NY地下鉄トークン

『GOOD FOR ONE FARE=一回限り有効』


ニューヨークに行こうと思い立ったのは、夏だった。

体温まで奪い尽くしそうなカフェの空調ににぶるっとする。夏でも寒がり。でもノースリーブ着てしまう。肩とか肘に布がまとわりつく感じがあまり好きじゃない。

ガヤガヤした喧騒は好き。
だけど満員電車は嫌い。
昼時でごった返すこのカフェみたいに、ベタベタしない大勢の中で呼吸するのがちょうど合ってる。

「今から会いに行くんだー」
楽しそうなお喋りのひとつが耳に飛び込んできた。他人の何気ないセンテンスに反応してしまうくらい、日々物足りなくなってるということかな。

会いに行く、か…

いいなあ。見ず知らずの女子とリンクした言葉が、空色のソーダ水の中の氷みたいにぐるぐる回り始める。

岡崎先輩は、10才以上も年上の研究生で、私たちは密かに付き合っていた。NYの大学に行くと聞いた時はさすがにショックだったけど、行くなとゴネることじゃないし、でも超遠距離恋愛に未来が見えなくて、それっきり。

有志で見送りに行った時、「遊びにおいで」と言ってくれた。誰にでも言える決まり文句ではある。でも私にだけは特別な意味を含ませてくれた気がする。

ストローでちゅっ…と吸うとほの酸っぱい。もう少し刺激が欲しくて添えてあるフレッシュレモンの一片を齧ると、じわっと甘い唾液が湧いてきた。

ストローでぐるぐる回すと炭酸がピチピチ騒いで弾けていった。

「ラムネブルーおひとつで605円になりまーす」

なんとも中途半端な価格だ。財布の中を覗くと5円玉があった。少しでも小銭を減らしたい病。

「お客様? 申し訳ありませんが、これは…」

私が出したのは5円玉じゃなくて、とあるコインだった。

「すみません! 5円玉…5円玉…」

結局無いものは無い。帰り道は財布の小銭がまたがっつり増えてしまった。あーあ。
さっきのコインは、5円玉とたまに間違えてしまう。分かってても懲りずにまた財布に戻す。

5円玉よりもう少し黄色に近い、くすんだ金色。穴はくすんだ銀色で塞がっている。
これは、NY地下鉄のトークンだ。

外気の温度を取り込んで身体中に戻ってきた熱が、じんわり広がってくる。
青い空。
この空が、NYまでひとつなぎだなんて…

案外難しいことじゃないかもしれない。

会いに行こうか。
ニューヨークへ。

見上げているのは、四ツ谷の青空ではなくて、アメリカはハワードビーチ駅前の夜空だ。
空は確かに地球の裏側まで繋がってる。

「本当に1人で来れたんだねー」
「私もそう思っちゃった。初めてのひとり旅が海外なんて、無事に着いたのが奇跡的みたいな。
ねえ、着てる服ラフ過ぎたかなー、羽田で図らずもシンガポール行きに誘導されそうになっちゃった」
「女の子のひとり旅にしちゃ、構えがなさ過ぎるかもな。荷物これだけ? さて」

岡崎先輩は、私のボストンバックをひょいっと肩にかけると、沢山の人の往来の真ん中で私をハグした。

「先輩…ちょっ…」
「ん? ここはNYだよ?」
「あ…歩きましょう? 周りの邪魔かも」

四ツ谷では、オープンに手を繋ぐことも無かったのに。岡崎先輩はくすっと笑うと

「ホテル、どこだっけ?」
「あ、ホテルじゃなくて、ドミトリーなの、カトリックの」
「地図見せて? あー。地下鉄に乗って14丁目か」

手を繋いだ。

「待って、地下鉄だったら、私、持ってきた」
「何?」
「先輩からもらったお守り。トークン」

手を繋ぐのがまだ少し落ち着かなくて、いそいそと財布からコインを出して見せた。

「ほら。これ入れてゲートを抜けるんでしょ? 使ってみたい」

遊園地気分を
ククク…
先輩は笑う。

「これね。懐かしいなー。お守りなんて言ったっけ」
「うん、無事にNYに戻って来れますようにって、旅行者は1枚財布に入れて持って帰るって」
「素直だなー」
「え? でもこうして無事に」
「トークンはもうアンティークだよ。飾り物。NYもとっくにメトロカードだ」

