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【第15章・姉弟子(前段)】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第十五章  姉弟子(前段)

 栄は、出発前に台所脇で軽い夕食を摂った。
 家老の長谷川から禁足令が出ているため、台所では女中総出で俵型のおむすびを握っている。画塾の門人も含めると大所帯だ。女中たちが、いくつも並べられた塗りの重箱におむすびをどんどん詰め込んで行く。
 その中から三つほど取り分けてもらった。その際、女中の一人が気を利かせて、香の物とほうじ茶を添えてくれたことが、ひどく嬉しかった。

 栄が浜町狩野屋敷から通りに出ると、本所横堀で撞かれている五つ(ほぼ午後八時)の鐘が背後で鳴った。わずかにずれてもう一つ聞こえる鐘の音は、日本橋のものだろう。

 冬の五つとなれば、外は完全に真っ暗である。町駕籠は、色町周辺などを除けば、だいたい六つ(ほぼ午後六時)を過ぎると町中からいなくなる。特別料金を払って個別に呼ぶことは出来るが、今は自分の足で歩く。

 通りを西に進み、商家の並ぶ地域に入ったところで北に折れようとすると、同行する狩野新十郎が声をかけてきた。長谷川が付けてくれた護衛兼連絡役である。

「お栄様、方角違いではありませんか。ご家老の話では、阿部様のお屋敷は呉服橋御門の近くとのことですが」
「いいのです。阿部様のお屋敷の前に寄っておくところがあるのですよ」

 新十郎は、御用絵師・駿河台狩野家の三男坊だ。歳は十六。駿河台家は、奥絵師四家の下の表絵師と呼ばれる階級に属する。表絵師は、お目見え(将軍に拝謁する)資格のない御家人格であった。ただ、駿河台家は、狩野探幽の養子を祖とする家で、十五家ある表絵師の筆頭とされ、時として奥絵師四家と同格に扱われてきた名門である。

 駿河台家は、当然のこととして、探幽直系の鍛冶橋狩野家の系列に属する。しかし、新十郎は、父親や兄たちと反りが合わず、あえて系列外の浜町家に修行に来ていた。

 入門から二年足らず。絵画の腕はまだまだ半人前。一方、画塾では珍しい剣術好きで、浜町屋敷からほど近い男谷道場に熱心に通っている。
 中肉中背、身なりは至って普通の若侍だが、大小の鞘を梅花皮(梅花に似たブツブツが浮き出た鮫皮)の拵えにしているあたり、何かと背伸びしたい年頃なのかもしれない。

 新十郎は、御家人格とはいえ幕臣の子であるから、身分的には栄より上になる。年齢も三つしか違わない。しかし、何せ栄は九歳から融川門下にいる。技量の差も大きい。故に新十郎は、栄に対して常に目上に接する態度を崩さない。
「それならばいいのですが。どちらに寄られるのですか」
「新十郎さんは、神田駿河台のお志津様のところは分かりますか」

「お志津様ですか。ああ、大久保様ですね。実家の近くですし、殿様の出稽古で一度お供したこともあります。ただ、あの辺りは、同じような屋敷が並んでいますからね。まあ、近くまで行けば何とかなるでしょう」

「そう。では、ご苦労ですけど、わたくしが火急の用件でこれから伺うと先触れしてくれませんか」
「承知しました。でも、お一人で大丈夫ですか」
「まだ人通りもありますし、この辺りで追剥ぎもないでしょう」
「承知しました。では、お先に失礼!」
 新十郎は駆け出すと、あっという間に見えなくなった。元気な青年である。

 神田駿河台は、現代でいうと御茶ノ水駅の南側のエリアで、大名屋敷や高級旗本の屋敷がひしめく典型的な武家町であった。栄がこれから訪ねる大久保家もその中のひとつだ。
 そして、「お志津様」とは、大久保家の奥様・志津のことである。栄にとっては、融川門下の姉弟子にあたる。

 志津の実家の永井家、婚家の大久保家は、ともに三千石を超える高級旗本。しかも、江戸幕府創立以来、約二百年にわたって幕府中枢に人材を提供し続けてきたエリート一族であった。志津の夫・大久保信濃守も、数ある遠国奉行の首座・長崎奉行を務めている。

 志津は、大久保家に嫁ぐ前、実家の永井家にいた頃から融川に師事していた。弟子と言えば弟子だが、職業絵師を目指して画塾に入門する弟子ではない。栄や新十郎などとは全く異なる。

 江戸時代、絵画も、和歌や漢詩、書などと一緒で、武家の子弟にとって必修の教養科目とされた。教師役は主に御用絵師たちが務め、中でも、大名や高級旗本の子弟の教育には、奥絵師四家が当たった。この場合、絵画の稽古は、師が弟子の屋敷を訪れて行う、いわゆる出稽古形式であった。

 普通、一通りのカリキュラムを修めれば指導は終わるのだが、志津は、融川を師として敬うこと厚く、その後も絵画修行を続けている。融川の名から「寛」の一字をもらい、画には「寛道」と署名する。水墨で山水や竹木を描くのを好む。

 そして、三年ほど前から、栄は、主に課題の提出と添削後の返却であるが、融川と志津の間の連絡役を任されていた。
 志津は、融川門下でメキメキと頭角を現しているこの妹弟子を大層気に入っており、栄が屋敷を訪れるといつも歓待してくれる。誇り高い官僚一族の出らしく、少々うるさいところはあるが、今夜のような状況においては、これ以上頼りになる味方はいない。

次章に続く


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