遠藤周作『沈黙』⑵

モキチとイチゾウは殉教を果たし、二度と苦痛を感じない世界へと昇天して行った。
踏絵を踏めなかった二人により、トモギ村は役人によるキリシタン一掃、山狩りを免れなくなった。ロドリゴとガルペはそこを立ち退かざるを得ない。しかし、布教自体を諦めたわけではなかった。二手に分かれ、司祭としての義務を果たすために、彼らは別々の場所へと身を移すことにしたのである。


ロドリゴがガルペと分かれてからが、本作のテーマをより克明に表わしているだろう。異教徒だらけの地で、一日一日をやっとの思いでしのいでいく、その凄惨なまでの飢餓感、孤独。ふと心の内をよぎる、”神の不在”。耐えがたい出来事を通して、ロドリゴの中の信心は翳りを見せ始める。

そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。/(しかし、万一……もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば……)

p.104

無慈悲で、広大で不変の海。
ともすれば執拗とまで受け取れる海の描写は、読者に、”海”=殉教者、または=”神の沈黙”のイメージを刻みつけていく。

描かれるのはロドリゴの葛藤だけではない。卑怯で臆病者のキチジローは、知ってか知らずか、ロドリゴの心にたびたび揺さぶりをかける。己の信仰を貫き水磔に処されたモキチやイチゾウと異なり、役人に促されるがまま踏絵を踏み、聖像を罵倒してみせたキチジローは、しかしながら、決して崇高ではいられない、弱き者の代表のように表現される。

「モキチは強か。俺らが植える強か苗のごと強か。だが、弱か苗はどげん肥しばやっても育ちも悪う実も結ばん。俺のごと生れつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごたるとです」

p.120

「パードレ。ゆるしてつかわさい」キチジローは、地面に跪いたまま泣くように叫びました。「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウんごたっ強か者にはなりきりまっせん」

p.122

キチジローは遂に、ロドリゴを売る。だが誰がキチジローを責めることが出来ようか? 役人に追い回される恐怖や、その日暮らしの貧困状態は、どれだけ強い人をも精神的に弱からしめることがあるだろう。


Ⅴ。この章以降、視点はロドリゴから三人称のものに移され、客観性を持ちつつロドリゴに寄り添った視点で、より緻密な人物・情景描写がなされる。
ロドリゴは遂に捕縛され、先の老齢な武士と再会する。

「私だけを罰して下さい」相手をからかうように司祭は肩をすぼめた。
老人の額にいらいらとした怒りの色が浮びはじめ、曇った遠くの空で、かすかな鈍い雷の音がきこえてきた。
「そこもとのために、あの者らがどげんに苦しむことか」

p.134

老齢な武士は、他に捕えられていた日本人切支丹を盾に、ロドリゴに背教をせまる。さらに、ポルトガルの言葉を話す通辞からも圧迫を受ける。

「ホトケも我々と同じように死を免れますまい。創造主とは違うのです」
「仏の教えをよう知らぬパードレ殿ならば、さよう思われようが、しかし諸仏、必ずしも人間ばかりとは限っておらぬ。(中略)諸仏を人間とばかり思うのはパードレ殿、切支丹だけで、我々はさように考えてはおらぬよ」

p.140

この通辞は、キリスト教における創造主についての懐疑をロドリゴに差し向ける。日本に古来よりあった宗教のあり方と、異国からやってきた司祭が抱く宗教観との衝突である。このような衝突にロドリゴは抗いながらも、自身の中の葛藤をさらに深めていく。

自由のない身のロドリゴは、大村という地に舟で送られる。そこはかつて、宣教師らが一番布教に力を入れた場所であったと聞かされていたが、ロドリゴが馬に乗せられ街道を長崎へと向かい始めると、まわりに詰め寄った群衆からは罵声や唾、小石がとんでくるような町に様変わりしていた。

このような苦難の中にあって、ロドリゴは未だ信仰を棄てていない。己をイエスの境遇に重ねて、その「交流の感情」に浸ることで自分を保ったのである。

Pange lingua (いざ歌え、我が舌よ) 彼は馬の上で、頬に涙が伝わり流れてくるのを感じた。 Bella Premunt hostilia, Da robur, fer auxilium…… 私はどんなことがあっても転ばないであろう。

p.156-157

本作は心中の機微の表現が巧みである。キリスト教徒ではない私でも、ロドリゴの波のような感情の揺れ動きに入り込んでしまう。

(文章が長くなってしまうのが好きではないため、Ⅵ以降は次にまわす)

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