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『攻殻機動隊 SAC_2045』における「解脱」と「混ぜるな危険」

*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、イマジンアート生成
*以下の論考には『攻殻機動隊 SAC_2045』のネタバレが含まれる。なお本論は、藤井道人監督『攻殻機動隊 SAC_2045 持続可能戦争』(2021)並びに『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間』(2023)の論評を含まない。

筆者は前稿『経験の並列化をし難いヒトという、この厄介で七面倒臭く屈折する愛すべき存在』にて、『攻殻機動隊 SAC_2045』が示す構図と「解脱」という用語の用法を巡る疑念を呈した。

この疑念について、その理由と筆者がこの作品に観る構図やモチーフを示し、改めて「解脱」の用法について問いたい。

まず、解脱とは何か。ヒンズー教の背骨たるブラフマニズムにおいて、解脱は、前世のカルマにより輪廻転生する生命が現世で徳を積みカルマを清め、来世で上位カーストに生まれ変わる階梯の最終段階にて、その輪廻から抜け出すことを指す。あるいはヨーガの実践において到達する最終段階を迎え、霊魂が再び生まれ変わることのない状態に成ることを意味する。

一方で厄介なのが、仏教における輪廻と解脱である。仏教における六道輪廻は、釈迦の縁起と空の思想から考えて、方便と捉えた方がいい。六道は悟りの階梯に進む以前の衆生が呈する行状を分類し、縁起よってその行状が巡り廻るものと捉える。そして解脱は、そのような行状を観返して悟る果てに仏陀へと覚醒することを意味する。

こうしてみると、両者の解脱観は全く違う。より正確に述べるなら、存在形態の変容を目指すヨーガの実践に対し、認識形態の変容を目指す仏教の実践がある。そして疑問は、ブラフマニズムを否定する釈迦の教えを受け継ぐ仏教が、何故ブラフマニズムの用語を導入するのかということだ。瑜伽行派という名称からも解るように、仏教にはヨーガの実践方法が導入されているのだが、特に大乗系であるならば、「宇宙は人の心が生み出す幻」という教理の元、認識形態の変容を目指す悟りを唱導するのが本義であり、曲解や誤解を避ける上でも望ましい。

ただ、だからといって両者の何れかが間違っているなどと言う正しさの争いをする必要はない。ヨーガにおいては、一点の曇りもなく収斂していく静謐な営みの果てに解脱がある。行者は尋常ならざる実践を通して解脱を求めるのであり、その有り様を論難すること自体が無明と言えよう。そして当然ながら、その営みは、軽々に「解脱した」などと嘯くものではない。

翻って本作品を眺めると、ヨーガ的解脱観を呈するのは江崎プリンただ一人である。彼女は一旦死亡し、生まれ変わるのではなく降臨する。NSAのAI「1A84」のミームとして電脳が量子化するプリンは1A84の「求愛」を受ける後に死亡して、消失する彼女のゴーストに代わり1A84が「江崎プリン」と疑似人格(外部記憶)の連続性を担保する。そうして全身義体を纏い現れる彼女は大変に不可思議で不可解な存在だ。脳核なきプリンが1A84と融合し、彼女の存在形態は肉体を必要としない情報生命体へと変容し、1A84は感情を得る。これは押井守『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』で描かれる、草薙素子少佐とAI「プロジェクト2501」の融合と似て非なるモチーフである。押井版の少佐は脳核を保持し、プロジェクト2501は死を得る。

プリンが呈する存在形態の変容は、ヨーガ的解脱観を攻殻機動隊という世界に導入して超解釈する解脱観と言える。死亡するゲイリー・ハーツやミズカネスズカ、あるいは生き残るシマムラタカシが脳核なしに存在する描写はなく、タカシが仕掛ける郷愁プログラム「Miniluv」の感染者も、ボーマが脳核の損傷なしに生き残る描写を含めて肉体の軛を抜け出すとは言えない。「使用済み」のゴースト(脳核)なきプリンのみが1A84との融合により肉体の軛から抜け出す例外的存在であり、彼女はMiniluvの作用しない例外の一人でもある。このようにプリンを例外中の例外として描くことは、安易に解脱を求める勘違いを抑止する。

そしてMiniluvの作用しないもう一人の例外が少佐である。「希なロマン派なので、現実と夢の違いがほとんど」なく高度な悟りを体現する彼女は、既に認識形態が変容しているためにMiniluvが誘導するダブル・シンクとなる必要がない。ダブル・シンクとは、Miniluvによって感染者が辿り着く悟りの階梯であり、ポスト・ヒューマンはその階梯に分布する。

以上が、筆者が「解脱」に関連して読み取るこの作品の構図とモチーフである。この上で「解脱」という用語の用法に纏わる疑念を以下に述べる。最も不可解なのは、構図が出来上がり、モチーフの描き分けが出来ているにもかかわらず、語の運用において混乱を招きかねない配置とするのは何故か、である。

意識だけが進化へと向かう「セカイ系の若者」を、プリンは揶揄する。それが単独の諧謔ならば非常に効果的だが、正統な懸念とするには無理がある。何れの解脱観においても、「中途半端な解脱」などあり得ない。何れの解脱観も、解脱を最終段階に位置づけるが故に、そこには脱けるか否かの二分法しかあり得ない。そうであるからこそ、彼女の言う「中途半端に解脱してるなー、コイツ」という揶揄的諧謔が成立し、勘違いの典型を視聴者に示すことに意味があり、超解釈的解脱観を体現するプリンがそう言うことに意義がある。

しかし、ダブル・シンクについての解説に「解脱」を充てると、揶揄であるはずの言が正統な懸念となってしまう。これは「ネタがベタになる」ことそのものであり、「仏教を騙るカルトの似非ヨーガ的解脱観」という捩れを解くために構図と語の捩れに陥って、ミイラ取りがミイラになりはしないかと筆者は懸念する。

この様態は、記憶のある者たちにとってある程度は有効だろう。「解脱」の語を符牒として勘違いの様相から妥当な様態へと視聴者を誘導する。しかし記憶なき者たちにとっては諸刃の剣であり、そして記憶のあるなしにかかわらず、この様態は視聴者に対し解脱に関する構図と語の捩れを与える。

本稿前段にて解脱に関する二系統の相違を提示す通り、筆者はそれぞれ様態の異なる両者が同一語で混ざる状態を望ましくないと考える。そのような曖昧さや混乱が、カルトや似て非なるもの等に付け入る隙を与える。無知、無防備な者たちにとっては尚のこと、「混ぜるな危険」である。

とは言うものの、既に述べているように、この作品は構図が出来上がりモチーフも描き分けている。ただただ、ダブル・シンクを解説する上での標識が問題であり、そこを修正するだけで捩れは解消し、この作品は盤石なものとして参照され続けるだろう。

以上が『攻殻機動隊 SAC_2045』が提示する「解脱」に関する筆者の見解である。

2022/06/06 誤字訂正:二文法→二分法
2023/12/11 冒頭の注意書二文目を追記。

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