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飲み食い喫い打ち溺れる怠惰な恒常性は斯くも強かで、その無間地獄から抜け出す契機は斯くも僥倖なり―『ガチ★星』

*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、ビジョンクリエーター生成
*以下の論考には、映画『ガチ★星』(江口カン監督、2018)のネタバレが含まれる。

主人公の濱島浩司は、その恵まれた身体能力とは裏腹に怠惰な男だ。球団から戦力外通告を受けプロ野球選手を辞める彼を雇い入れる旧友・松永の妻を寝取り、息子の誕生日をパチンコで素放す愚かな男は、如何に後悔しようとも、その惰性と中毒性のある行動を変えることが出来ない。彼は煙草と酒に溺れ、金を無心し、規律の厳しい競輪学校に入学しても隙を見てはその悪癖に浸るほどだ。そしてプロになった後も、悪習を容易に断つことなど無く、酒と煙草とパチンコで晴らす筈の憂さを溜め込んでゆく。

そんな濱島と対照的なのが久松孝明だ。規則正しい生活習慣に沿い、暇さえあれば練習に打ち込む「競輪バカ」の彼にとって、競輪は、「これしかねぇっちゃ」と言わしめる、彼が生きる地獄からの一点突破を図る手段である。

濱島は久松のスリップストリームに二度入る。一度目は競輪学校で殆ど心が折れる濱島に久松が範を見せる形で、二度目はプロになって初めて直接対決する際に一着を争う形で、久松にその意図はなくとも彼は濱島を引き上げ、濱島は彼の後を追い、二人の関係性は象徴的なものとなってゆく。

そして事故が起こる。プロ初対決となるレースの最終周回でデッドヒートを繰り広げる濱島と久松は、互いにヘルメットと肩で競り合って進路を譲ろうとはしない。その衝突の最中で互いのハンドルが僅かに引っかかる瞬間、バランスを崩す二人は転倒する。濱島は転倒で済むのだが、久松は後続の車輪が背骨を直撃して重傷を負う。相手に選手生命どころか日常生活すら脅かす大怪我を負わせた自覚のある濱島は呆然とし、その晩に自室に戻って「辞めるか」と呟く。正にその瞬間、あの鬼教官・矢山周作が彼の家を訪れる。

『セッション』(デイミアン・チャゼル監督、2014)や『ハンガー:飽くなき食への道』(シッティシリー・モンコンシリー監督、2023)、あるいは『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(クリント・イーストウッド監督、1986)や『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック監督、1987)が描くブートキャンプの鬼軍曹(教官)の如き矢山が見せるシゴキは、その手法の是非はさておき、高みに魅せられて狂気を孕む三作品の描写とは一線を画すハイウェイ一等軍曹の思慮を踏襲する。「自分の仕事は、全員をプロの競輪選手に育てることなので」と冷静に自省する彼は、久松の入院先を認めたメモを渡し、別れ際に「あのレースのお前は、間違ってない」と濱島に告げて引き止める。濱島はプロ競技者としての自身の正しさと、相手の選手生命を絶ってしまったかに見える重大さという矛盾に向き合わざるを得ず、矢山のメモが促して彼は久松を見舞いに行く。

久松はリハビリ室で歩行訓練を始めており、思うように動かない下半身を引きずりながら補助器具を掴み損ねて倒れ込む。その痛々しい光景を目にして、濱島は彼に駆け寄り半泣きで謝罪をする。ところが濱島を認めて「触んな」と拒絶する久松は、堰を切ったかのように感情が迸り、首と腰で背骨を固定するコルセットを掻き毟って吼え、咽び泣くのだが、しかし彼の表情は次第に冷静へと様変わりし、そこに居る忌まわしき濱島など存在しないかのように一瞥もくれず、歩行補助器具の平行棒に食らいついてゆく。その情念の凄まじさ、感情の制御、そして何よりも競輪のトップ選手に戻らんとする久松の恒常性を目の当たりにする濱島は、その帰途に、まるで子どもがはしゃぐかのように「わかった」と喜びに満ちる。彼は、漸く自身が如何に怠惰であるかを体感するのだ。

そこからの濱島にとって、勝つために何をする必要があるのかは自明である。酒と煙草を棄て、食生活を見直し、肉体を強化し、戦術を学ぶ。二十ほど年の離れる上杉に教えを請い、鬼教官の元に戻って自身を鍛え直す彼は、同時に久松に「サニーパン」を届け続ける。久松のスリップストリームも拒絶で見せる凄みの何れも、濱島にとっては久松からの贈与である。濱島は同郷の誼で地元の名物を贈るのだが、久松にとって、それは忌まわしき記憶を呼び覚ます。

「サニーパン」は酒と暴力が絶えない父の亡き後に借金に纏わる心労と酒浸りで若年性痴呆を発症する母を介護する久松の幼少期に紐付いており、介護施設に預ける母の為に「これしかない」ほど競輪に打ち込む久松にとって、それはかつての絶望と対面することを意味する。しかし、濱島はそのような事情など知る筈も無く、返礼として贈り物を届けているのであり、久松は怪我の原因が彼に起因しないことをよく分かっている。濱島が示す贈与が自身にとっての絶望である矛盾と向き合わざるを得ない久松は、その「サニーパン」を喰らって今ある絶望的状況と過去の絶望を乗り越えてゆく。

恐らく、怪我が無ければ新人デビューからの五連勝より更に記録を伸ばし続けて高みに到達したであろう久松は、到達し切るか母を亡くす時点で燃え尽きていたかも知れない。しかし濱島という「好敵手」を得る彼は、絶望を乗り越えて勝利の味を噛みしめる。その濱島は、正に「好敵手」に相応しく久松を自身のスリップストリームで引くまでに成長する。そして自身の怠惰を克服しトップレベルで競える充実感を噛みしめる濱島は、ただ楽しく嬉しい。

2023.07.09 追記:久松のスリップストリームも拒絶で見せる凄みの何れも、濱島にとっては久松からの贈与である。
       訂正:償いとして→返礼として/濱島が示す[削除:善意の]贈与が

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