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【第23章・将軍の影】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二十三章  将軍の影

「くっ、それは・・・」
 備中守は、自分が完全に追い詰められていることを悟った。目の前の小娘にではない。この場にはいない彼の主君、将軍家斉によってである。

 江戸幕府第十一代将軍・徳川家斉は、当年二十五歳。極めて特異な性格をしていた。

 自尊心が異常に強い。他者に自分の考えを否定されること、行動を制限されることを殊のほか嫌う。
 ただ、家斉という男は、馬鹿はでない。忍耐を知っていた。彼は、自分の思い通りにならないと判断する場面では、沈黙することが出来た。心中で、自分の邪魔をする者、自分を軽んじる者たちに激しい憎悪を燃やしながら。

 家斉のこうした性格は、生来の部分もあったであろうが、環境がそれに拍車を掛けたことは容易に想像できる。

 先代の十代家治が死去し、家斉が将軍職を継いだのは、天明七年(一七八七年)、十五歳のときである。
 家斉は、徳川御三卿のひとつ、一橋家の生まれで、跡継ぎのいない家治の養子となっていた。一橋家は、江戸幕府中興の祖である八代将軍・徳川吉宗の四男・宗尹より始まる。家斉は宗尹の孫であり、吉宗の曾孫にあたる。

 家斉が将軍に就任した直後、幕府内で大きな政変が起きた。それまで絶大な権勢を誇っていた老中・田沼意次が失脚し、御三家が揃って支持する陸奥白河藩主・松平定信が老中首座に就いたのだ。

 松平定信は、吉宗の次男を初代とする御三卿田安家の出で、吉宗の孫にあたる。血筋で言えば、家斉よりも吉宗に近い。しかも、幼少の頃からその利発さは世に知られ、一時は、定信をして将軍継嗣にという声もあった程だ。白河藩主となった後も藩政改革に努め、当時から名君の誉れ高かった。

 それとは逆に、家斉は、凡庸であるが故に将軍継嗣となれた。

 田沼老中が、家治に次ぐ傀儡候補として選んだに過ぎない。従って、田沼を追い落として新たに権力を握った松平定信とその一派も家斉を同様に見た。そして、実際にそのように扱った。

 しかし、全く異なる認識を持つ者が一人だけいた。家斉本人である。

 家斉にしてみれば、将軍になったのは自分である。定信が吉宗の孫だろうが、どんなに優秀だろうが関係ない。所詮、将軍になれなかった男だ。所詮、家臣に過ぎない。家臣という括りで言えば、門番の足軽や雑用係の茶坊主と変わらない。それに引き換え自分はどうだ。天に愛され、天に選ばれた者である。

 正二位内大臣、右近衛大将、征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学両院別当

 自分に与えられたこの煌びやかな肩書が示す通り、この世の全ての権力、全ての富と楽しみを己の物とする権利が自分にはある、と強く信じた。

 ところが、現実の幕府権力は松平定信によって完全に掌握されていた。しかも定信は、徳川一門の長者面をして、将軍である家斉に対してさえ、教え諭すが如く上から物を言ってくる。
 その傲慢さ、その無礼なること、決して許さん。そう胸に刻みつつ、家斉は日々を耐えた。

 松平定信は、ひと言で表現すれば、使命感の人である。

 将軍になれなかったことに腐りもせず、天下国家のために働いた。天明の大飢饉で困窮した民を救い、混乱した幕政を立て直すべく奮闘した。

 彼が主導した「寛政の改革」は、田沼時代の放漫財政や汚職体質の一掃から始まり、官民における人材育成、農村支援、地場産業の振興など、多岐に及ぶ。人々の生活に直接かかわる部分としては、倹約を奨励した。定信は自ら範を示して粗衣粗食したため、当初は世論の支持も強かった。

 定信は常に正しい。しかし、正し過ぎた。

 正論をもって一切の批判を許さず、微に入り細に入り統制しようとする彼のやり方は、時の経過とともに人々から憎悪されるようになった。

 江戸時代、制度としての選挙はないが、「民の声は天の声」という言葉がある通り、政権運営上、世論の動きは無視できない。改革が始まって七年目となる寛政五年(一七九三年)、定信は高まる批判を受け、将軍家斉に対して自ら辞表を出した。

