世の中の色々が憎い、原因

 世の中キモいことが多すぎる。なんと言えば良いのかよく分からないんですが、とにかく世の中色々なところで巻き起こっている様々な出来事にイラついたり怒っていることが多い気がします。わたしもみんなも。当事者でもなんでもないのに、見かけたあんなことやこんなことを嫌悪したり、怒ったり。
 普通に学校もやめたニートなので、わたしの世界はいつの間にか「学校」や「習い事」といったリアルコミュニティではなく、LINEやツイッターなどの媒介を通した、今顔が見えない相手が中心になっていて、その分当事者意識をある意味感じやすいし、またある意味感じにくいのかなと思うなどしました。
 "声"や"顔"という「誰か」を認識させるものを介さずに文面のみで情報を吸収するので、文章をダイレクトに自分に解釈するしかない。「もしこの人が言っているように、○○されたら/が起こったらどうしよう」「今この人は文面では笑っているけど、本当はどうなんだろう」みたいな想像が、文章の方がかき立てられやすくて、その分自分の当事者意識が生まれる。人間聞いただけのことよりも、自身で解釈したことの方が自分のものとして感じるようになるし、その分の権利を求めるような感覚にもなります。
 本当は自分は読んだだけで、本当がどうかなんて分からないのに。何かしら加害された話を読めば最終的に「わたしを加害しないでよ」と無駄に怒る羽目になるし、誰かが誰かをバカにしているのを見たら最終的には「わたしをバカにしないでよ」になってしまう。そんな感じがしてしまいます。わたしの文章への入れ込み方がキモすぎるだけで、世の中のみなさんはそんな事ないかもですが……。
 例えばYouTubeで動画を見ていて、自分と似たような境遇のYouTuberが昔人にいじめられていた話をしたとして、それを聞いたからって「そのYouTuberへの加害」に怒り、非難することはあっても、いつの間にか主語が「わたし」になってる事ってあんまりないと思うんですよね。だってそれはその人の物語だから。でもSNSとか見てると、結構みんな全然当事者でもなんでもないくせに「その人を加害するな」→「わたしと似ている人を加害するな」→「わたしを加害するな」になる人が多い。わたしも恥ずかしながらその一人です。しかもそういう権利を主張する人、また違うところでは誰かを責め立てていたりして、ループしている。
 文章に入れこみすぎるあまりに生まれる当事者性のせいで、気持ちの悪いくらいに誰かを叩いたり叩かれたり、それを無限にのさばる一情報として毎日眺める。そりゃあ具合も悪くなると言いますか、なんと言いますか。
 この共感力の高さは現代人のいい所なのかもしれませんが、共感力が高すぎるあまり「知らない人に起こった嫌なこと」まで自分の怒りや苦しみにしてしまったら、楽に生きれるものも生きれないというか。
 というのをツイッターのタイムラインを見てイライライライラしながら考えていたんですが、普通にただ自分が暇すぎるさもしい人間ってことが分かっただけで虚しいです。忙しい人ってSNS何時間も見ないですよね。多分、暇そうでなんもしてないやつほど声がでかくて権利ばっか訴えるのもそれが一因にあるのかもって思います。暇なやつほど人のこと見て、自分が抱えきれないまでの当事者性を持って世の中に怒っているので。本当に素敵な暮らしをしている人って、自分と周りで完結していて、しかも満足しているからそんなことにはならない。
 このマインドで生きていきたい。どれだけ境遇や環境、スペックやコンプレックスが似ていても、わたしは画面の先の知らない誰かではないし、また画面の先の知らない誰かはわたしではない。キモい男に通りすがりにブスって言われたのもわたしじゃない。老害の飼ってる犬に噛まれて謝罪もされなかったのもわたしじゃない。カスみたいな接客されたのもわたしじゃない。ずっとコミュニティでゴミみたいな扱いされてて、それがコンプなのもわたしじゃない。ぶつかりおじさんにぶつかられたのもわたしじゃない。かわいい子のダシにされたのもわたしじゃない。頭いいフリをしている人にマウントを取られたのもわたしじゃない。(何個かされたことはありますけどね🥲)
 共感力も不条理に声を上げることも大事だけど、自分のことも抱えられないのに、まだ起こってない自分への加害に、過度に怒る必要はない。悲しむ必要もない。ただ「そういうこともあるのだな」と思うだけにすませる。それが出来ないままに病んでいる人は、今すぐインターネットを辞めましょう。それでもやめられない人は、どうしようもないのでわたしと一緒に毎日どうしようもないまま過ごしましょう、、

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