心を亡くすと書く、言葉を救う時間。

 言葉しか愛せないのに、上手く言葉が出てこなくなってしまった。記憶しか取り柄がないのに、上手く思い出せなくなってしまった。
 常に頭がぼんやりと靄がかっていて、なんというかこう、今もよい言葉が思い浮かばないのだけれど、いろんなことを論理的に思考したり、それを言葉に表したりするのが難しくなってしまった。綺麗な言葉が好きなのに、それを紡ぐ自分しか好きになれないのに、自分の言語化能力は日々下がるばかりである。
 「普通に」とか「ほんとに」とか「エグい」とか「すごい」とか、そういう言葉でしか物の感想が言えない。昔のわたしがやけに嫌っていた「なんかすごい」という感想しか口に出来なくなっているのだ。本当はもっと、それを見た時、読んだ時、聞いた時、食べた時に、自分の心の中に渦巻いた感情というのは複雑で、深いものなはずなのに、いざ出力しようとするとこのザマだ。
 いつからこんなことになってしまったんだろうなどと思いはするが、きっと答えはもっと単純なもので、頭も使ってないし言葉にも触れずに生きているからだ。そりゃあ家でゴロゴロして、家族とだけ喋るだけの生活なんだから、頭なんて使うところがない。そもそも頭を、というか言語化能力も記憶力も、使う場面がほぼないのだ。
 「この時のことを覚えておきたい」「この心情を大事にしたい」と思うこともない。生活にメリハリがないから。いつもゆるやかに、特段いいことも悪いこともないままに時が流れていて、気づいたら眠り、気づいたらご飯を食べている。ほとんど毎日同じ生活。刺激など存在しない。刺激を排除した生活をしているからだ。それを、わたしが望んだから。平穏が欲しかったから。
 ちょっとやりすぎちゃったみたいだ。日々に区切りがない。ああ、あれをやったのは今日のことなのか、昨日のことなのか、それとも一か月前のことなのか、正直ぼんやりしていることもある。誰しも一回は、コンディショナーの前に、シャンプーで洗ったっけ……?となぜか直前の記憶をなくしたことはあると思うが、わたしはずっとそんな感じ。日々をあまりにもぼんやりと、無意識に消化しすぎて、もうなにも思い出せないのだ。ずっと気持ち悪い。ああ、昨日確かにやったことが、思ったことがあったのに。なんだったかな、何をしようと思ったんだったかな。でもよく分からないので、まぁもう、しょうがない。

 メモとか忘れたくないことを、ツイッターに呟くようにしている。でも昔の自分に比べて言葉の美しさや重みが消えてしまった気がして、悲しい。いや、昔の自分がきっとたかが140字にも満たない言葉たちを推敲しすぎだったのだと思うけれど、最近は頭と指が直!!!!って感じでどうにもアホっぽい。
 わたしの学校はスマホ持ち込み禁止だった。だから、学校で起こった悲しいこと、悔しいこと、死にたくなったこと、嬉しかったこと、そういうの全部を、スマホが見れる夕方までに、咀嚼して、言葉におこして、いやちがうな、こうだななんて思ったりして、脳内で140字以内の美しいフレーズにするのが好きだった。どう考えても少々キモいツイッタラーであるけれど、わたしは結構、そうやって生み出された自分の感情の結晶が好きだった。スマホに、ノートに、出力される前の、まだわたししか知らない心持ちを、わたしだけの言葉にするのが好きだった。
 スマホやノートを介在させない、わたしの脳だけを使う濾過の時間が、今は足りない。手元にスマホがある。泣きたくなればすぐに泣けるし、笑いたくなれば笑えるし、何も気にせずに行動できる。何か忘れたくないことがあればメモ帳やツイッターに書いておけばいいしね。
 適度な忙しさを以て、社会的に生きるという縛りが、わたしの生み出す言葉たちに魔法をかけていたらしい。ちょっと、自惚れていた。自分の生み出す言葉だけは、自分を裏切らないと思っていた。それはわたしが生まれ持った能力で、それがなくなったり、奪われたりすることはないんだって。でも少し違ったみたいで、周りの人達、学校、社会といった、わたしの平穏を乱すと思って切り捨てたものたちが、わたしの愛した言葉たちを生み出すためのトリガーにもなっていたらしい。何たる皮肉だ、どちらも手放したくなんてないのに。
 忙しさから、ただ頭の中で思考することしかできない時間が、わたしの魔法だった。

