光る花2

小説『エミリーキャット』第2章・お茶はいかが?

様々な種の花々が色とりどりの美しい琺瑯(ほうろう)びきのバケツに大量に活けられそれらがあちこちに無数にある。
少し奥には更に硝子の戸棚のようなものがあり、その中もまた花だらけだ。
薔薇、トルコ桔梗 、ラナンキュラス 、芍薬、ガーベラ、フリージア、カーネーションに霞草(かすみそう)、スイートピー、ダリア、カラー、カンパニュラ、秋なのにチューリップや紫陽花や向日葵まである。
天井から吊るされた植木鉢からは、溢れるように何か解らない白い花が咲きこぼれ、まるで真珠が垂れ下がっているように見えた。
花々のバケツを集めた間に、鈍く光って見えるピンク・グレーのリノリウムの通路の奥には、美しい象嵌細工をほどこした、恐らくマホガニーであろうノーブルな女性が使うに相応(ふさわ)しい、たとしえもなく風雅な机があり、その上にはアメリカ製であろうか?ポップな中にもどこかクラシカルなレジスター機が在った。
パソコンやタブレットではなく古式床しくもノート表面が固い漆塗りの板で出来た、沈金の小菊の散った台帳らしきものが置いてあり、それを使う人が女性であることは火を見るより明らかな気が彩にはした。
様々な書面までもが美しい大きな薔薇の形に掘り込まれた、目の覚めるような真紅(しんく)の血赤珊瑚の文鎮でバラバラにならないよう留め置いてあり、雑然としている中でありながらも、どこかしら一々優美で彩の心に深く花の薫りのようにそれらの印象は残った。
『…ここ花屋さんなんだわ』

彩は窓に両手を押し当てて、小学生の子供のように時折硝子を吐息で曇らせ、それをコートの袖口でしきりに拭きながら、彼女は硝子の家の中を見澄ました。
こんな街から離れた異様に辺鄙(へんぴ)なとこにある森の奥の花屋だなんて、一体どんな意味があるのだろう?
ここに花屋があること事態、きっと誰も気づかないだろうに。
それともここは花屋ではなく、苗や花の仕入れ問屋か何かなのであろうか?
ここで育てた花を、車で街の生花店に運び入れるのかもしれない。
でも、よくよく見るとレジスターの傍には花束用のカラフルな包装紙や、巻いたサテンのリボンが壁から掛けられ幾本もくるくるとカールした状態で垂れ下がっている。
“…間違いなくここは花屋さんだわ”
と彩は誰も聴いていないのをいいことに低く囁いた。
ニャアという突然の鳴き声に彩はひやりとして飛び上がりそうになった。
鋭く振り返ると自分の背後のあの庭のテーブルの上に、大きな猫が座ってこちらを見ていた。白地にややムラのある焦げ茶の八割れ模様で、やや毛足の長めの非常に大きな猫だ。
純血種ではないだろうが和猫にしては大柄過ぎる猫だ。
猫は彩に向かって『オマエ誰だ?』と言わんばかりに、低いまるで押し潰されたような無愛想な声で、もう一度まるで試問するかのように鳴いた。
…ウニャア~…
『あぁ…あの…ごめんなさいね』と動物の好きな彩ではあったが、森の中で急に出逢った非常に大きな、どこかまるで威を示すような猫に怖れも感じて、思わず会社の上司に対してするように阿諛(あゆ)しておかしな揉み手のようなポーズをとってしまった。
『こんばんは、貴方、綺麗な猫ちゃんね、でも私、泥棒じゃないから安心して、道に迷っただけなの、すぐに帰るから大丈夫よ、ただここがあんまり素敵だからちょっと見とれてしまっていただけ』
そう言って彩は我ながらおかしな言葉だと思った。
道に迷ったと言ってもここは森の中だ。
しかも夜にこんなとこへ迷い込むこと事態あり得ないことなのだから。
そしてそのことを今この大猫に向かって、おずおずと笑いながら説明している自分を彩は『なんて奇妙なんでしょう!こんなおかしな夜は初めてだわ』と思った。
大猫はむっつりと他人の庭で揉み手をしながらニコニコ作り笑いをする彩を眺めていたが、やがてそれにも飽いたのか、テーブルからボトリという擬音がしそうな重々しい腰つきで飛び降りた。
『恐らく彼は彼だわね、この馬鹿でっかさだもん、彼女なわけないわ』
と心の中で呟きながら彩は目の前を通ろうとする猫に数歩、退いて道を譲った。
猫はスタスタと、彩の隣を臆する様子もなく通り過ぎ硝子戸の前で一旦立ち止まると、再び彩を見上げてこう鳴いた、『ブニャア!』。
それはまるで『おいお前そこに居るんだったらここを開けろよ』と命令しているかのようだった。


