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【第34章・木挽橋暮色】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第三十四章  木挽橋暮色

 素川章信と晴川養信が呼び戻された。部屋に入ってきた二人は、床の間の惨状を見て驚いた。しかし、栄と伊川は何事もなかった様子で座っている。ただ、殺伐とした雰囲気は尋常でない。素川と晴川が座に着くと、伊川はすぐに浜町家と木挽町家の取り決めについて説明を始めた。

「し、しかし、父上。これでは・・・」
「黙れ。口を挟むな。お前は、言われたことだけしておればよい」

 晴川の目には疑念と警戒の色が濃い。取り決めの内容は、浜町家に一方的に有利で、木挽町家は一方的に協力させられるものとなっている。
 晴川は、自分の父親が政治的な駆け引きにおいて、海千山千の幕府官僚や商人たちにも後れを取らない強者であることを知っている。しかし、結果を見れば、その父が、目の前の、さして自分と変わらぬ年頃の娘に一方的に押し切られた形ではないか。

 何なんだ、この女は?

 何より、先程まで床の間を飾っていた「日月瀑布図」の無残な姿。この双幅、小品とは言え、伊川の近年における傑作のひとつと言える。表具も秘蔵の時代布を用いて仕立てたはずだ。

 それが・・・。この女がやったに違いない。なぜこんな無礼が許される? 父個人か、当家に対してか、何か余程の・・・。

 栄は思った。まずいな、と。晴川養信に完全に警戒されている。そんな目で見ないで欲しい。この生真面目居士には、幼い舜川昭信・友川助信兄弟の後ろ盾になってもらわなければならないのだ。

 以後、自分はこの人とはなるべく接触しない方がよさそうだ。

 栄と素川が木挽町狩野家の屋敷を出たとき、すでに七つ半(ほぼ午後五時)となっていた。西を向くと、通りから木挽橋、さらに先の山下御門まで見通せる。空は、落ちかけの夕陽に赤く染まっていた。
「いい色だなぁ。これは絵具じゃ出せねぇ」
「素川様。そんなことより、お駕籠、お屋敷で呼んでもらった方がよかったのではありませんか」
「いいんだよ。少し歩けば築地の本願寺だ。駕籠なんざ、いくらでもいるさ」
「そうですか」

 二人は、赤く染まる西の空を背にして歩を進める。店じまいを始めている商家もあるが、通りに人はまだ多い。前から来る男が何人か、栄の顔をぽかんと見つつ、名残惜しそうに通り過ぎて行く。
 素川はその様子を面白そうに眺めていた。
「なるほど。お前、そうして黙って歩いていると、大層いい女だな」
「条件付きですか」
「ははは、これは失敬。それにしても、伊川殿と何があったんだ。いくら何でもありゃ・・・」

「え、ええと。そ、そう言えば、わたくし、旗本格御用絵師筆頭・木挽町狩野家の奥様になり損ねました。残念なことをいたしました」
「何だと、何の話だ。まったくお前って奴は。まあ、よかろう。深くは聞くまい。おっと、いたいた。駕籠屋ぁ。おい、どこ向いてんだ。こっちだよ!」

 駕籠屋が気付いて寄って来る。そこで素川が、トレードマークの頭巾の角度を直しながら晴々とした声で言った。
「さあ、帰ろうか、浜町へ。みんな待ってる」

「はい」

 同じ頃、浜町狩野屋敷の前を、月番の南町奉行所与力・筧重四郎が、下っ引の三次を連れて通りかかった。前日と同じ、見回りの途中である。

「う~、風が冷てぇ。寒風凛冽だな」
「えっ? 旦那、乾布摩擦が何ですって?」
「なにを?」
「それより旦那、もう日が暮れますよ。番所に戻りましょう。あっ、かのう、だ。ここですよ。昨日の血まみれの駕籠はどうなったんですかね」
「ああ、あれな。見たところ、葬式の準備もしてねぇし、助かったのかもな。いずれにしろ、管轄外だ。上からも忘れろってさ」

「でも旦那、こういうところで画を習うのって、相当かかりますかね?」
「なんだ? お前、絵師に転職したいのか」
「違いますよ。ほら、春には姉ちゃんが年季明けで帰って来るじゃないですか」
「ああ、もう三年か」
「へい。旦那と親分のお陰をもって、約定通りの年限で帰ってこれそうで」

「それはいいが、お前、二度と姉ちゃんに迷惑かけるなよ」
「へい、それはもう。で、姉ちゃんが働く店では、女たちにいろいろと習い事をさせるそうなんです。近くの寺に先生を呼んで。で、画の描き方を習ったとき、先生として来た絵師に、うちの姉ちゃん、筋がいいって褒められたそうなんですよ。だから、帰ってきたら、しっかりした絵師の下で習ってみたらどうかな、なんて。もちろん、本人次第ですけどね」

「ほう、いい心掛けだ。しっかり姉ちゃん孝行しろよ。しかしなぁ、お前の姉ちゃん別嬪だから、絵師の野郎も鼻の下伸ばして世辞を言っただけじゃねぇのか」
「いえ、それが、その先生、女だったそうです。しかも、若くて背の高い、大夫たちも真っ青の美人だったって話ですぜ」
「へえ、女絵師か。珍しいな。案外、ここの、狩野法眼の弟子だったりしてな」
「まさか」
「だよな。とにかく寒いや。番所に戻る前に、そこらの屋台で掛けでも食おうぜ」

 冬は暮れ始めると早い。栄と素川を乗せた町駕籠が浜町に着いたとき、外は完全に暗くなっていた。

次章(最終章)に続く

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