幸せになりたくなくなった。

 読書、たのしい〜。
 結局、人生でずっとやってきたことって読書しかないのかもしれない。そりゃあ毎日読んでるとか、そういう訳じゃないけど。半年くらい一冊も読まない時もあったし、一日一冊読んでる時もあったから、ムラもあるし、正直趣味と呼べるかと言われたらなんだか微妙な気もしてくる。
 もちろん付属してくる「楽しい」という気持ちはあるけど、いつだって本はわたしの盾であり矛だった。学校の休み時間に友達がいなくたって、本を読んでいればひとりだけど、恥ずかしくなかった。惨めにならずに済んだ。お昼休み、確かに孤独だったわたしは、いつだって、静かな図書館に救われていた。わたしを守ってくれる盾だった。逆に、本を読んで得た知識を矛として振るう時もあった。「わたしもこの本好きなんだよね」ってコミュニケーションの糧にしたりとか、「そういえばあの本にはこう書いてあったなー」って自分の中の考えの糧にしたりとか、わたしより人生たのしそうなバカ(口悪‼️)を見ても、「わたしはこんな本読んでるんだから!」って、本を自分のステータスにする節もあった。あと、自己紹介カードって趣味読書って書いときゃまるいみたいなとこあったし。
 だから、わたしは本を常にステータスとして利用していたという負い目が少しあるので、本に敬意を込めて、心の底では「趣味とは呼べない」と思っているわけだけど、まぁ普通にほぼ趣味なのだ。特に最近、活字を読むのがそんなにしんどくないフェーズに入ったので、YouTubeとか見るより読書が楽しい時期である。
 某文豪ストレイドッグスのせいで、というのは他責すぎるかもしれない。当時中ガキの拗らせた厨二病だったわたしは、某漫画を読んでから近代文学と括られるジャンルをとにかく読んでいた。面白いか面白くないかで言えば、正直当時の理解力も相まって打率は5割くらいだったが、なんせ「昔の難しい本読んでる俺、かっこいい……!」があったので、まぁとにかくそういうのばかり読んでいた。好きな作家も見つかった。まぁ、その、太宰治大先生なので、"拗らせたオタクの中高生ってみんな通るよねー笑"みたいな感じがちょっとあって恥ずかしいのだが、あの時もあの時もあの時も今も、つらいことや苦しいことは、大抵著作を読めば太宰大先生が文章にしてくれていたのだ。そういう出会いもあって、昔読み漁ったのが懐かしい。
 高校に入ってからは忙しくなり、読書の時間がどんどん失われてしまった。3ヶ月に1冊読めばかなりいい方、と言った感じで、全然触れられていなかった。しかし、わたくしも今やニート❗️😁 というわけで、時間だけは有り余っているので、そうやって昔読み漁った近代文学の"復習"を始めてみたのだ。
 気になってたけど時間や金銭的に読めていなかった本とか、読んだけど昔過ぎてあんまり覚えてない本とか、そういうのを少しずつ履修し直そうという話。まぁこれには、最近ちょっとだけ文豪とアルケミストさんを齧ったから……という現金な理由もありますが。
 あとツイッターで見かけてめちゃいいな!と思ったので、その本の良いと思ったセリフを書き記す「読書ノート」なるものも数ヶ月前から始めてみて、これがめちゃくちゃ良くて。言わば言葉のお守りなわけなので、いつ読んでも泣けるし嬉しくなれるし、内容も記憶しておきやすい。
 ちょっとだけ載せます🎶黒塗り部分は感想文です。さすがに恥ずかしいので……😅