『え、私が開けるの?』と戸惑う彩に、猫は更に人間のオーケストラに入れば『バリトン』でもなくもちろん『テノール』でもない、間違いなく『バス』に振り分けられそうな声で『ぶんにゃあ』と渋く鳴いた。
顔はブスッとしていかにも面白くもなさそうだ。
戸さえ開けてくれればいいんだよ、俺はお前さんなんかにその用事以外に興味なんかまるきり無いんだからさ、と言わんばかりのデカい態度だ。
『あぁはいはい、解ったわ、いくら大柄といっても猫にこのドアーは開けられそうにないものね』と独りごちると彩は重い硝子のドアーを開けてやった。
開けてやりながら、ふとその瞬間『でもこの猫はここの猫なのかしら』という考えがふと彩の脳裡をよぎったが、それと同時にガランと大きな真鍮のドアベルが鳴ったので、彩はキャッと短い悲鳴を上げて思わず小さく飛び上がった。
だが店の奥は水を打ったかのように鎮まり返り、彩は何故だかホッとした。
猫が大量の花を活けた琺瑯びきのバケツが林立する、その隙間のリノリウムの床をトトト…と無防備に猫らしくない足音を立てながら、店奥の陰に消えてゆくのを見届けると、店の中はますます森閑とし、花々までもが急にすべてまるで絵画か造りものじみて見えた。花も室内も何もかもが、呼吸をしていない時の止まった人形か何かのようにひんやりとして見え異次元に、さ迷いこんでしまったかのような錯覚に彩は躊躇した。
だが厭な雰囲気ではない。

躊躇といってもそこには惹かれるものはあっても、不安に繋がるものは不思議と無かった。
『花屋さんなんですもの…堂々と入ったって別にいいんだわ、私はお客様なんだから。もしお店の人が出てきたら、このお店で一番綺麗な薔薇を一輪、買って帰ったらいいだけなのよ』
彩はそう思いはしたが、店員が出てくるのが少しばかりスリリング過ぎるような気がした。
そのくせこの魅惑してやまない不思議な空間を、彩はコツコツとヒールの音を立てながら歩き回ると、花々を観て周った。
逐一、美しく花弁のひとひら、ひとひら迄もがあまりにも整然とし過ぎていて、奇妙な感じが否めないのを、彼女は顔を近づけていちいち検分し、その薫りまでをも確かめた。
薔薇の薫りは確かに在るが、しかしその薫りはどこか時空を超えて遙か遠くに存在するような…。
そんな気がしたが、それと同時に何故か冬の冷気が放つ、張り詰めた夜の帳(とばり)の匂いを彩は感じたような気がした。
“不思議な花ね… 。
これ本当に花なのかしら
まるで花の夢を見ているみたい 

まるでこれ…幻みたい… 。”
彩は思った。
広い店内を幾ら低回しても、店主が出てくる様子は無かった。
泥棒にあったらどうする気なのかしら…。
と彩は思ったが『でもこんなとこにまさか花屋どころか人が棲んでいるだなんて、泥棒だってきっと想像だにしないと思うわ』
と思い直した。
絡繰(からく)り時計が小さな空色の観音開きの扉を開き、そこから愛らしいドアーフがくるくると回転し、踊りながら繰り出すと、暫くの間チャレスタを奏でるような美しい音色でスカルラッティのル・ヴィオレットが流れた。
6時の逢魔が刻を知らせるあまりにも可憐過ぎる旋律が終わると、彩はもう帰らないと、と長居し過ぎたことに今更ながら気づいて、硝子のドアーに向かおうと振り向いて慄然(りつぜん)とした。
絡繰り時計に目をやる一瞬前に見たはずの、ずっとすぐ傍にあったワゴンの上のあり得ない変化に、彼女はその場に凍りついたようにそそり立った。
ワゴンには湯気を立てたティーカップがいつの間にか置いてあった。

持ち手に淡水真珠が一粒光る鈴蘭を型どった金色のスプーンを添えて、置いてあるティーカップは彩が以前から憧れていた今はもう無い旧い種類の異国のものだった。
彩は思わず辺りを素早く見回したが誰も居ない。
『…どうして?』と彩は小さく囁いた
『だってついさっきまでは確かにここにはなんにも…』
その先の『無かったのに』という言葉を彩は口に出すことすら怖くなり思わず飲み込んだ。彩はこの急に忽然(こつぜん)と立ち現れた姿の見えない影に戦(おのの)きながら無意識のうちに左右にそのかぶりを振っていた。
『いや…何??』

彩は次の瞬間、硝子戸を押して芝生の前庭をもつれるような足取りで駆け抜けると、やがて無我夢中で森の闇路の茂みを掻き分け、隆起する樹の根につまづいたり転んだりしながらも、気がつくとバス停の前に肩で息をしながら立っていた。 

彼女は少女のように泣きじゃくりながら、小さく恋人の名をいつの間にか無意識に唱えるように何度も何度も呼んでいた。
『シンちゃん、シンちゃん…怖い…お願い、助けて!助けて!』
その時 彼女は慎哉のかけがえのない存在の大きさに改めて涙していた。





(To be continued...)


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