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【第29章・朝】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二十九章  朝

 いつもと違う天井だ。でも、杉板の木目に見覚えがある。そうか。泊めていただいたんだわ。

 昨夜、栄が阿部家上屋敷から戻ったとき、すでに日付が変わっていた。彼女が身を寄せる姉の婚家まで、歩けばさらに四半時(三十分)はかかる。そこで、浜町狩野屋敷の女中部屋に泊めてもらったのだ。

 栄も、十一から十六までの内弟子修行中、この部屋で他の女性内弟子や女中たちと寝泊まりしていた。勝手知った場所である。疲れもあって、ぐっすり眠れた。

 いや、寝すぎた。完全に日が高いではないか。

 枕元を見ると、新しい小袖をはじめ、身なりを整える一式が用意されていた。こまがしてくれたに違いない。しかし、ここまでしてくれるなら、起こしてくれればいいのに・・・。

 障子戸を開け、廊下の様子を窺う。ちょうど、その当人がやって来た。
「あら、お栄様。お早ようございます」
「ええ、おはよう。着替え、ありがとう」
「どういたしまして。朝ごはん、今、お持ちしますね」
「そんな手間はかけさせられないわ。わたくしがお台所に行きますよ」

「それはお止めになった方が。台所もバタバタしていますから」
「何かあったの?」
「ええ。ご家老様から、御一門の方々がお集まりになるので、お昼に、簡単なお食事を用意しておくようにと言われまして。でも、事情が事情でしょ。いつもの様に仕出し屋に丸投げってわけにもいかず、使う器も・・・」
「わ、分かったわ。任せる」
「はい。少々お待ちを。すぐお持ちしますね」

 こまは、塗りの丸盆を手に程なく戻ってきた。盆の上には、蛸唐草文の伊万里の小皿に小ぶりの塩むすびが二つと胡瓜の浅漬けが数切れ。湯呑代わりの氷裂文の伊万里ののぞき猪口にはほうじ茶が。
「すみません。お味噌汁がもうなくて」
「これで十分。ところで、こまちゃん。奥様のご様子は?」
「そうですね。昨日よりは落ち着かれましたが、その分、お悲しみは増しているようで・・・」
「それは心配ね」

 そこでこまが、少し声を落として訊いてきた。
「それで、お栄様。殿様がお亡くなりになって、お家は大丈夫なのでしょうか」
「心配?」
「それはもう。うちの店は、浜町狩野家を通してお城の御用を承っていますから。お家にもしものことがあれば、一大事ですよ」

「そうね。あなたのお店が困っては、わたくしも困るわ。もう春用の扇を描き始めていますもの」
「そうでしょ」
「大丈夫よ。そのために皆で動いていますから」

 今はそれ以外言い様がない。なお探るような目をしているこま。栄は別方向に話を振った。
「そうだった。長谷川様と話をしないと。ご家老様、今、どちらに?」
「工房にいらっしゃると思いますよ」
「そう」
「じゃあ、私、行きますね。あっ、召しあがったら、お盆はここに置いておいて下さい」
「ありがとう」
「お栄様。今後とも、よろしくお願いしますね」と意味深な目をして言うと、こまは出て行った。

 独りになった栄は、塩むすびを口に入れる。早くから用意していたのだろう。すでに冷たい。しかし、塩加減が絶妙で、びっくりするくらい美味しかった。お茶の方は熱く、これがまた身に染みる。

 栄は、食べながらこれからのことを考える。今日は、御用絵師筆頭・木挽町狩野家の伊川栄信と会うことになる。

 まずは、融川の死の隠蔽と舜川昭信による家督相続に関する協力を取り付けることだ。これには、阿部備中守の書付がものを言うだろう。

 問題はその先だ。

 備中守の話が本当なら、伊川栄信こそが、融川が用いた金泥と金砂子の新技法について、公方様の御用に使うのは不適切であると吹き込んだ張本人ということになる。

 伊川は、なぜそんなことを言ったのか。彼こそ、あの技法の第一人者ではないか。

 まさか、融川を陥れるため、城中でのもめ事を誘発するために備中守にあらぬことを吹き込んだのか。まさか。いや、仮にそうだったとしても、何の証拠もない。単なる偶然、一般論を言っただけ、と逃げられれば、それ以上の追及は出来ない。

 何より、伊川栄信の御用絵師筆頭という地位が問題だ。

 備中守は、いわば、雲の上の人である。将軍の側近で近々老中になるという。この後、直接顔を合わせる機会はまずあるまい。
 しかし、伊川は違う。栄が狩野派の絵師である以上、常に意識せざるを得ない存在だ。何より、舜川昭信、友川助信、二人の若様の将来を思えば、伊川と決定的に敵対することは、絶対に避けなければならない。