女生徒/太宰治 
この本が1番だいすき(T T)
こころ/夏目漱石
夏目漱石先生で唯一ちゃんと読めた本、人生のバイブル


 それで、つまり何が話したかったかというと、なんせセンスが暗いので、くっらい話ばっかり読んでいるという話で。ちょっと見たら分かってもらえると思うけど、「斜陽」だの「若きウェルテルの悩み」だの「こころ」だの「人間失格」だの、とにかく最後自殺しちゃうとか人生に絶望してる人ばっかり出てきて、これじゃあ精神が明るくなるものも明るくならない!
 しかし、そこで考えてしまったのだけど、"明るくある必要はあるのだろうか?"という疑問。
 わたしはこのnoteをずーっと、人生楽しく生きたいのに!😭という一心で、辛いとか幸せになりたいとかどうしたらいいんだろうとか、迷い子のように泣きながら記していたわけですが、そうやって幸せを追い求め続ける人生なら、慢性的にずっと死にたいままなんとなく這い蹲るのもまた一興なのでは、と。
 暗い話ばっかり読んでたら、ずーっと思考が暗いんですけど、逆になんか気分が上がることもなくて。ふわふわと常に、「まぁ人生ってこんなもんだよねー」みたいな、ガキのくせにって感じではあるけど、18年間の諦観みたいなのを引き出しから出しては戻し、出しては戻しの繰り返し。楽しいか楽しくないかで言えばまぁ、楽しくない寄りを一定なのだけど、緩急が酷すぎる時より逆に落ち着いている気すらする。楽しいと死にたいを分単位で反復横跳びしてる時は本当に苦しかった。
 ていうか、ツイッター(現𝕏(笑))ばかり見ているから頭がおかしくなるけれど、本来こんなに死にたいとかもっと幸せになりたいとか生きてて何になるんだろうとか考えてる人って、わたしが思っているよりは少ないはずで、さらに何かトラウマや辛い過去があってそうなってしまった訳ではない、わたしみたいな恵まれた者の机上の絶望みたいなのは尚更。(暇な人間の特権とも思っている)
 逆に一般の人たち(こう括ることを許してください)はこんな思考や趣味嗜好を一生手にすることがないかもしれないと思うと、わたしも、持ってるものあるじゃん……とすら思う。一年前に、学校に提出する弁論で「ネガティブ・アイデンティティ」という話を書いたことがある。ネガティブな考えや感情を、自分のアイデンティティにしてしまい、そこにしがみついてしまって幸せになれないみたいなことを書いた気がする。が、がんばって幸せになろう!!と思っていても、アリジゴクの巣の中で足掻いているアリみたいな気持ちになる。多分自分は助からないという諦念がある。
 期待は疲れる。わたしも、清く正しく明るく生きられるかもしれないと期待すること。それで自分の心を締めてしまうなら、もういっそ不幸せに浸り続けるのが一番幸せに近しいのではないかとすら、最近考えはじめている。そんなに悪いことなのかしら。人生、生きるなら必ず楽しくなければならないということもないし、"現状に常に満足できない"という致命的な性格が自分の核に組み込まれているので、無闇矢鱈に幸せを追い求めるよりも、なんかもう、いいのかなって思ったり。
 いつか本当に死にたくなったら、別に死ねばいいじゃない。生きてりゃいいってもんでもないし、無闇矢鱈に死にたがるものでもない。人生に意味なんてない。生まれた時から死ぬことは決まっているし。ずっと、そんな人生に意味をもたらすのは自分次第だと思って、なにか残したくて足掻いていたけれど、よく考えれば、なんの意味のない人生も悪いことじゃないじゃない。

 向き合うのをやめた、と言われるとそうなのかもしれない。ただ、生きるって思っているよりもずっと、辛くて、しんどくて、意味がなくて、恥ずかしくて、でも簡単なことなんじゃないかと思っただけ。幸せがどうとか、そんな難しいこと、もうなんでもいい。
 人生に意味を持たさない人生が、人生の意味、なんてもう頭おかしくなりそう。

 誰も幸せにならない話は、心が穏やかでいられる。考えうる限り最低ラインだからだ。(こういう部分が、本を利用している感じで自分でも気に食わない) これ以上悪くなることはリアル人生、多分あんまりない。前の記事で、夢見がちなんだという話をしたけれど、夢見がちな少女であることは、間違いなく自身を息苦しくさせていると気づく。人生に運命も美しさもない。だってわたしが生きているのはフィクションでもなんでもない。

 読書をしてみて、 "鬱に浸る"を、悪い事だと思いこむのをやめてみるか……とまた新しい気づきを得たというだけの話でした🎶 きっと次の記事では「幸せになりたいよ〜〜〜😭😭」と泣いているけど、人間ってそんなもんだよねー。
 ていうか無闇矢鱈の「矢鱈」って完全に当て字なの知ってました? 気になりすぎて由来とかガチ想像しながら検索かけたわたしがバカみたいだよー︎^_^

 暑くて頭がおかしくなりそう。全部忘れて、全部ほっぽり出してしまいたい。人生、路頭に迷えば迷うほど、「人生に意味とかない……」って言い出すの、人間あるあるだと信じています。
 あたしの人生、どうしたもんか。

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