ネコと子ども

小説『エミリーキャット』第1章・麾(さしまね)く森


 

         あらすじ

『30代の彩は誰もが認めるトップクラスの売り上げを誇る画商である。そして優しい年下の彼と婚約中。 然し本当は人知れず幸せよりも生きづらさに喘ぐ日々を送っている。彩はある日、何故か迷い込んだ森奥に棲む自称花屋のエミリーと出逢い、どこか不思議な彼女に惹かれてゆく。
ふたりの絆が深まるにつれ同時に彩の中に芽生える疑惑の数々、エミリーは何故、森に棲んでいるのか?
何故、独りぽっちなのか?
花屋といいながら花屋を営んでいる様子はない。
家族は猫だけだ。浮世離れしたエミリーの生活はライフラインはまるで解らない、
やがて彩の疑惑はエミリーが生きた人間では無いのではないか?という不安なものへと昂じてゆく。
エミリーを疑いながらもそんな彼女の世界に共感を覚え、エミリーとその世界にのめり込むように彼女を愛することを止めることが出来ない彩、
彼岸と此岸を超えたふたりの絆はやがて彩の現実の社会生活に少しずつ狂いを生じ始めるものの、この世とあの世とに別れた孤独な女性同士の激しくも純一な恋は夢幻と現実の狭間を行きつ戻りつしつつもやがて誰にも引き裂けない堅牢なものへと化してゆく。
エミリーのもとへと何もかも棄て、死を賭してひた走ろうとする彩、
そんな彩を必要とし、受け入れ、死後の世界の扉を開こうとするエミリー、
彩を取り戻すべく追随する彩の婚約者・慎哉、
ふたりのヒロイン・彩とエミリーを各々取り巻く男達の生き様も女性に負けず一途で凄艶。
またエミリーの過去、子供時代にまで遡り、エミリーが何故森に棲むゴーストとなったのか?その悲しく切ない経緯、失恋、投獄、毒親、神、パズルから欠けたピースの如く失われた愛の記憶を取り戻した時、エミリーはようやく地上の呪縛から解き放たれ、天へ帰れるのか?
まだ連載中ではありますが、今後のためにも取材、リサーチ、など真摯に勉強中です。
必ず完遂させるつもりで書いています。多々未熟ではありますがお目通し頂けたら有難いです。』


本文

彩は初期の乳癌が見つかった時、自覚症状が全く無かった為に『冗談ですよね?』と医師に向かって思わず朗(あか)るく笑ってしまったくらいであった。
しかし、笑った後にその現実がまるでボディーブロウのように、時間を経て
彼女の芯部に効き、やがて彩を暗闇のどん底へと突き落としていった。
手術をして四年目の秋、再発した右の乳房を彼女は泣く泣く全摘に踏み切った。
手術に臨む前に36歳の彩は恋人である3歳年下の慎哉に泣き言めいてこう言った。
『私はもうシンちゃんと結婚出来ない躰になっちゃったのね。』
ふたりは差し向かいに秋のカフェのオープンテラスに座っていた。

慎哉は卓上のコーヒーカップにじっと視線を落としていたが、スリーテンポくらい置いてから今更ながらに驚いたようなその眼を見張って彩に向けた。
彼は言った『はぁ??』
慎哉自身いつの間にか口から出ていたその無自覚の、まるで舌打ちか貧乏揺すりのような言葉に、彩は針の先ほどの幽(かす)かな嫌悪感をどうしても抑えることが出来なかった。
慎哉の豊潤な善良さには彩へのいたわりを欠いたぶんだけ、まるで犬のように従順で純真で生真面目ですらあったが、そこには現実だけを切り取って対処し、心が受けたダメージの深さを斟酌(しんしゃく)する空間認識的な感性がまるで無かった。