 定信は確信していた。自分がいなければ幕府は回らない。愚鈍な家斉は自分に頼るしかない。必ずや遺留され、辞表は戻されるだろう、と。
 しかし、家斉は、定信の辞表をあっさり受理した。そればかりか家斉は、座を立つ直前、いかにも沈痛な表情をして、一言付け加えた。

「多年の奉公、誠に大義。以後、登城に及ばず。参勤も免除する。国元でゆっくり養生せよ」

 これは、定信の長年の貢献を賞し、労苦をねぎらった言葉にも聞こえるが、事実上の江戸追放であった。
 定信とその一派は、しまった、と思ったであろう。しかし、彼らが顔を上げたとき、すでに上段の間から家斉の姿は消えていた。もはや取り返しはつかない。

 家斉は、やはり馬鹿ではない。ここでも屈折した忍耐力を発揮した。定信の後任の老中首座に、定信の右腕として長年働いてきた老中・松平伊豆守信明を指名したのだ。

 この段階で、幕府の隅々まで押さえている定信派をまとめて排除しては幕政が混乱する。そうなれば、御三家などが騒ぎ出し、定信を復権させてしまうかもしれない。
 家斉は、後年、数えきれない側室に五十三人もの子を産ませる男である。一刻も早く、己の欲望を解放し、思うまま贅沢三昧の生活をしたかった。

 しかし、とにかく二度と定信の顔を見たくない。この時は、これが最優先であった。

 それから十数年。家斉は、水野出羽守や阿部備中守などの側近たちを使って、巨大な幕府権力をじわりじわりと掌握していった。そして今、ようやく将軍派が優勢を占めつつある。

 将軍派の完全勝利まであと一歩。逆に、足をすくわれやすい時期とも言える。だからこそ、どんな些細なことでも、将軍の側近が不祥事を起こすわけにはいかないのだ。

 阿部備中守は、前藩主の父親が田沼意次に近く、松平定信とその一派とは対立関係にあった。そのため、備中守は自然な流れで将軍派に属し、藩主就任前から将来の側近候補と目されていた。 
 そして、彼が藩主になると、将軍家斉は、待ってましたとばかりに、奏者番という将軍側近のポストに就けた。さらに、備中守自身、実際に仕事をすることで政治的行政的手腕があることを示し、寺社奉行も兼任となった。

 備中守には自信がある。家柄からも能力からも、自分こそが今後の家斉の治世を支える中心的役割を担う者である、と。

 しかし同時に、家斉の身近に仕えているからこそ分かる。家斉という主君は、家臣に対して個人的な親近感や愛情を持つことはない。使えるから使う。それだけだ。

 備中守が、これまで通り出世街道を歩みたいと思えば、家斉にとって使える道具であり続けなければならない。家斉と側近の関係において、家臣が主君の尻拭いをすることはあっても、その逆はあり得ない。

 備中守は考える。ここで家斉の不興を買えば、即座に側近から外されるだろう。そうなればどうなる?

 阿部家は、譜代大名の中でも名門中の名門だ。家そのものが取り潰されることはない。しかし、阿部家の当主は代々幕府の重臣を務めてきた。従って、藩内の政治は家老以下の家臣団に任されている。幕府の役職を解かれてしまえば、日々やることもない。この先、十年も二十年も無為に過ごすのか。考えただけで、ぞっとする。

 さて、目の前のこの娘に何と答えたものか。

 今や堂々と顔を上げ、真っ直ぐこちらを見ている。改めて見れば、実に整った顔立ちをしている。それが却って腹立たしい。

 備中守は、脇息の脇に置かれた美麗な銀の呼び鈴に目をやった。家斉の将軍就任に際し、長崎出島のオランダ商館から献上された品のひとつである。先年、寺社奉行としてある事件を見事に裁いた際、褒美として家斉から下賜された。

 いっそ、この娘もろとも全てを闇に。いや、しかし・・・。

 思いもしなかった形勢逆転。そして、思いもしなかった選択を迫られる備中守であった。

次章に続く

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