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【第22章・備中守の狙い】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二十二章  備中守の狙い

 栄は、備中守の問いを無視し、彼を睨んだまま黙っている。十万石の大名に対して、これはない。町田が堪らず注意する。
「もし、お栄殿、お栄殿、聞いておられますか。備中守様が、お尋ねですが」
「も、申し訳ありません。少々、考え事を」

「お栄殿には不本意かもしれませんが、備中守様のおっしゃる通り、ここは法眼様の乱心として処理をし、後々、家督相続などについて備中守様にご助力いただく、とすればよいのではないでしょうか。備中守様も、如何でしょうか」

 備中守は殊更に真面目な表情を作り、大きく頷いた。
「うむ。融川法眼とのことは行き違いもあったようだ。今後、狩野家のため、予に出来ることがあれば、出来る限りのことはさせてもらおう」
「備中守様もあのようにおっしゃっておられます。お栄殿、如何でしょう?」

「それは、そうなのですが・・・」とだけ言って、栄は再び黙った。

 本当にそれが最良の落としどころなのだろうか。若様たちの将来については、それで安心と言えるかもしれない。しかし、融川乱心としてしまえば、あの屏風はどうなるか。

 乱心者の描いた屏風が、公方様から外国の王への贈り物の品目として残るとは思えない。あの屏風は、狩野融川寛信という絵師が、この時代に生きた証だ。誇りそのものだ。それを諦めてしまってよいのか。お家の安泰、先生の誇り、両立させる道はないのか。

 栄は、上目遣いに備中守の様子を窺った。完全に落ち着きを取り戻しているように見えた。

 くっ、忌々しい。公方様が、こんな奴を重用するから、こんなことに・・・。

 その時、栄は思った。あっ、公方様か、と。そして、唐突に備中守の考えていることが分かった。備中守が気にしているのは誰でもない。公方様なんだ!

 融川の死因を病死と処理しても、融川と備中守が城中で口論した場面は、老中たちも含めて多くの者に目撃されている。隠しようのない事実だ。

 そして、その直後の融川の死。病死はさすがに不自然だ。志津様の話では、城中の派閥争いは今も続いているという。対立する側の重臣から疑問が呈されれば、調べには、目付どころか、大目付が出てくる。
 また、乱心としても同様だ。その原因を巡って狩野家が声高に備中守を批判し、そこに対立勢力が乗っかってくれば、これまた、大目付が出てくることになる。

 幼い頃、父親が幕府の仕組みについて説明してくれた。父は、老中の次に偉いのは、日常の業務では若年寄だが、実は大目付の方が偉いんだよ、と言っていた。

 大目付は、不正や非行をした大名や幕臣に対して強力な調査権限を持つ。そして、調査結果やその処分方針は、大目付から将軍に直接報告される。その際は余人を交えず、老中さえも同席を許されない。
 大目付は、大名や旗本たちの生殺与奪について、絶対権力者である将軍と密室で話が出来る立場なのだ。

 確かに、自分のいないところで何を言われるのか分からない。備中守にすれば、これは恐怖だろう。

 城中で口論の後、乱心の上で切腹。話の筋としては、こちらの方が病死よりも通りやすい。しかも、狩野家がその事実を静かに受け入れれば、目付の簡単な調べを受け、報告書が若年寄に上げられて終わる。
 公方様には恐らく、結果だけが簡潔に、つまり、融川の急死と浜町狩野家の家督相続の行方だけが報告されて終わる。

 浅野内匠頭と吉良上野介の松の廊下の一件や、田沼意知の刺殺事件などと違い、今回は城中で刃傷に及んだわけではない。誰も騒がず静かに事が処理されれば、公方様だって、御用絵師の一人や二人、どうなろうと気にもしないに違いない。

 備中守は、公方様の側近として出世街道を驀進している。その備中守にとって、自分が城中でもめ事を起こしたこと、さらに公方様への不敬とも取れる言動をしたこと、この二点を公方様に知られないことが何よりも重要なのだ。

 逆に言えば、公方様にさえ知られなければ、誰に何を知られても、誰に何を言われても、痛くも痒くもないということだ。

 なるほど、そういうことか。分かってみれば簡単だ。

 話の着地点がようやく見えてきた。備中守は、浜町狩野家の家督相続にも協力してくれるらしい。ならば、徹底的に協力してもらおうじゃないか。そして、それだけではなく・・・。
 ともかく、首根っこを押さえるためにも、ちょっと脅してやれ。融川先生の無念を思えば、それくらい許されるはずだ。よし!

 栄は目に力を込め、正面を向くと、はっきりと言った。
「融川先生の切腹は、乱心ではございません、断じて!」

 上段から見下ろす備中守の顔には、この分からず屋が、と書いてある。しかし、構うものか。
「先生の切腹は、公方様への忠義の証と存じます」
「何だ、それは?」
「君辱められれば臣死す、と申します」
「それがどうした?」

「先生は、公方様のご裁可された伺下絵の通りに屏風を仕上げました。その屏風を否定されることは、先生の仕事が否定されただけでなく、公方様のご命令まで否定されたことになります。先生は、臣下として、主君に対する辱めを許した自らを恥じ、公方様にお詫びすると共に、備中守様の不忠を弾劾すべく、お腹を召したものと存じます」

 正直、栄も、融川がそこまで当代の将軍に忠誠心を持っていたかは自信がない。いや、ないだろう。栄自身にしても、将軍の顔など見たこともない。むしろ、今の将軍家斉については、あまりいい噂を聞かない。しかし、ここでは敢えて無視だ。

「そ、そなた、予を、不忠の臣と呼ぶか。無礼が過ぎるぞ。だいたい、そなたは、融川法眼の死に際に立ち会ったのか。法眼の最後の言葉を、その耳で聞いたのか」
「いえ」
「ならば、ならば全ては、そなたの勝手な当て推量ではないか」

「確かに、その通りでございます。されど、浜町のお屋敷には、公方様のご裁可を得た伺下絵が残っています。そして、お城には融川先生の描いた屏風がございます。この二つを突き合わせれば、先生が、公方様のご注文通りのものを描き上げたことは、誰が見ても明らかでしょう。融川先生と備中守様と、どちらが公方様のご意思をないがしろにしているか、それも明らかとなりましょう。このこと如何に!」

 最後、思わず声が大きくなった。そして、それまで行儀よく膝の上に置いていた右手で、バシッと畳を打った。その瞬間、備中守が苦しそうに顔をしかめるのが見えた。

次章に続く

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