テトリスでさえ終わりはあるのに

 もう嫌だ!!!!早く殺してください。もうなんか、よくわかんないけどしんどくて仕方がないです。殺してください。
 というのも多分嘘で、ほんとに殺されそうになったらマジで泣き叫ぶし。もうぐっちゃぐちゃでこれ以上人生やりたくない‼️‼️‼️惨めだし意味ないしなんでこんなことしてんのかわかんないし早くもう逃げ出したい‼️‼️‼️‼️という気持ちを表す言葉が、死にたいしかないだけで、別に死にたいわけじゃない。怖いし……。そういう時点で、自分ってまだ「大丈夫」と思う。もう口癖のように死にたくなるけれど、ちゃんと自分から死ぬ日は来ない。まぁ死なないに越したことはないけど、なんかそれすらやりとげられないっていうか、全部中途半端な自分のことがまた嫌いになる。
 やる行動全部に意味を求めてしまう。だけど突き詰めてしまえば人生に意味なんてなくて、そうしたらどうして私はこんなに苦しい苦しいって言いながら走り続けなきゃいけないんだろうって思ってしまうようになる。どうせ死ぬのに。今の時間って何。わかんないよ、もう全部わかんない。私ってなんのために生きてるの。生きてるだけでこんなに苦しいのに、それに伴う結果が、終わりが、死ぬ、ならもう、そんなの誰がやりたいの。そもそもなんでこんなに苦しいの。わたしって何に追われてるの。もう嫌だ。だれもわたしを苦しめてないのに、自分で自分を苦しめて悲劇のヒロインぶって、なんで私ってこんなふうに生まれちゃったんだろうとか思って、生まれ持った性格なんだって変わろうとせずに可哀想なままでいたがっている。可哀想な自分しか好きになれない。自分のことが嫌いな自分しか好きになれない。そんな気持ち悪い人の事なんか誰も好きになるわけないし。ずーっとどん底で、自分が周りを拒絶してるのに、穴の下で「誰か助けて、なんで誰も助けてくれないの」って泣いてる。バカみたい。救われたいのに、誰か助けて欲しいのに、アドバイスなんかいらないと思う自分がいる。そんな言葉一つで、私の人生の責任なんか取ってくれないでしょう。そりゃそうだ、自分の人生なんか、自分しか責任を取らない。それが重い。書いてて分かってきた。"生きる"責任が重い。私が毎日繰り出す選択の数々が私の人生を構築していくわけだけど、それがもう、辛い。重い。わたしはずーっと、頭の中の自意識としてのわたしを好きで、嫌いで、誰か愛してあげて欲しいと思っているけれど、体とか、人生とか、正直そんなものはどうでもいいと思ってしまう。誰よりも自分の人生に責任と不安が付きまとうのに、興味はない。何がどうなろうと結構どうでもよくて、それを自分で決めなきゃいけないのがしんどい。興味がないものをこの十七年という間眺め続けていて、それが本当につまらない。

 誰とも喧嘩したことがない。誰ともぶつかったことがない。そんなことより場を乱さないで欲しかった。平和で、丸く収まるのが好き。そうやって構築されたわたしの人間関係とか性格とかが、どうやら私につまらない人生を歩ませているらしい。そう人に言われて、なるほどと思った。私の人生は、他の人から見ても筋金入りのつまらない人生なんだ。でも、そう自分が思っても、人からそう思われたとしても、私は戻れても同じように生きるだろうし、この先も同じように生きていくと思う。
好きな言葉は平和と現状維持。よく言えば。悪く言えば、我慢と停滞。どちらかと言うと私は、出る杭は打たれればいいのにと思うタイプだから。心中とかどうでもいいよ。その場で誰も不快さを表に出さなければ、そこは丸く済むのに。そう思うけど、世の中というのはそういう人ばかりではないみたいなので、私はずっとイライラしながら過ごすんだ。
 最近、「快適と成長は共存しない」という言葉を聞いた。本当に最近で、なんかすごいタイミングだなーとか。あまりにも私のことだ。わたしの快適な、ぬるま湯のビニールプールのような世界の中じゃ、ずっと成長みたいな、そういうそこから生まれるものみたいなのはないんだろうなって。そんなん、分かってるよ。分かってるけど、じゃあどうしたら良かったの。まるで私のせいみたいな顔をしてくるやつに、謝らずに「お前のせいだろ」ってキレてれば良かったかな。すごく好きだった友達に、「めちゃくちゃ大好きだからこれからも友達でいてね」って伝えればよかったかな。無理だ。怒り方も愛し方もよくわからない。いつも怒ってる人って、何にそんなに怒ってるの。そんなに脳や体力のリソースが余ってるの。やっぱりなんかあんまり、私にも、他人にも、興味がない。だから、私のリソースを割きたくない。なんかもう毎日、自分の頭の中で手一杯すぎて、人生とか、他人とかどうでもいいのかも。他人事として眺めるのは好きだ。自分事にはしたくない。
 そこに意味を見いだしたくない。誰かの特別になりたいけど、特別は作りたくない。気づいたら、嫌味なやつも、好きだった友達ももうそばにはいない。喧嘩したわけじゃない。ただ、契約期間がすぎただけ。それまでの間に、特別に、なることもすることも出来なかっただけ。みんな私のことを好きでいて欲しい。怒らないでね、何をしても。私もみんなのことを愛すし。怒らないし、何をしても。このクラスの間だけは、同じ学校の間だけは、この鉢合わせてしまった時間だけは。そういう暗黙の契約をわたしは自分の中でみんなと取り持っていて、そうやって場を乱さないで生きることだけに徹してきた。
そうやって歩いてきた先は、なんとも平和でつまらない、誰も私のことなんか大事じゃない世界だった。私がリソースを割かなかったから。バカみたい。一人になりたくなくて、みんなに愛されたくて、でも最低コストで。それを実現したらこんなことになるなんて、思ってなかった。まぁそんなこと考えて生きていたわけでもないけど。