手際よくカードをかざす岡崎先輩を見て慌ててトークンを財布に戻すと、見よう見まねで後を追いかけた。使ってみたかったな、トークン……なんて夜空の未練を断ち切るように、地下のホームに無愛想な銀色の車両が入ってくる。

「NYの地下鉄って、車両にでっかく落書きされてるのかと思ってたー」
「それって日本人がみんなサムライかニンジャだって言うようなもんじゃない?」

こうしてシートに座ると、東京メトロとなんら変わらない。肌の色も持ち物も暇つぶしの仕方がみんなまちまちで、NYの地下鉄とひとくくりにできる表現が見つからなかった。無知をさらけ出して、なんか先輩まで無愛想な話し方。

「旅慣れない女の子がさ、ノースリーブのキャミ着て夜のマンハッタンを歩くのって良くないよ」
「でもほら、あそこの人はTシャツノーブラ」

向かい斜め前のサングラスを頭にかけた相当ふくよかな中年女性なんて、白い肌に食い込むような色褪せたTシャツとショーパンだ。股を開いて何か食べて

「一緒にするな」

ブロードウェイジャンクションで乗り換える。頑張って冒険クエストこなして、こうして久しぶりに会えたのに、四ツ谷とNYを覆っていたはずのひとつなぎの空は地下に潜ればもう確かめることができなくて。

「トークンの文字、読めた?」
「え?何か書いてあったっけ」
「GOOD FOR ONE FARE」
「……1つの運賃のために、良い?」
「まあ、そういうこと。1回限り有効」

1回限り? やっぱりそうか。迷惑なんだ。もう来るなよって聞こえる。

次の駅に着いて扉が開いた途端にヒップホップが鳴り響いた。デッカいラジカセデッキを抱えたイキのいい兄ちゃんが乗ってきたんだ。

「この風景は、何年経ってもきっと変わらないなー」

先輩が苦笑した視線の先には、ラジカセの絵に赤でバッテンされた、ここならではのピクトグラムが貼ってある。
ラジカセ持込禁止なんてさすが、NY。やっとイメージ通りのものを見つけてやっと肩の力を抜いた。

「トークンはね。1回限り有効って夢を、お守りにするんだ。NYの地下鉄ってさ、GOOD FOR ONE FAREだから改札出ない限りどこまで乗ろうが1回分ってことで」
「そうか」
「だから、乗ってから行き先決めても間に合う」
「乗り越しても怒られないってことね」
「今、迷ってて」
「うん」
「こんな世間知らずの女の子がさ」
「うん」
「大して荷物も無さそうだし」
「うん」
「このまま俺んとこ来るか?」
「え…」
「なんて言いたくなった」

