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【第33章・金色の悪意(後段)】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第三十三章  金色の悪意(後段)

 十九歳の女絵師と三十七歳の幕府奥絵師、役者が違うと言えばそれまでだ。

 非は明らかに相手にある。なのに、混乱し、追い詰められているのはむしろ自分の方ではないか。ふと、姉弟子・志津が別れ際にぽんと叩いた帯の上の辺りに手をやった。栄も武士の娘として、懐剣を所持している。

 許せない。

 同時に、伊川栄信の背後で無残な姿をさらす双幅の掛け軸が目に入った。これ以上の狼藉に及べばどうなる?
 栄個人の鬱憤は晴れるかもしれない。しかし、浜町狩野家に迷惑が掛かるだろう。奥様、二人の若様、画塾のみんな、いくつもの顔が頭に浮かぶ。ならぬ堪忍するが堪忍、か。

 栄は目を閉じて考える。どうする? 要求って?

 内容としては変わらない。まずは融川の描いた屏風の扱い。そして、浜町狩野家存続の保証と嫡子・舜川昭信の家督相続までの協力だ。

 しかし、難しい。目の前に座るこの人は、人として全く信用できない。口約束など意味がない。一筆書かせたとしても、とても安心できない。何かひと工夫ないものか。

「さっさと言え。わしは忙しい」

 栄はそこで目を開け、ぐっと睨みつけた。伊川が先に視線を外した。栄は男の顔を睨んだまま、頭の中を整理し直す。
 
「では、話を戻しますが、備中守様の書付にあることについて、ご承知いただけるのでしょうか。すなわち、融川先生の描いた屏風を公方様から朝鮮王に贈る品として残す件。そして、融川先生の死を隠し、浜町狩野家の存続のために協力していただく件。この二件ついて・・・」

「ああ、承知した」
「では、舜川昭信様によるご相続についても?」
「異論なしだ。上様の側近である備中守様からのお指図だ。逆らう気はない」

 この素直さが胡散臭い。ここからが肝心なところである。
「では、舜川様、ご次男の友川助信様の絵画修行のため、そちらのご嫡子・晴川養信様に、そうですね、月に一度で結構です。浜町のお屋敷まで、足を運んでいただけないでしょうか」

「何だと?」
「お二人のご修行については、無論、一門を挙げてお助けします。しかし、木挽町家にもご協力いただきたいのです」
「画を習いたいなら、お二人がここに来ればよい。わしが見てやろう」
「御免こうむります。毒でも盛られてはかないません」

「ふん、言うことよ。なるほど、考えたな。一本気な養信なら御しやすいということか。まあ、よかろう。あれにとってもいい勉強になるだろう。これでよいな」

「いえ。あと一つございます」
 この際だ、取れるものは取っておかねばなるまい。
「何だ?」
 伊川の顔に警戒の色が浮かぶ。

「先年、公儀の御用で、浜町家と木挽町家が共同で請け負った仕事があったと思います。あの件はどうなっているでしょうか。融川先生が描いた分は、既に伊川様にお渡ししているはずですが」

「ああ。駿河の大拝殿天井画のことか」
「はい」

 静岡浅間神社は、平安時代以来の駿河国総社である。徳川家との縁も深い。文化元年(一八〇四年)、将軍家斉の命令で、焼失していた社殿群の再建が始まった。そして、大拝殿の天井画の制作を融川と伊川が共同で担当している。

「そうだな。融川殿を存命と扱うなら、大拝殿の造営工事が終われば、予定通り、そのまま納めることになるだろう」
「浜町家は、何かと取り込み中でございます。ご配慮いただきたいのです」
「なるほど、よかろう。残る作業は全て当家でやろう。それも養信にやらせればよい」

「では、経費の分担はどうなりましょうか」
「何だと?!」

 融川と伊川は、それぞれ、天女図と龍図二枚ずつを描いた。一枚が、一辺七尺七寸(約二メートル三十一センチメートル)の正方形の紙に描かれた大作だ。
 最低限、駿河までの運搬と設置時の指導監督要員の派遣は必要となろう。画材代を含め、必要経費はすでに支給されているが、この手の仕事は、足が出ることも多い。その場合、浜町・木挽町両家で折半ということになる。

 これには伊川も、一瞬、嫌な顔をした。しかし、すぐに立て直し、吐き捨てるように言った。
「よかろう。今後かかる費用は、全てこちらで持とう。ああ、そこまでするなら、香典代わりだ。画を描いた報奨金も全て浜町家に渡す。それでどうだ?」

「恐れ入ります」

「しかし、そなた、この調子で備中守様ともやり合ったのか。全くいい度胸だ。どうだ、これを機に、木挽町に移らぬか」
「しかし、こちら様の画塾では、女子の弟子は取らぬはずではございませんか」
「そうだったな。それなら、いっそ、養信の嫁ではどうだ?」
「戯言をおっしゃいますな!」
「至って真面目だが。どこぞの旗本の養女にでもしてから・・・」
「丁重にお断りいたします。そうですね。では、せっかくなので、最後にもう一言」
「何だ?」

 栄は姿勢を正すと、伊川を再び睨みつけ、彼の背後で残骸と化した双幅を指さす。
「どうかご承知おき下さい。もし再び理不尽な行いをなされば、次は掛け軸だけでは済ませません。わたくしも、絵師である前に、武士の娘でございますれば」

「覚えておこう」
 忌々しげにそう返すと、伊川栄信は、逃げるように座を立った。

次章に続く

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