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恐怖についての考察【Episode3】切れ込みが怖い・隠し包丁幻惑

私は幼い時から苦手なのが煮魚を作るのに魚の表面がはらんで破裂するのを防ぐ為にと、味をよく浸み込ませる為に包丁で切り目を入れるあの『隠し包丁』、または関西ではよく『忍び包丁』と呼ばれる『アレ』が生理的にどうしてもダメなのです。

カレイやヒラメ、めばる、といった魚、あるいはしいたけのような肉厚の野菜にも入れる、バッテン印の飾り包丁などはまあなんとか大丈夫なのですが。
それでも割り引いて考えることが出来ないことはない、という程度で決して好ましくはありません。

中にはフルーツ、たとえばマンゴーの果肉にサイコロ状の切れ込みをギザギザに入れて敢えてそのボリュームのある果肉をぐっと反らせて硝子の皿などに盛る、
ああいうのも物凄く気味が悪い、
よくあんなの食べられるなと思う。
まるで花が咲いたように刺身を見事に飾り包丁を入れて造り込んだり、前述のマンゴーを初めとするフルーツ類など素敵なホテルのレストラン辺りでは時々お見かけするものなのだろうが、幸いこの手の芸術的飾り包丁は日常的にはそうお目にかかるものではないので、私はそういう高級なものを見てゾッとして鳥肌を立ててなかなか治らずずっと背筋を凍らせたままでいる、
なんてこともそうそうは無くて済むのですが…。

ナスの皮に入れるチェス版のような市松模様の飾り包丁も同様で、韓国料理などで肉をさながらレースのように網目模様の透かし織りのように鋏で綺麗~に切ってしまうのも好きではありません。
(お肉は普通でよい、あんな風にレースみたいにしないで欲しいと思ったりもする。薄気味が悪くてかえって食欲が失せてしまうからです。)

煮込んでしまったり、両面しっかり焼かれてその生々しさやリアルなキモチのワルさはだいぶ和らぎ、少しはその見目がマシになっても私にはやっぱりあまり気持ちいいものではありません。


それでも肉や魚、刺身を含めコウイカなどへの隠し包丁やメイクアップでたとえるなら、より美々しくいわゆる『盛って』見せるために入れるいわゆる飾り包丁もまた私は恐怖すら感じます。
破裂を防ぐ為や味を染み込ませる効果を狙ってという以上のものを感じるこの手の装飾性は私には無意味でしかありません。
食べるものなのだから何もこんなにデコラティブにしなくてもいいのに、とすら思う。
装飾的に造り込めば造り込むほど気味が悪い。
そう感じる人はきっと沢山いるはずだと心密かに思ったりもしています。
何しろ口に入れることすら考えられないし、仮に入れたとしてその口内での舌触り、頬の裏や口腔で感じるギザギザやビラビラのあのギャザーや花弁のような肉や魚や果肉を想うだけで背筋が寒くなってしまうのです。

鯖や鯛のようなボリューミィで体に厚みのある魚にはバッテン印ではなく 満遍なく縦にあまり間隔を空けずに切り目を並列して入れることがあります。
私は幼い頃、継母がその切り目を入れた魚をまな板からそっと持ち上げた時に、
母の手の平の上で魚体がぐったりと深めに入れられた切り目に沿ってまるで反り返ったようになったのを見て慄然としたのをよく覚えています。
その切り目がさながらアコーディオンギャザーのようにビラビラとめくれ上がり、中の赤身がそこから垣間(かいま)見えて私は背筋に、ムカデが這うような戦慄に身の毛のよだつ恐怖を感じてその場を凍りついたように動けなくなってしまったものでした。
その後、継父が帰宅しても尚、
私はその魚を口にすることは出来ませんでした。

当時、私は幼稚園児でした。

後に私はその忍び包丁によって出来る魚の体のビラビラを自分で料理するようになってからキモチワルイキモチワルイと思いながら『怯え遊び』に耽るようになった のです。

忍び包丁で切り目を入れた後、
わざとその魚を弓なりに自分側に向かって反って眺めてみる 。

ビラビラはのけぞらすことにより規則正しく入った切り目が一斉に沢山の赤い赤い口をこちらに向かって開き…。 

私は鳥肌を立たせながらその魚を思いっきり反らせた形に皿の上へ盛り、その赤い切り目に色とりどりの待ち針をびっしり突き立ててオブジェとしたのです。 

待ち針の円い先は朱や真珠いろや青、緑や黄色、ピンクや金や銀、と様々でしたが、まさに見るだけで毒々しくも美々しい悪夢を見るようなおぞけ立つ様相でした 。

これは比較的料理することが好きな私にとっては忍び包丁への生理的嫌悪=恐怖…
を克服する為に敢えて自分に科した荒療治だったのですが、
これはむしろますます恐怖心を煽(あお)る結果へと繋がってしまい自分自身への惨敗となってしまいました。
なので私は未だに煮魚は作れません。 

