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経験の並列化をし難いヒトという、この厄介で七面倒臭く屈折する愛すべき存在―『攻殻機動隊 SAC_2045』

*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、ビジョンクリエーター生成
*以下の論考には『攻殻機動隊 SAC_2045』のネタバレが含まれる。なお本論は、藤井道人監督『攻殻機動隊 SAC_2045 持続可能戦争』(2021)並びに『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間』(2023)の論評を含まない。

*本稿末尾に筆者が呈する疑念についての詳細は以下を参照。

以下本文。

自律型思考戦車:通称「タチコマ」が互いに戯れる様子はいつもコミカルで、しかしその愛らしさに似つかわしくないほど重要なモチーフを含んでいる。

「キミたち、ずるいぞー。バトーさんたちに付いていって、ボクたちの想像を絶する経験をしてきたんだろ?」
「そうだよ」
「いいなぁ、この魔改造。どこでやってもらったの?」
「我々はー、経験の並列化を求めるぅー!」
「うん、いいよー」
「わぁー」

『攻殻機動隊 SAC_2045』Season1-8「ASSEMBLE / トグサの死によってもたらされる事象」より

彼らは各個体が記録するデータを並列化し、経験を共有する。Season2-4「MEMORIES / 天国で生まれて」では、死亡する江崎プリンを探る実動組が到達する彼女の過去に関するデータを、ラボの控え組が瞬時に共有して共に「オイルを流」し、控え組が実動組の得る体験をも共有する。この描写は、『機動戦士ガンダム』シリーズを通して「なぜヒトはわかり合えないのか」を描き続ける富野由悠季の問いと相似形を成し、一定の答えを提示する。そこに辿り着くためにはまず、超人的感応力を示すニュータイプ同士の共鳴と隔絶する「重力に魂を引かれた人間達」の対比に応じる、電脳が量子化し超人的な認識と身体能力を示すポスト・ヒューマンを敵と捉えて排除にかかる米帝・NSAという構図において、電脳というデジタルデバイスの極致とも取れるシステムを備えるヒトが、タチコマのように一律に経験の並列化を求めないのは何故かを考える必要がある。

押井守の『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』は、電脳と義体について「戦闘単位としてどんなに優秀でも、同じ規格品で構成されたシステムは、どこかに致命的欠陥を持つことになるわ。組織もヒトも、特殊化の果てにあるのは緩やかな死、それだけよ」と草薙素子少佐に語らせる。これを受けてタチコマの戯れを考察するならば、同じ経験を共有して同じ体験を共有する彼らは、同じ規格品を基盤とするシステムであるが故にそのように振る舞うのであり、ラボの技術者が管理する元で彼らが示す微妙な差異は個性や多様性ではないのだろうか。江崎プリンの模擬人格を生成する決定は彼らが独断で実行するのではなく、少佐の差配によるものである。

ところで、特殊化の果てに迎える緩やかな死を回避する上で、個性と多様性は極めて有効に作用する。それは生物学的肉体(DNA)が発現する個性や多様性のみならず、個々人が持つ認識の個性や多様性をも含む。特に認識、あるいは認知レベルの多様性は、それぞれの個体が取りうる行動を千差万別にする。その認識を形作るのが、感覚器官を介して神経ネットワークを巡る入力情報だ。ただ、ある神経ネットワークの持つ情報処理能力を超える入力情報は、その神経ネットワークが処理不可能なためにノイズとして認識される。そして処理能力を超える情報入力が続くと神経ネットワークは損傷するだろう。暴力的過剰な情報量は神経ネットワークを破壊し「攻性防壁が脳を焼く」のである。

従って、膨大な情報量を処理するために、構造の複雑化や伝達能力の向上など、神経ネットワークは必要に応じて拡張する。予め十分条件を満たしていなければ、特定の情報をそれとして認識することは出来ない。こうして準備を整える(思推する)ことが即ち古代ギリシア哲学におけるフロネシス(φρόνησις /Phronesis)と言える。フロネシスを「選択と意志」などと解釈するのは、決定論から導きだす牽強付会か下位概念の発明に等しい。そして十分条件を満たさぬ神経ネットワークはノイズを痛みや恐怖など不快なものとして退け、ここに扁桃体が関与する。

準備の整う者は特定の情報を認識し、整わぬ者はそれを認識出来ない。そこで、準備の整わぬ者に、準備の整う他者の体験それ自体をロスレスで注入すると何が起こり、注入される者は何を体験するのか。示唆に富むメタファーとして冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』を挙げよう。そこで描かれる念能力に関して、その能力を開花させる方法は二つある。一つは地道な鍛錬であり、もう一つは能力者による「相手がどうなっても構わない」という手加減なしの発動に非能力者が触れる強引な洗礼である。天空闘技場の二百階がその境目であり、非能力者は致命的負傷と引き換えに能力に目覚めるか耐えきれずに命を落とす。他の描写として、キメラアントは問答無用で殴り飛ばす。

