【第31章・伊川と晴川】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)
第三十一章 伊川と晴川
昼八つ(ほぼ午後二時)ちょうどに浜町狩野屋敷から二丁の町駕籠が出た。栄と素川章信が乗っている。向かうは木挽町。
その少し前、一門会議の出席者が揃って融川の遺体に最後の別れをした。狩野春徳など、涙が止まらず、大変な愁嘆場となった。春徳は先代の高弟であり、融川が生まれたときから知っている。また、町絵師連中も、融川が若くして家督を継ぎ、奥絵師にまでなる過程を傍で見てきた世代である。
彼等の悲しみはよく分かる。しかし、栄の思考はすでに前を向いていた。師の恩に報いるため、自分がこれからも絵画の道を歩み続けるため、浜町狩野家を守り抜かなければならない。
これから対峙する者の出方によっては、大変なことになる。感傷に浸っている暇はない。
浜町から木挽町まで、徒歩で半時(一時間)の距離である。木挽町狩野家の屋敷は、現代で言うと、地下鉄東銀座駅の上、或いは歌舞伎座のすぐ横あたりにあった。
奥絵師・木挽町狩野家は、江戸狩野の基盤を固めた探幽三兄弟の真ん中・尚信を祖とする。当初、もう少し城に近い竹川町に屋敷があったため、竹川町狩野家と呼ばれた。
狩野尚信は、兄・探幽に匹敵する名手である。水墨画においては、兄の上を行くとまで言われる。そして、自適斎と号した通り、自由気儘な性格で、気が向くと、ふらっと旅に出てしまうような男であった。権力志向の探幽や、堅苦しい教育者の面を持つ弟・安信などとは大きく異なる。
ある意味、役割分担であった。芸術家肌の尚信は、小堀遠州など、時代を代表する文化人と広く交際し、狩野派の格を高めた。
二代目の常信は、父・尚信に劣らない名手であったが、晩年、筆勢は衰え、家そのものの低迷を招いてしまう。
復活は、伊川栄信の祖父・栄川院典信の登場による。典信は、世に飽きられつつあった狩野派の画風を刷新することに努めた。その成果として、時の将軍に気に入られ、この家で初めて奥絵師となった。
この家が木挽町狩野家と呼ばれるようになったのも、典信が、木挽町に新しい屋敷地を与えられたことによる。以後、当主は全て奥絵師となり、御用絵師筆頭の地位を独占してきた。
伊川栄信は、その木挽町狩野家の第八代当主である。
官位は法眼。祖父、父に続いて奥絵師、そして御用絵師筆頭を務めている。この地位は、必然的に将軍家の若君や姫君の絵画師範となる。次代の最高権力者から「師」と敬われるのだ。
その社会的ステータスの高さは計り知れない。東京芸術大学の学長、東京国立博物館の館長、さらに文化庁長官を兼ねるくらいでは、とても追いつかないであろう。
栄がこれから対峙するのは、そういう男である。
南八丁堀を過ぎ、合引橋を渡ったところで、素川が駕籠かきに声をかけた。
「おい、止めてくれ。ここで降りるよ」
「旦那、まだ着いてませんぜ」
木挽町狩野屋敷までは、まだ二町(約二百二十メートル)はある。
「いや、いいんだ。腰が痛くてかなわん。少し辺りを歩いて、体を慣らしてから行くよ。お栄、いいかい?」
「はい。わたくしは構いませんが」
「兄ちゃん。ここらだと時の鐘はどこのが聞こえるかね?」
「そうですね。日本橋かな。風向きによっちゃあ、増上寺のも聞こえるかもしれませんね」
「分かった。ありがとよ」
素川は、首、肩、腰を同時に回す、妙な動きをしながら歩き出した。
「お栄、八つ半(ほぼ午後三時)の鐘、聞き逃すなよ」
「はい」
少しすると鐘が鳴った。これ以降、伊川栄信は在宅で対応可能だと言われた時間だ。二人は、木挽町狩野屋敷に足を向けた。
屋敷に着くと、木挽町家の家老が待ち構えていたように出迎えてくれた。
「おや、素川様ではございませんか。浜町家からの来客があると申し付かっておりましたが、素川様がいらっしゃるとは。ともかく、殿様がお持ちでございます。こちらへ」
素川が玄関を上がり、栄も続こうとしたが、家老が制止した。
「そなたは、融川法眼様のお弟子だったかな。お供はあちらの控えの間で待っていてもらおう」
それに対して素川が言う。
「いや、いいんだ。これは、浜町家の奥様の名代だ。ともに伊川殿に会うことになっている」
「左様ですか」と答えた家老の目には、明らかに不満の色が浮かんでいる。
栄は思った。ここではやはり、奥様の名代という肩書は通用しないな、と。
同じ奥絵師の家であるだけに、家中の序列には厳しい。栄は、浜町狩野家の正規の家臣ではなく、画塾に属する弟子の一人に過ぎない。本来、直接の師である融川は別として、他の奥絵師家の当主と直接話が出来る立場ではないのだ。
家老の案内で瀟洒な書院風の部屋に通された。室内では、畳の上に何枚かの大きな下絵を広げ、二人の男が話をしている。この家の当主・伊川栄信と跡継ぎの晴川養信である。
来客に気付くと、伊川は話をやめて上座に移動。晴川は下絵の紙を手際よく片付けた後、父親の横に座った。
伊川栄信、この時三十七歳。融川と三つしか違わないが、十ほども上に見える。さすがの貫禄である。ただ、表情は穏やかで、素川が言うように、さばけた、話しやすそうな雰囲気を醸し出している。