理由はもちろん忍び包丁のトラウマが未だ立ちはだかっているからです。

あと今最も怖いのは家の壁、 

特にマンションとかではなく一戸建ての家屋によく見られる、厳密に種類は解らないのですが、恐らくは羊歯(しだ)類なのでしょうか? 

びっしりと壁全体を覆うように蔓延(はびこ)るあの名の知れぬ植物が今は怖くて怖くてならないのです。 

よく蔦(つた)のからむチャペルとか云いますがあんなのはなんとも思いません。まぁ気持ちいいものではありませんがそうおぞましいとは感じなくて済みます。

何故ならああいった蔦類は壁からある程度、距離感を持ちながら壁に伸びやかに絡みついているのでその距離感のぶん空気をはらみ、壁に沿いながらも同時に壁からある程度独立自存もしているので風が吹くとそよそよと葉っぱがそよいだり揺れたりもします。 

でもあの羊歯のように見える植物は壁に吸い付くようにピッタリと密着し、風が吹いてもそよともしません。
まるで壁を蝕(むしば)む皮膚病か何かのように見えて不潔で陰湿な感じしか受けない。 

というのも壁にびっしりと模様のように密接して蔓延(はびこ)っている為に(この蔓延るという言葉自体も私は自分で口にしながらゾッとする時があります)髪の毛より細いものもあると云われるあの私達の中にある毛細血管か何かのように見えていかにも気持ち悪いのです。

また吸い付いた状態のソレはさながら巨大な蜘蛛の脚のように一ヶ所からどんどんジワジワと拡がり、病巣から菌糸が伸びゆきやがてどんどん拡大化してゆくようにみるみる壁を占領してしまい、
ゾッとするほど醜い皮膚病にかかった壁をもつ病んだ家のような様相を造り上げてしまうあの植物が私は怖くて怖くてならないのです。

蔦の一種なのでしょうが羊歯のような感じも受けるし、植物であることは確かなのですがなんというのか、壁の結露が黴(カビ)を造り上げてしまうようにあれもまた一年中、民家の壁にはびこる黴の一種なんじゃないのか?と本気で疑うほど強力に見えます。 

恐らくは普通の蔦と違ってあの黴の菌糸めいた植物は、ああいったものを除去するプロ泣かせの植物なのではないだろうかと私は勝手に推測しています。 

あれだけ壁と一体化していたら、硬い金属製のヘラのような鋭利なもので半ば壁も一緒に削らなくては、とてもじゃないけど完全に取り除くことは無理でしょう。 

それだけの密着型の植物がこの世には沢山あるのでしょうがヤツは街をなにげに歩いていてもそこここに普通に居るので見るのを避けるのが難しいくらいなのです。 

あの家の壁は一面ヤラレちゃってる、だからあの前は通りたくないので別の道から行こうと前知識があれば敢えて避けることが出来るのですが、ヤツはどこにでも居るのでまるで犬も歩けば棒に当たるではないのですが完全に自分の視界から除くことは不可能なのです。 

なので最近ではそういう羊歯に壁という壁を覆われ尽くしたような家に出くわしても『ひや~っ出たぁっ!よくあんな家に住めるな…
可哀想に、取り除きたくても多分出来ないんだょね、
トンデモナイ奴だ!(蔦のこと)
人んちを占拠しおって』
とか内心毒づいて静かにあまり見ないで通り過ぎるようにしています。 

そんな時も鳥肌がスタンダップし放題なのはどうしようもないことなのですが、毛孔が毛羽立つように総毛立つこの生理現象もキモチワルくて、『一々もう気にすんな
アタシ!』と自分に言い聞かせ、言い聞かせ、怯々とする胸を抑えて私なりに自分の中の恐怖心をなんとか手なずけようと闘ったりしているのです。
他人様からしたらそんな闘いなど『ちっちゃ…!』
と思われるかもしれない、
でもそのチッサい闘いはスケールのチッチャい私という人間にとって、とても大きな闘いなのであります。



(To be continued...)


2016年note   2021年再掲載

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