咳き込む。そうでしょうね、との言葉をのみ込み、わたしは東北の大学に進学する彼氏の答えを待った。

「ごめん。ぼくに、いろいろと覚悟がなかった。落ちたらかっこ悪いって思った」
「落ちても格好悪くなんかない! 勉強、頑張っている姿、ずっと見ていた。それなのに、結果が出なかったからって、格好悪いなんて、言うわけないし、誰にも言わせないよ」

 彼女さんの言葉に拍手を送る。それは、わたしだけでないようで、おそらくこの店にいるほとんどのオトナたちが、彼女の言葉を、甘酸っぱくも、まぶしい思いで聞いているのだ。

「でも、ぼくたち、今みたいに週に何度も会えないよ」
「そりゃ、寂しいよ。絶対に泣く。だからって、反対なんかしない。応援する。全力で味方になる。わたしの好きはそれくらい大きいんだから」

 ハルは、後ろめたそうな目でわたしを見ると「店、出ようか」と、言ってきた。

 ハルとわたしは、カフェを出てそのまま緑道を歩いた。桜の開花は来週だそうだけど、つぼみは固く、まだ花を咲かす気配はない。日差しはあるのに風が冷たい。今日は、三寒四温の「寒」だ。すれ違う人たちの服装も、やや冬よりの格好に戻っている。
 それでも、彼らに悩みなどないように見えてしまうのは、わたしの僻みだろうか。

 八年前の三月、わたしは高校の卒業式という名のイベントにのっかり、隣クラスのハルに告白……未遂をした。
「好きです」と、言うつもりだったのに、なんたることか、わたしは土壇場で「お友達になってください」と、言ってしまったのだ。ハルは、わたしの告白未遂の発言に目を丸くしたものの、すぐに笑顔で「ぼくで良ければ」なんて、優等生の答えをわたしにくれた。
 同級生ではあったものの、クラスの違ったわたしに対して、ハルは律儀な態度で接してくれた。つまり、友達になるべく、行動を起こしてくれたのだ。
 わたしたちは違う大学に通っていたため、それぞれの大学の友人たちを誘い合い、遊園地や映画や温泉にも行った。大学に入学の頃は「佐田君」「梶原《かじわら》さん」と呼び合っていた名前は、二年生にあがるころには「ハル」と「アヤ」になっていた。
 ハルとわたしは、本当に友達になってしまったのだ。けれど、わたしのハルへの想いは、友情といった清らかな感情だけではなかった。
 ハルの薄茶色の髪や、長い指、背の高いその後姿にときめいた。電話口から聞こえるハルの低い声、申し訳なさそうな顔をするときの少し垂れた目、笑ったときに見える犬歯。
 他の人には、なんだそれって思えるだろうひとつひとつが、わたしにとっては宝物だった。

 けれど「お友達になってください」と申し出たのは、わたしだった。ハルだって「お友達」だから、わたしを受け入れてくれたのだ。それなのに「実は好きなので、つきあってください」なんて告白は、いまさらできなかった。

 いつか、ハルには恋人ができるだろう。もしかすると、わたしが知らないだけで、すでにいるのかもしれない。
 そんなもやもやとした感情を抱えつつも、好きな人と友達になれたのだから、これはこれで儲けものだよなと、ざわつく感情をなだめ、頭を切り替えた。
 そう納得していた矢先、大学二年生も終わるある春の日。ハルはいきなり友達の境界線を越えてきた。そこからはもう、彼はわたしに甘い、とびきりの恋人になっていったのだ。
 ハルとは大学だけでなく、就職先も別々だった。それでも、なんの不安も抱かなかったのは、彼がいつもわたしのそばにいてくれたからだ。

 けれど、この四月から、ハルとわたしは住む国さえ別になる。わたしはそれを、今日、あのカフェで聞いた。
 飛行機で七時間半の距離は、遠いのか、近いのか。

 前を歩くハルの袖を引っ張る。
「ねぇ、ハル、なにか言って」
「なんて言って欲しいの?」
「ずるいよ。そんな質問してこないで。ハルは、わたしと別れたいの?」
「嫌だ」
「ならどうしてこんなギリギリまで、なにも言ってくれなかったの?」
 ハルがわたしを見下ろす。
「迷っていた。アヤになんて言えばいいのか、言葉を探していた。ぼくは日本にいつ戻って来られるかわからない。アヤのことを考えれば、このままの関係は良くないと思った」
「ハルは、わたしと別れてもいいの?」
「嫌だ。でも、自分自身どうなるかわからない未来に、アヤを巻き込めない」
「ハル、巻き込んでよ。未来なんて、誰もがみな、どうなるかわからないんだから。安心できる未来が約束されている人なんて、この世にひとりだっていない。もし、自分は違うなんて思っている人がいたとしたら、その人は、錯覚しているだけなんだよ」

 平和な世界。
 安全な世界。
 また、明日ねと、言葉を交わしたひとと会える世界。
 人も物も自由に行き交いする世界。

 そんな日々は奇跡だったと、わたしたちはこの十年で知ったはずだ。

「ぼくたちは、離れても大丈夫だろうか?」
 ハルの瞳が揺れる。
「大丈夫だよ、ハル。わたしはハルを見失わない。遠くに離れたら、そりゃ、寂しい。絶対に泣く。だからって、反対なんかしない。応援する。全力で味方になる。わたしの好きはそれくらい大きいんだから」
「……後半のセリフ、どこかで聞いたな」
「頑張る女の子の心は、みな同じなのです」

 彼と手を繋いで歩く。本当はわたし、ハル以上に不安だ。
 わたしたちは、そばにいたから、うまくいっていたのかもしれない。
 離れたらどうなるのかなんて、想像もつかない。
 この先の道が、見えない。

 けれど、目の前にある愛情を希望をぬくもりを、掴まないなんて贅沢な真似、わたしにはできない。
 一分、一秒先の未来でいい。掴んだほんの少しの未来の積み重ねが、大きな未来へと続くよう、わたしは努力し続けよう。

 喧嘩もするだろう。
 傷つけあうだろう。
 それでも、その相手は、他の誰でもなくハルがいい。
 それほどに、わたしは彼が好きなのだ。

 混沌とした先にのびるふたりの歩く道が、どうか長く交わっていきますように。ハルの笑顔と、わたしの笑顔が続きますように。

 ハルに抱きしめられる。
 ハルの匂いに包まれる。

 大好きだよ、ハル。

 今日の日を、わたしは忘れない。





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