つまり慎哉は現実を直視し、それに対し逃げようとする時もあったが、大抵は大人の男性として適切な行動を、起こった問題に沿ってとれる常識的観念に長けていた。
だが恋人の心が受けたどうしようもなく深い血の滲(にじ)む傷口に貼るバンドエイドがいったい何なのか?それがどういう意味を持つのか?その効能がどれだけ彩を慰めるだけではなく、ふたりの間の信頼や絆を深めるのか、
それを感知する本能も感性も無かった。
何故ならば、慎哉は男だからである。
彩に対する自分のたとえ些細な言動であったとしても、それが今の彩にどう響くか、彼自身に依る部分が大きいことすら慎哉はまるで気づいてもいなかった。
彼はまるで牧草を食(は)む牛のような澄んだ瞳(め)を、飲んでいた珈琲の上からびっくりしたように上げてこう言ったのだ。
『はぁ??』

『はぁ?貴男にはそんなことしか言えないのっ…?』
オペが成功し退院して1年が過ぎようとしていた。
彩は病院帰りのバスから流れる窓外(そうがい)の闇の中に浮かび上がる様々なものを眼で追いながら思った。
対向車線の車のテイルランプは彼女の体調の悪さを思い知らせるに充分な視覚効果を与え、あまりにも爛々(らんらん)と激しいほど赫(あか)過ぎて彩は閉口した。


まだ紅葉には少し早いが、小寒くなってきた夜気(やき)の中、街のネオンが冴えざえと瞬(またた)き、疲れた彩の眼窩(がんか)の奥を刺すようで、彩は思わず倒れそうな波に飲まれたが、吊り革に強く取りすがるとバスの揺れに逆らわずに沿うようにした。
そうこうしているうちに、徐々に弓なりに彼女の華奢な躰は強風に煽られた柳のようにバスの中にうず巻く深い孤独の中へと傾(かし)いでいった。
『あのはぁ?はまるでパスタを選ぶなら決まってナポリタンしか選ばないシンちゃんの中にあるあのなんの疑いもない『自然』なのよ。
私の気持ちなんかきっと何をどう言ったって通じやしないわ。
暖簾(のれん)に腕押し、のらりくらりきっと解ろうともしないと思うわ。
労(ねぎら)いの一言すらなくってはぁ?ですって?
こっちが言いたいわよ、どうしてこんな時に私をもっといたわってくれないの?可愛そうな僕の彩って言ってくれないの?恋人なのにはぁ?って!』

彩はパチンコ屋のけばけばしいネオンの充溢(じゅういつ)に眼を細めて、
弱い吐き気の波に耐えながら思った。 


『私が全摘のオペが決まったと云ったあの夜も彼は淡々とえー…そうなんだぁ…そうかぁそれは残念だなぁ…彩の綺麗なオッパイはじゃあ今夜見納めしとかないとなぁ…でもさぁ確かにオッパイは無くなるけれど、そうしたほうが彩の躰はより安全になるんだろう?
何しろ全摘するんだもんな、美観も大切だけどさ、健康にこれからも生きて
いかないとならないんだからまぁ仕方無いよ、俺、彩には一緒に長生きして欲しいもん。いいじゃないか、おっぱいくらい、女じゃなくなるわけじゃなし。彩は彩だ。』
って優しいのかそうでもないのか、よく解らないことを微妙につらつらと言ったあと、まるでそれらの言葉がぜーんぶ嘘だったみたいにこう言ったのよ。
『で、彩はなに食べる?俺はナポリタン。』
彩は思い出したくもないと言わんばかりに、荒々しく切るような吐息をついた。
やがて彩は見知らぬバス停で、だんだん深刻さを増してきた吐き気に耐えきれなくなり、停車ボタンを叩くように押すと、バスのステップをもつれるような足取りで慌ただしく駆け降りた。

バスが行ってしまうのを耐えて待ち、彩はバス停の傍にある雑木林付近の深い掘り溝に向かってまるで小さく老婆のように背中を円めてしゃがみこむと、そこで飲んだばかりのオレンジジュースを彼女自身、思いがけず激しく嘔吐した。
嘔吐する時にオレンジジュースの酸味が喉と鼻孔を逆流して通過する体感は、まるで無数の微細なアザミの棘(とげ)のように彼女の中を一斉に刺し、その刺激的な甘味はくどいほど激情的で厭(いや)らしく堀り溝の奥の遠く深い闇に向かってほとばしって消えた。
漆黒の闇の帳(とばり)に隠された無人の木立ちの傍で、あぁ幸いだったと彩は辺りを見回して、胸を撫で下ろす想いと共に激し過ぎる羞恥心に今更ながら身体がブルブルと震えた。