一方、晴川養信は、その動作や姿勢を見る限り、うわさ通り、いかにも堅い。真面目そうだ。しかし、まだ十六歳でしかない。城に出仕して一年、見習い扱いのため、頭は総髪のままである。
伊川が風に悠々と葉を揺らす柳の大木とすれば、晴川はまっすぐに伸びるヒノキの若木というところだろうか。
素川は、伊川に軽く会釈すると、部屋の中央に進み、一枚だけ敷いてある座布団を少し左にずらして座った。
栄は、素川の後方、畳の上に膝を付こうとしたが、素川が自分の横を指さした。ここに座れ、ということだろう。
「養信殿、済まないが、ここに、もう一枚座布団を出していただけませんかな」
「はて? その者は、浜町家の弟子であったと思いますが」と、晴川養信が冷たく返す。
「確かに。しかし、今日はあちらの奥様の名代として来ている。それに、話としては俺の方が添え物で、主役はこ奴なんですよ」
「しかし、物事にはけじめがありましょう」
「話が進まん。養信、素川殿の言う通りにせよ」
「しかし」
「二度言わせるな」
「承知しました」
晴川養信はすっと立ち上がると、部屋の隅から座布団を一枚取ってきて素川の横に置いた。不満顔をしつつ、寸分の狂いもなく、畳の目に合わせて平行直角に置いてある。
「恐れ入ります」
座に着いた栄は、並んで座る伊川と晴川の二人を見て、似てないな、と思った。晴川養信の大きな目と端正な顔立ちは、むしろ師の融川に近い。木挽町家と浜町家は元々同根で、数代さかのぼれば同じ人物(狩野常信)にたどり着くのだから不思議ではない。
すると、同じく栄を品定めするように見ていた伊川栄信と目が合った。しかし、伊川はすぐに素川の方に視線を移して言った。
「それで、ご用件は?」
「ああ、大変なことが起きた。昨日、浜町の融川が死んだんだよ」
「なんと!」
「お栄、ここまでの流れをお二人に説明して差し上げろ」
「かしこまりました」
栄は、昨日、融川が下城途中に駕籠の中で切腹して果てたこと。浜町狩野家として、嫡子・舜川昭信の家督相続まで融川の死を隠し、病気療養中とすることにつき、整然と述べた。
最後に、「ついては、木挽町家にも協力をお願いしたい。それで参ったわけだ」と、素川が締めた。
それに対して、即座に晴川養信が噛み付いた。
「素川殿、それはなるまい。死を隠すだと? それではご公儀、すなわち公方様を詐略にかけることになる。そんな悪事に当家が加担できると思いますか」
「しかし、養信殿。今回の件、表沙汰にしないというのは、浜町家だけではなく、ご公儀の考えでもあるのですよ」
「ご公儀の?」
「そうなんだよ。融川が腹を切ったのは、昨日の城中での屏風見分が原因だ。伊川殿はその場にいたのだから、ご承知であろう。ここに、融川が口論に及んだ相手、阿部備中守から、伊川殿に宛てた書状がある。伊川殿、ご確認いただきたい。お栄、あれを」
「はい」
栄は、例の書付を文箱ごと晴川養信に渡した。晴川が文箱から書付を取り出して伊川に渡す。伊川は黙って封を切り、読み始めた。
栄が伊川の目の動きを見ていると、伊川は二度読んで一度目を閉じ、そして三度目読み返してから視線を上げた。
「なるほど。確かに、これは阿部備中守様のお指図だ」
「ご納得、いただけましたかな」と素川。
「ところで、これは、素川殿が備中守様からいただいてきたものなのか」
「いや。だからこ奴ですよ。このお栄が、昨夜、阿部家上屋敷に乗り込んで、備中守本人と話をつけてきたのですよ」
「何だと。そんなことが」と、伊川が驚きに目を瞠る。
「恐らく、昨日のことは備中守もまずいと思ったんでしょうな」
「うむ、それはそうかもしれんが。お栄、と申したな。そなたが栄女寛好か。以前、融川殿が、腕のいい女弟子がいると、自慢していた。そなたのことか」
「融川先生が、そのような。恐れ多いことです」
「確か、見せてもらった画には、藤原氏栄女寛好と署名していたと思うが、藤原氏ということは、同族の出なのか」
「いえ、わたくしの姓は小杉で、たまたま本姓が、狩野家と同じ藤原氏であるにすぎません」
「そうか。では、ご実家は・・・」
「伊川殿、いい加減にしてもらおう。お栄の出自の詮索など、話が長くなるだけだ」
「しかし素川殿。備中守様は、誰でも気軽に会えるお方ではないぞ」
「分からねぇ奴だな。だから昨夜も、奥様の名代ということで出向いたんだよ」
それでも、納得しかねる、と伊川の顔には書いてある。
「素川殿。阿部備中守様は公儀の重役、上様の側近だ。その方について、この娘に問い質したいことがある。少し座をはずしてくれまいか。養信、お前もだ」
「父上。私はすでに城で働いております。役儀に関わることは何事も・・・」
「生意気を言うな。まだ見習いではないか。いいから、素川殿を客間に案内し、茶でも出して差し上げろ。行け!」
伊川の口調と表情に突如現れた厳しさに、素川も不穏なものを感じたのだろう。心配そうな顔を向けてきた。
「お栄、一人で大丈夫か」
次章に続く
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