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【物語の現場038】天橋立、吉之助は雪舟の名画を見ていたか(写真)

「狩野岑信」の第四十五章で、吉之助が覚隆の居室に掛かる富士図の不自然さについて竜之進に説明する際、例えとして出したのが雪舟の「天橋立図」

 写真は天橋立。ちょっとややこしいですが、「天橋立図」とは逆、雪舟が天橋立の奥にかなり強調して描いた成相寺のある山の側(傘松公園)から見た景色です(京都府宮津市、2023.5.11撮影)。

 そして、左上の小窓が、雪舟が画の視点を無視してでも端っこに描き加えた小島(沓島・冠島)。
 現地の説明板は、この島は古来より神宿る島とされ、信仰の対象であった。雪舟はそのことを尊重し、特に描き加えたのだろうとしています。

 ところで、吉之助は、雪舟の「天橋立図」を見たことがあったでしょうか。

 国宝指定のこの名画、実は制作過程における下絵だと考えられています。現在は京都国立博物館の所蔵ですが、元は土佐藩主・山内家のものでした。

 完成品の存否については不明のまま。しかし、もし完成品があったとしても、吉之助は十中八九それを見ていないでしょう。ただ、模写を見ていた可能性はあると思うのです。

 彼の大叔父である狩野探幽は和漢の名画の研究に熱心で、模写魔と言っていいほど。特に明暦の大火で鍛冶橋の屋敷と一緒にそれまで描きためた絵手本類を焼失してからは、挽回のため、暇さえあれば名画の模写をしていたそうです。
 探幽に次いで狩野派の総帥となった安信(吉之助の母方の祖父)も、兄とは違った意味で絵手本の重要性を認識し、その整備に努めました。

 狩野派の有利なところは、幕府御用絵師の権威を背景に、大名、公家、寺院、誰に対しても所蔵する絵画の模写を要求できたこと。「上様にご覧いただくため」とさえ言えば、断れる者はいない時代でした。

 雪舟は当時から大人気。どこかに未見の真筆があると聞けば、探幽、安信、或いは父親の常信などによって必ず模写されていたはずです。

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