 
それはほとんど自分の乳房を板で挟んで、あのマンモグラフィーのようにぺしゃんこにしてしまう痛みと恐怖感とにどこか似ていた。
恐怖感と羞恥心とは細く堅牢な糸でしっかりと繋がれていて、その糸でゆっくりと、さっくりと、確実に身も骨も心も柔らかくチーズケーキのように簡単に切断されてしまうような、誰にも癒せない深過ぎる不安と心痛は互いにまるで双子のようにねっとりと酷似していた。
なによ、男なんかにこのまっ暗闇の中に独りぼっちで取り残されるような気持ちが解るわけないわっ。シンちゃんは私の根こそぎ無くなってしまったおっぱいを悼むより、本当はこれからも半熟の目玉焼きの乗っかった、あのお気に入りのナポリタンが食べ続けられるかどうかのほうが心配なんでしょっ!どうして私を可愛そうな僕の彩って言って抱き寄せてくれないのっ!何よっナポリタンなんか法律で食べることが禁止されちゃったらいいんだわ!だいたいシンちゃんは日本人なんだからもっと和食を食べるべきよ、パスタならナポリタンなんかより鱈子の和風パスタのほうがよっぽど美味しいに決まってるわ、今どき何がナポリタンよ、お子ちゃまなんだからっ』
彩は思いっきり子供じみた独りごとをブツブツ呟きながら、フラフラと鬱然と繁茂(はんも)する森の中に無意識に足を踏み入れていった。


もう一度羊歯(しだ)の群生する辺りでしゃがんで少しだけ彼女は吐いた。
少女のようにベソをかきながらティッシュで鼻を噛むと、彩はバッグからコントレックスのミニボトルを取り出し、それでおいおい泣きながら口をゆすいだ。
彩はもとのバス停に戻ろうとしていたはずなのに吐いた時に三半器官が一時的におかしくなったのだろうか…?
方向感覚を失った彩はむしろ森の奥へ奥へともつれる足を踏み入れていった。
森の枝葉の欄間(らんま)越しに 彩はそこからふと奇妙なものを見た気がして思わず足を止めた。
彩が歩を進めるにつれ、彼女の肩や頬に触れる高さの枝や、長い指を差し伸べたような形の葉むらがまるで意識あるもののように開き、退き、そこから先は急に樹も少なく地面も草深くない歩くのに容易(たやす)い、こざっぱりとした月灯りも明るい疎林(そりん)へと変容した。 

そのまばらな木々の昏(くら)い緑が造る繊細なレース編みの向こうに薄ぼんやりと灯りが滲んで見えた。


アンクルブーツの歩を一歩一歩、病葉(わくらば)の散った地面の上を踏み締めて、彩はその大きな窓灯りになんの怖れも不安もなく近づいていった。
ふと気がつくと森はすっかり途切れていた。 そこは一面にまるで濡れたようになめらかで艶やかな表面の輪郭を月光に照らし出されて、銀色に光って見えるごく短く刈られた、手入れのゆき届いた芝生の前庭が拡がっていたのだった。
前庭にはログハウスにでもありそうな木製の広いテーブルと椅子がありテーブルの上にはやや早い紅葉が少量散っていた。ブリキの大きなジョウロと鍔(つば)の広い麦わら帽子が置いてあった。

その奥に大きな硝子張りの家があり、彩は家の中のシャンデリアが煌々(こうこう)と輝きを放つのを最初ぼんやりと見とれて立っていたが、やがてジリジリとまるで誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように近づいていった。

硝子の家は花だらけだった。
よく観察してみると硝子張りなのは家の前方で、ちょうど広過ぎるサンルームのような造りになっていることがようやく解った。
更に硝子の窓から中をつらつらと観察するうちにサンルームではなく温室の
ようになっているのかもしれないと彼女は思った。

だが奇妙だった。

(To be continued...)


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