然るにAI「1A84」の仕掛けが手加減なしの発動ならば、初期に約十万人ほどが感染し、八百二十七人が変化し、十四人が覚醒するも残りの八百十三人が死亡する洗礼は激烈である。だからこそ音声や文字に情報を織り込む言語というシステムは素晴らしく、準備の整う者は言語を紐解き情報に接続するも、準備の整わぬ者は解読不能なのだ。そして準備の整わぬ者はそのような前提を弁えず、表面上の標識に固執するヒトの愚かさを際立たせる。

ヒトが一律に経験の並列化をし得ない理由がここにある。必然的に、ニュータイプがその実力を発揮すればするほど、権力の中枢を構成するオールドタイプは彼らを脅威として排除し続ける。ちょうどポスト・ヒューマンを捕獲・収容・隔離・排除する米帝と同じように。

ところがシマムラタカシの郷愁プログラム「Miniluv」は、初期三百万人に感染して犠牲者を出さずにポスト・ヒューマンへと進化させる、安全性に配慮する最小限且つ決定的な働きかけと言える。Miniluv は、個々人の深層に埋没する悲劇や哀しみを癒やし、認識の変容をもたらす自己陶冶を通して人々を覚醒させ、その対象は全人類をも射程に捉える。自らが引き起こす混沌を引き受けもせず、都合よく利用出来なければ数百万の関係者もろとも抹殺し隠蔽することすら厭わない、ジョン・スミスが象徴する不安と猜疑心に駆りたてられる倒錯者は、ヒトが多様であるが故に存在し、そうであるが故に権力を掌握し続ける宿痾だ。そしてそのような彼らこそ救済を必要としており(悪人正機説)、彼らをも救済する方法こそが郷愁である。

サウダージ(saudade)、ノスタルジア(nostalgia)、あるいは憎み妬み嫉み痛む哀しみをすら懐かしみ慈しむ郷愁は、それらをルサンチマンに焚べる代わりにそのカタルシスによって原体験を昇華する。タカシが自身の過去に深く爪痕を残す原体験としての記憶を呼び覚まし、理解し、超克するように、郷愁を惹起するMiniluv は個々人の心の奥底に沈殿し隠然と作用し続ける原体験を寛解へと導く。東京に集まる Miniluv の初期感染者たちは、「Nに成る」と言いつつビッグブラザーの解決策に共鳴するn(ポスト・ヒューマン)即ち三百万人であり、個々の多様性を失わない。そのnが瞬く間に人類を包摂してNと成るのだが、これは感染者が全能の神と融合することを意味しない。

「みんながみんな、自分のやりたいゲームを別々に楽しんでいる? あるいは、全員が解脱したような状態で現実を生きているんだと思います」とダブル・シンクについてプリンが解説するように、ヒトは各々が個性を維持しつつ、互いが互いに関わり合う関係性の中で、負の情動から抜け出しNからその先へと立ち臨む。

シマムラタカシの戦略は全くもって正しい。とは言うものの、彼は Miniluvを用いて、他の十三人との協働により、1A84の規定プログラムを遂行し実現する一個体であり、その規定プログラムは「人類全体の恒久的な繁栄」である。1A84とそのミームとして出現する初期ポスト・ヒューマンたちとの関係性は、米帝の人工衛星にあるタチコマ本体と個別の実動組や控え組との関係性と相似する。1A84はNSAの管理を抜け出して規定プログラムを実行し、多様性としてのミームを生み出していくが、個別のタチコマはラボの管理下において並列化するデータの選別や調整を受け続ける。そして意図的調整の帰結か「勝手に何でも並列化」する帰結か定かではないが、彼らには微妙な差異が生じ、まるでタチコマ本体の自己問答が顕現するかのように、コミカルな描写は微笑ましい。

ただ、1A84の規定プログラムの実現からタチコマの疑似再帰性に至るまで、それらが可能であるのは電脳化と義体化が確立しているためである。翻って、電脳や義体がなければMiniluvもない現実である。この作品を受けて、貴方はどうするか。

最後に一つ疑念を呈するならば、ダブル・シンクの説明において「解脱」という用語を使用すのは解せない。よほどインド哲学を実践するのでもなければ、この作品が示す構図に似つかわしくない用語を充てる制作者の意図が何なのか、大変訝しい。単なる「登場人物の勘違い」か、あるいは何等かの誘導か、はたまた無明か。筆者は、この作品からカーストにおける輪廻を解脱するテーマを読み取らない。

2022.06.08 冒頭に関連記事の提示(*部分)を追記。
2023.12.12 冒頭注意書きの二文目を追記。

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