 暇とは恐ろしいものだ、という話はこれまでもずっとしているような気がするが、やはり人間には強制的な忙しさが必要らしい。わたしがまだ言葉に縋っていたいなら。よい文章を紡ぐ自分でいたいなら。暇から生み出された3000字より、忙しさの隙間を縫った140字が美しいから。
 「それのことだけ考えていたい」というのは、案外本当にその状況になると浮かばなくなるものだと思う。大なり小なり、多分それは誰にでも経験があるもので。「いざ言われると出てこない」みたいな、そういう感覚。
 わたしはまだ学校に行っていた頃、進路のことや受験のことを考えるのが嫌すぎて、なんで生きてるのかとか死にたいのかとか、そういうことだけ考えていたい、と思っていた。テストのこととか、友達のこととかそういう面倒くさいものから全部解放されて、自分が本当に向き合いたいものだけ見ていたいと思っていたのに。
それって、現実逃避でしかなくて、本当にわたしの好きなことじゃなかったんだと思う。面倒くさいものから全て解放されてみれば、あっけなく、一日の九割をぼんやり過ごすようになった。無感動で無気力。頭はすっかり働かない。 現実逃避先より、テストが嫌だっただけの、普通の高校生だったんだ。やりたくないことはやりたくないし、やりたいこともほんとはやりたくなかった。
 最近はもう向き合うことにも疲れて、というかやりたくなくて、人生は無だと思うようになった。どうせ死ぬんだからな、と。どれだけ歩いても、走っても、ゴールテープはみんな平等。小学生のかけっこよりもやさしいね。だって、ドベの子にもゴールテープは用意されているんだから。
 ただ、どう走るか。歩いて歩いて、意味もなく周りの人に迷惑をかけたり顰蹙を買いながら歩くのも、華麗に走って、転んでも走って周りを釘付けにしたって、それはひとつのあなたの人生だと思う。
 わたしは、周りの人からどう思われてもいい、というのは大嘘で、みんなわたしのことを好きでいて欲しいとは思うけど、それはそれとして、わたし自身に満足したい。そんな人生にしたい。わたしの紡ぐ言葉に、わたしが救われたい。元々そう思って文章を書き始めた。周りなんてどうでもよかった。誰かの書く文章じゃしっくり来なくて、苦しくて、誰かわたしの気持ちを書いて欲しくて、大丈夫、ひとりじゃないって思いたかった。でも、わたしの心情をわたしより表せるやつはいないって気づいた日、書いてみることにした。初めて書いたとき、ナルシストみたいだけど、わたしは自分の文章にほんのり泣いた。ああ、おまえ、そう思っていたんだ、と思った。言葉っていいなと思った。本はずっと好きだったけど、こんなしがない、たまにnoteを書くだけのような人間が言うのも生意気ながら、みんなこんな気持ちで本を書くんだと思った。
 それを公開したら、みんなが共感してくれたり、ありがとうって言ってくれたりした。ちょっとだけ、気分が良かった。わたしが"そっち側"になれたことが。共感できるものを与えられた人間になれたことが。うれしかった。ヒーロー気取り、とまではいかないけど、あなたはひとりじゃないのかもって言えた気分になれたし、同様に、わたしもひとりじゃないんだって救われた。

 わたしにとって、言葉は救済だ。それは、する側でもあり、される側でもある。読んで救われて、書いて救われて、人に見てもらえて救われる。同じように、読んで誰かを救っているし、書いて誰かを救っているし、見てくれた誰かを救っている。
 ずっと魔法少女になりたいと思っていた。わたしにとっての唯一の魔法はどろりと煮詰めた感情の結晶で、それを磨くことだけがわたしのなかの、わたしの存在意義なのだ。
 心を亡くすと書いて、忙しいという漢字になるけれど、きっと綺麗な言葉を作るためには、適度な心の犠牲が必要だ。じゃないと、何にも感じられないから。
 だから、がんばります。唯一の武器を磨くための、適度な忙しさを。これもまだ、現実逃避先でしかないのかもしれないけど、いつか本当に「文章を書くことが好きです」って胸を張って言えるように、日々にときめきを感じられるように、ね。

 太宰治は書きました。

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは生のよろこびを書きつづる。一「葉」より

 だから、急に地獄のどん底に落とされた気持ちになって絶望の詩を作る日があったとしても、それは自分が、よい暮らしの最中にいて、生命の危機も感じず暇にのんびり生きれている証拠だと思って乗り切りましょう。
わたしもこんな文が書きたいな。いつか冗談で、人生のロールモデルは太宰治、なんて言ったことがあるけれど、文章のロールモデルは間違いなくこの人だな、と思う。
 昔は考えすぎる自分が嫌いで、今は考えられない自分が嫌いなんて、ホコタテの無限ループかもしれないけど、とりあえず、次は中間を目指しつつ、もっと洗練された、自分を、あなたを救えるような言葉を生み出せる人になりたいですね。


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