 ずっと意味のなさそうな日々を過ごす。なにも生み出さない時間だけを過ごしている。もう"意味"を見出したくない。非生産性を愛している。何をするにも意味が欲しいのに、意味を持った暮らしも関係も、怖いから積み上げたくない。いっそ何もなければ、誰もいなければ傷つかない。何も積み上げていないなら、仕方がないから。酷い結果でも、つまらない人生でも、仕方がないから。何か意味を積み上げた先に、何があるのかわからない。それがきっと、"成長"なんだろうけど、そんなの一か八かすぎるじゃん。怖い。それならずっと、私はビニールプールでいい。だけど、大きな海で泳いでもがいて、何かを得ようとしている人達が一丁前に羨ましい。あなた、私にはない何かを持っているんだね。
 好きな物だけ愛でて生きていけば、寂しくないから。そうだよね? いや、そんなの嘘。ずっと寂しい。ずっと寂しい。私が親より後に死んだとして、大好きな大好きな親友も先に死んでしまっていたら、私の葬式で泣いてくれる人は、きっともういない。失って泣いてくれる人がいるって、その人の人生の一部になれてるってことで。私はきっと、そのパズルのピースにはなれない。誰の心にも残らない。そうやって死ぬ。寂しい。寂しい寂しい。

 心を無にするために、テトリスのマラソンコースを十時間くらい遊んでいたら、変な風に積んでしまってぐちゃぐちゃになって詰んだのが私の人生と重なって見えて普通に大号泣してしまった。被害妄想だけは上手だから。上手くいっていないものが全部重なって見える。潰れてコンビニになったチェーン店のカフェとか、机に突っかかっている配膳ロボットとか。
 父親にはいつも、もうニートでもいいからねって言われる。上手くできないことを他の人がフォローするのは普通だからって。まぁ半分くらい冗談だと思うんだけど。どうやら、わたしはかなり生きるのが下手だと思われているらしい。長所もないから、引きこもって部屋で泣いているのがお似合いなのかもしれない。
 そうなるとやっぱり、私の人生に意味はないのに。どうして、こうやって苦しんでいるんだろう。
 この間外国人のお坊さんが同じように「生きる意味」を探し続けて、仏道に入り十五時間坐禅を組む中で、もう死ぬかもしれないと思いながらひたすらに坐禅を組み、その中でふと自分が生きていることをひたと感じられる瞬間があって、小鳥のさえずりとか、美味しいご飯とかの、目の前の出来事に感動を覚えるようになるらしい。頭の中で生きることをやめて、体で感じるようにする。それが生きる意味だと気づいたと話していた。
 わたしも仏道に入りましょうか。十五時間の坐禅の先に、私の答えはあるんでしょうか。いや、どうだろう。わたしは可哀想な自分しか好きじゃないから、生きる意味なんて感じられない方がいいかもしれない。
 そのお坊さん、最後に「幸せになりたいなりたいと思い続けることで今の自分を不幸せにしている」と言っていて、正直かなりパンチラインだと思った。その通りだ。今の喜びを、幸せをかみ締めなさい。
でも私は強欲だから、誰かの特別にして欲しいし、今が幸せなんて思いたくない。もっと、もっと幸せじゃないとおかしいじゃん。幸せになりたい。でも不幸せでいたい。だから一生ずっと人生の谷。どん底。数年前に思春期としての自意識、自我が生まれた時から、ずっとなにかに絶望している。
 ずっと探している。わたしの絶望に、不安に、苦しみに、終わりを告げてくれる光みたいなものを。長く続くハードモード人生の中の、ゲームクリアを。誰か私を連れ出してくれればいい。その先が天国でも地獄でもいいのに。だけどそんなもの、あるわけないから。今日も私は、布団の中という絶対聖域で枕をべしょべしょに濡らして、要約すれば「早く死にたい」を、3983字も意味もなく書き尽くすのだ。ゲームオーバー。


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