 話の持って行き方が難しいな。それにしても、昨日のお昼までは、ただ、いい画を描くことだけを考えていればよかったのに・・・。

 栄が部屋を出て、廊下の角を曲がると、家老の長谷川と鉢合わせとなった。
「あっ、長谷川様。お早うございます」
「おお、お栄か。ちょうどよかった。呼びに行くところだったのだ」
「わたくしも長谷川様にお話があり、工房に向かうところでした」
「そうか。では、一緒に座敷に行こう。素川様もお着きになっている」

 栄と長谷川が昨日報告会に使った座敷に入ると、素川章信と他の家臣、画塾の代表者たちがすでに着座していた。栄の顔を見ると、素川が声をかけてきた。
「おう、お栄、よく眠れたか」

「お陰様で。素川様は、昨夜は浅草までお戻りになったのですか」
「馬鹿か。そんな面倒なこと出来るか。柳橋の馴染みの店で泊まったよ。討ち入りのために集まってくれた連中もいたしな」
「あんな夜中に、ですか。まさか、叩き起こしたのでは?」
「そんなわけねぇだろ。あそこら辺じゃ、夜通しやってる店だって普通にあるんだ」

「素川様、よろしいですか」
「ああ。始めてくれ」
 そこで長谷川が、昨夜の事情を知らない者たちに、舜川昭信が家督を継げる年齢になるまで融川の死を隠すことになったことを説明した。

 皆一様に驚いたが、江戸時代、社会の基本単位は個人ではなく家である。お家存続のためのやむを得ぬ方策と言われれば、反対する者はいない。あとはその実現性である。

「しかし、ご家老、可能なことでしょうか。亡くなった殿を病気療養中と偽装するなど・・・」
「無論、不安はある。しかし、阿部備中守様のご要請を受け、木挽町家の伊川法眼様が協力して下されば、何とかなるのではないかと思う。今、この江戸画壇で、伊川様に逆らう者はおるまい」
「確かにそうですな」と言って、皆が顔を見合わせて頷く。

 栄は、その様を見て一層不安になった。一人で抱え込むべきではなかったか。昨夜、隠さず話しておくべきったか、と。

「それで、長谷川よ、これからどうする?」と素川。
「はい。まずは、殿のご遺体を・・・」
「そうだな。しかし、考えてみると、それが結構難問だな」
「そうなのです。菩提寺が受け入れてくれるかどうか」

 栄は、二人の声にハッとした。
「長谷川様。その件ですが、菩提寺のご住職がすんなり受け入れてくれればよし、もし受け入れてくれない場合は、これを」

 長谷川は、栄から渡された一通の書状をじっと見る。
「これは?」
「こちらも備中守様からいただいてきました。かの殿は寺社奉行でもありますから」
 長谷川が文面を確認すると、寺社奉行の署名の入った火葬及び埋葬の許可書であった。寺側に対して、文句があるなら奉行所まで来い、という内容になっている。

「これは助かる。お栄、よく気が付いた」
「恐れ入ります」
 実は、この一札、栄が頼みもしないのに備中守が進んで書いてくれたのだ。その他にも、細々教えてくれた。自分が係った以上、手抜かりがあってはならないとでも思ったのだろう。手ごわい敵ほど、協力者となってくれれば頼もしい。

「後の手配はこちらでやろう。昼前に一門の主だった方々にお集まりいただく。皆様がお帰りになった後、今夕、いや、明日の早朝に運び出そう」
「おいたわしい」と家臣たち。
「仕方あるまい。あと、殿は労咳で療養中とするのだ。どこか郊外にお住まいを準備せねばと思うが・・・」

「いろいろと大変だな」と、素川が面倒くさそうに天を仰ぐ。

「はい。しかし、やると決めた以上、やり遂げねばなりません」
 長谷川春長は、先代・閑川昆信の弟子から家老に取り立てられた男だ。小心で融通の利かないところはあるが、実務能力は高い。その点は信用に足る。

「あとは木挽町との話し合いか」と素川。
「はい。そちらはお願いします。お栄をお連れ下さい。朝一番で使いを出したところ、伊川法眼様は、八つ半(ほぼ午後三時)以降であればお会い下さる、とのことです」
「分かった。じゃあ、八つ(ほぼ午後二時)に出ようか。駕籠、呼んどいてくれ」
「承知しました」
「お栄も、いいな」
「かしこまりました」

「それで、この後に集まる一門ってのは、誰と誰なんだ?」
「無論、寿石圭信様もお呼びしております」
「うげっ」
 天下御免、傍若無人な素川にも苦手はある。日頃、頭の隅にも置いていない一人息子の顔を思い出し、素川は、苦虫を噛み潰したような表情になった。

次章に続く

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