ひいおばあちゃんと戦争の話

大正11年生まれの曾祖母は、私がハタチを迎えた年に亡くなった。91歳だった。

曾祖母が亡くなる3年前、曾祖父が同じく91歳で逝去すると、曾祖母はあっという間にボケてしまった。私の名前も存在も忘れてしまうほど。それでもとても穏やかな人柄は変わらず、毎回「初めまして」と言って私の話をよく聞いてくれ、そして私のことを「なんて可愛い子だ。美人さんだ。」と言ってくれた。曾孫のことを褒めちぎるのは以前と変わらない曾祖母の姿だったので、私の名前を思い出せなくても、それほど寂しくはなかった。

ある朝、曾祖母は自宅で亡くなった。前日は夕飯を食べ床につき、眠ったまま起きることはなかった。死因は「老衰」。お手本のような「ピンピンコロリ」で家族に羨ましがられる最期だった。

お通夜の日、喪主を務めた祖父から衝撃的な話を打ち明けられた。
「俺の本当の母親はこの人じゃないんだよ」

初耳だった。
話を聞くと、とても複雑な事情があったらしい。
そのことについて、記録も兼ねてここに記しておく。



曾祖父と曾祖母が結婚する前、2人は既婚者だったが、それぞれのパートナーを戦争で亡くしていた。戦争が終わり、親戚のツテで再婚の話が舞い込んできた。戦後の貧しい時代、今日を生き抜くのもやっと。生計を立て直すために再婚するパターンは珍しい話ではなかったらしい。

当時の曾祖母には、2歳の息子がいた。曾祖父にも、幼い息子がいた(この息子が祖父である)。

しかし、よほど貧しい時代だったのだろう。再婚しても子供2人は養えないからと、曾祖母は、実の息子を養子に出すことにした。

戦争で亡くなった元夫の妹、義妹夫婦は、なかなか子供ができなかったこともあり、曾祖母は息子をその夫婦の養子にすることに決めた。

その息子を養子に出すとき、曾祖母は義妹に「この子はあなたの子。あなたが産んだ子。子供が辛くなるから、私の存在は絶対に明かさないで。」と頼み込んだ。

義妹夫婦は、曾祖母の願いを聞き入れてくれた。以来、曾祖母と息子は親戚の法事以外に顔を合わせることはなかったし、もちろん息子に本当の母親を明かす人も居なかった。



曾祖母のお通夜が始まろうとしているタイミングで、祖父が、曾祖母の遺書を私に見せてくれた。そこには「私の葬式には、息子のツヨシ(仮名)を呼ばないでください。」とあった。

祖父が言った。「葬式に呼ぶなと書いてあるけれど、通夜に呼ぶなとは書いていない。これからツヨシさんに連絡するぞ。」

大人達がバタバタと動き出した。反対する人は1人もいなかった。曾祖母は反対しているかもしれないけど。親戚のおじさんが「死人に口なしだもんな」と言った。みんな静かに笑った。

通夜も終わり参列者も住職も帰った21時過ぎ、一人の男性が現れた。

一瞬ひいおばあちゃんかと思うくらいそっくりの初老の男性は、ツヨシさんだった。

ツヨシさんはこの日、母親に「実の母親は私でなく義姉だ」と聞かされ、通夜に駆けつけたそうだ。
緊張した面持ちで棺桶を覗く息子の姿を、ひいおばあちゃんはどんな気持ちで見ているのだろう。



この出来事から10年近くが経ち、私にも2歳の息子がいる。子供を自ら手放すなんて絶対に出来ないことで、もちろん曾祖母も同じ気持ちであっただろう。しかし、自分も、そして大切な子供も生きるための選択だった。もし私が曾祖母の立場だったら…曾祖母のように強く生きられただろうか。そもそも、曾祖母は強く生き抜いたのだろうか。戦争が終わっても、生涯を終えるまで辛く我慢の日々を強いられた人々がどれほどいただろう。

戦争なんて二度と繰り返してはならないと強く強く思う。

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