「実写版が『カウボーイビバップ』である必要性」が見当たらない

*以下の論考にはNetflix制作の実写版『カウボーイビバップ』に関するネタバレが含まれる。

まず、吹き替えが原作そのものであり豪華だ。20年の時を経て変わらない山寺宏一、林原めぐみ、若本規夫は驚嘆に値し、亡き石塚運昇に代わる楠大典は違和感が無い。しかし、そうであるが故に、洋画の吹き替えがアニメと共鳴することも相まって、このドラマは原作を想起し続ける。

フェイの属性に関する違和感は後に述べるとして、主要人物の3人が織り成すやり取りは正に原作を踏襲し、しかし宿敵にしてかつての相棒がエディプス・コンプレックスに身を焦がす阿呆な息子として現れ、欺かれて守られる女が目の前に転がり込んだ権力に目覚めるという対のプロットには、声優陣の真価が原作を強く意識させるが故に、拍子抜けを通り越して呆然とせざるを得ない。

そして悶々と湧き上がるのは、このドラマが『カウボーイビバップ』である必要性がどこにあるのか、という問いであるが、ここで観点を変えて、原音字幕で全編を眺めると違った様相が浮かび上がる。それは「カウボーイビバップ風の何か」だ。

スパイク役のジョン・チョーは悪くない。ジェットを演じるムスタファ・シャキールも良い感じだ。そして問題(?)のフェイは、シンガポール出身(華僑系?)という設定を無視すれば、コメディエンヌとしてのダニエラ・ピネダの演技を楽しめる。父親の期待と侮蔑に劣情を滾らせる愚か者を演じるアレックス・ハッセルは見たままであり、か弱さが不穏さに転換するエレナ・サチンは歌唱力抜群だ。脇役も(ほとんど)皆、不足は無く、最後に出てくる「何か」は些細なものとして片付けてしまえば良い。

そして相変わらず悶々と湧き上がるのは、何故このドラマの舞台が『カウボーイビバップ』なのか、という問いである。

原作を映像作品として仕上げるにあたり、出来上がった映像作品と原作の比較は避け難い。その比較を無力化する方法は、原作の設定を忠実に踏襲しつつ、原作のプロットには無くともあり得る物語を提示するか、原作の構成要素を通して原作とは全く違う主題に沿った別世界を展開すればよい。話の筋が原作とは全く違えども、問うに足る主題設定と物語展開の説得力が作品を成立させる、ということを「原作クラッシャー」たる押井守は示している。

そしてルパート・サンダース版『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、押井版・神山版の「良いとこ取り」をする様に取り散らかしつつ、記憶の連続性が生み出す実存と膨大な情報ネットワークの間で揺れ動く「ゴースト」を問うでも無く、社会的歪みを炙り出すでも無く、「行為が人の本質を規定する」という行動主義的な薄っぺらさに退行し、この実写版『カウボーイビバップ』以上に幻滅させる。

このように捉えると、実写版『カウボーイビバップ』はそれほど悪くは無い。但し、それは原音字幕に於いてであって、吹き替えは懊悩すること請け合いだろう。

1/4  誤記修正:コメディ[アン→エンヌ]としてのダニエラ

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