言いたくなった…でも言えない、つまり、岡崎先輩のとこには連れて行ってもらえない、それはつまり、

「ルームメイトがいてさ」

先輩の顔を見れずに真上の銀色の天井を見上げた。ヒップホップは誰に咎められるでもなく相変わらず大音量で車内を賑わせている。

「ユニオンスクエアだって。私もう降りなきゃ」

地上に出て空を見上げたら、この空が四ツ谷とは全く別の時間を流れる空だということを知るのだろう。

東京メトロの混雑では必死に自分の居場所を守ろうとするのに比べて、ここには私が守るべき私がいなかった。

分かっていてもやっぱり空を見上げてズーンと真下に落っこちてゆく感覚に取り込まれたかっただけなのだ。

「荷物、ありがとう」
「ドミトリーまで一緒に行くよ。迷子になるだろ?」
「大丈夫。地図持ってる」
「だから!」

大きな声を出したあたりでヒップホップの兄ちゃんは車両を降りて行った。

「そんな格好で、キョロキョロしてるのが危ないって、分かんないのか?!」

乗客が入れ替わる。ユニオンスクエアは乗り換えする人の多い駅。

うかつにも乗り過ごしてしまった。
そしたら次の駅でアップタウン行きに乗り換えないと。
最短経路で検索してたから、また調べ直さないと。

「そういうところが面倒なんだよ、なんでも自分でできます、やっちゃいます、隙だらけです、でも助けてもらわなくても平気ですって。自分で自分の責任取れる?」
「言われなくても分かってるから。衝動的に来ちゃったことは反省してる。迷惑かけてるのに、これ以上親切にされたら惨めになるし、思わせぶりなことしないで」
「思わせぶり? 勝手に勘違いしてるのは誰だよ!」

隣に座った女の人が

「ここに日本語分かる人もいるヨー」

と呟いた。その口からキムチの匂いがした。

「俺んとこに連れてく。ドミトリーには電話入れとけ。心配されるといけない」
「やだ。誰かいるんでしょ?」
「仕方ないじゃないか。お互い女を連れ込まないルールだったけどな。お前がヤケを起こす方が深刻だ」

隣の女の人は、あらあら、とまたキムチの匂いをさせた。

先輩が暮らす街、スプリングストリート駅で降り、地上に出た。通りに面して煉瓦造りの古い建物が連なる、古き良き亜米利加の風景は、まんま映画プリティーウーマンの舞台。
そのうちの1つのアパートメントから、男の人が1人出てきた。

「岡崎、ペナルティーだからな」
「ああ。悪いな、ヒロ」

さ、と促されて部屋に上がったら、入って早々靴箱がある。

「靴履いたまま部屋に上がるってのだけは、どうしても馴染めなくて」

私も先輩にならって、フラットなフロアのラグの上に靴を揃えた。

「こっち来て」
「え……?」
「2時間したらヒロが戻ってくる。早くしろ」
「え、だってそんないきなり」
「そのつもりで来たんだろ? はるばる四ツ谷くんだりから」
「ちょっ…待っ、こんなの、っ!」
「いいように勘違いしてくれたんだろうけど。俺も本当のこと言わなかったし」
「やめっ…てっ…! や、だ…!」
「ヒロには柔らかい胸が無い。まともな女の子って久しぶりだ」
「や…こわい、よ!」
「今日限り有効の夢。優しくする必要ある?」
「…っ!」
「俺、バイだよ。東京は生きにくかった」
「やだ、や、やめ…あ…」

「おいっ! 起きろっ! 寝ぼけてるのか?」

あれ? …先輩、

「疲れてんだな、もうユニオンスクエアに着くよ。降りずにこのまま俺んとこ来るか?」
「え? でも…」
「そりゃ時差あるし眠くもなるよな。でもさすがに居眠りは危険だよ。迎え間に合って良かった」

いつから寝てたんだろう。
ヒップホップの兄ちゃんが陽気に口笛吹きながら降りていってしまい、入れ替わるようにキムチの匂いのする女の人が隣に座った。乗客はガヤガヤするけどひしめくほどじゃない、個人主義の国のこの距離感は寝ぼけた頭には悪くない。

「ルームメイトがいてさ。文句言われるなー」
「ルームメイト?」
「ん? ヒロって日本人の男だよ。シェアしてるからね、お互い女連れ込まないルールで」
「そうか」

スプリングストリートの駅から出た。
NYの地下鉄が24時間動いてる理由が分かる。ここは昼も夜も、夢も現実も、混在する街だ。

「岡崎、ペナルティーだからな」
「ああ。悪いな、ヒロ」

古めかしい煉瓦造りの夜に降り立ち、空を見上げた。

「私、夢を見てた」
「だろうな」
「1回限りじゃないよ、いつも映画みたいなキレイな夢を見てたのかもしれない」
「今頃気づいた?」
「何も知らないんだなー。日本のことも、自分のことも。先輩のことだって、…でも」
「何」
「意外と後悔してない」

すると岡崎先輩の手が、
キャミの隙間からするりと滑り込んできた。…


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