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『哀れなるものたち』カエルの子はカエル

この作品は絶賛勢が語るフェミニズム、リベラリズム、ビルドゥングスロマン、人間讃歌などのポジティブパワーを確かに受け取れはする。エンパワーメント!ないい話と思って観たらいい話には見えてくる。
しかし自分はどうもそれら絶賛レビューのいくつかに引っ掛かりを覚えた。これ、そんな話なのか?
キルトの壁やダンスシーンなど好きな所はたくさんある映画だが、その違和感の方を言語化してみようと思う。結末を重視する為ネタバレあり。

ベラは圧倒的強者

「独善的で差別的な男性達の支配に抗い、主体的に肉体を使い人生を選び取り自由で自立した女性に成長していくベラに勇気を貰える」という様なセンテンスに引っ掛かりを覚えるのは、「まぁそりゃあできるでしょ彼女なら」と思えたのがまずある。

  • 傍若無人な幼児同然の振る舞いをしていながらも容姿ただ一点で一目惚れされ、裏切ってもなお想われ続けるほどの蠱惑的美女

  • 短期間で急成長できるほど学習能力が高い、地頭が良い(同じ改造をされたフェリシティーとの比較からも分かる)

  • 手順書を一読しただけで脳移植手術をやり遂げてしまうほど賢く、手先も器用

ベラは才色兼備のギフテッドであり、家はお金持ち。誰に対しても物怖じしない人一倍の自己主張の強さも先天的資質だ。こんなチートが意のままに人生を生きられるのは当たり前では。

容姿も能力も実家も平々凡々かそれ以下の人がもがいて足掻いてなんとか自由や自立を勝ち取るからこそ感動があり"勇気を貰える"んじゃないのか。

賢く美しいからこそバクスターにも大事に想われている。愚鈍なフェリシティーには無関心。マックスもダンカンもどれだけ酷いことをされても許すのは、それほど魅力的な女性だからだ。
ベラにはファム・ファタールとしての圧倒的な魅力があり彼らはベラにメロメロなので、家父長制的男性と闘うと言ってもかなりイージーモード。マーク・ラファロが全身で体現するとおりこんな"闘い"は茶番なのでは。

ベラの強者性に特に引っ掛かりを覚えずすんなり共感、同調できてしまう方はよほどのハイスペ人材なんだろうか。選ばれし方々の宴に自分はとても参加できそうにない。

"主体性"とセックスワーク

ベラは"主体的"なんだろうか。単に躾のされてない"狼に育てられた子"なんじゃないのか。
ベラは礼儀作法やマナー、社会常識、文化的ジェンダーなどを一切教育されておらず、野生そのもの。だから当然言いたい放題、思ったことは全部口に出すし、欲望のままに思いつきで行動する。旧来的女性像を強いる男性達との問答もカルチャーギャップコメディの域を出ない。

幼年~初等教育という受動的期間を終えたあとに、自分で考え自分の意思で人生を切り開くからこそ"主体性がある"と言えて、そこに価値が生まれるのではないか。その通過儀礼をすっ飛ばし持って生まれたパワーで無双してるだけの彼女を讃えるのは、主体的であることの価値を損なってやしないか。

パリでセックスワーカーとして働き始めるが、これも"主体的に肉体を使っている"と言えるのか。
ダンカンの束縛は無視して自分の意思で働き始めたが、男性のタイミングでセックスをすること、男性に選ばれる側であること、その構造は何も変わっていない。ベラがどう解釈しようが、客観的事実として彼女は受動的に肉体を使われているに過ぎない。(そもそも組織に属す労働者は従者であり、主体的に行動など出来ない)

冷静で堂々としているから"あえて選びました"感が出てるが、彼女はただ金に困って流されて手っ取り早く稼げる仕事に飛びついただけで、"主体的に選んだ"わけではなく、選ぶしかなかっただけだ。(無一文なのになぜか余裕たっぷりなのは適度な危機感を持つ為に必要な基本的教育さえ受けてないから)
財力を失ってない状態でセックスワーカーを始めたならその"主体性"にもまだ説得力はあるだろう。

時代設定が曖昧だが、昔の娼館は暴力、性病、妊娠のリスクが今より何倍も高かったはず。その闇に蓋をして"刺激的なコミュニケーションの場"としか扱わないのはフェミニズムとしても成長物語としても生ぬるいと言わざるを得ない。

それと、現代は女性にも男性のように性欲があるのは当然なこととして認知されていてそこに何の衝撃もない時代なので、性に奔放な姿を何度も映してフェミニズム!は今作る映画としては弱いし、さすがに古すぎないか。

ベラは"成長"したのか

ベラは本を読み他者と議論し教養を磨き、世界の痛みを知り社会主義的理想に目覚め目的意識を持つようになる。
考える人、社会の人としての成長は確かに見られたが、ベラが他者の気持ちを想像し優しく接する、他者を自分と同等に尊重するような描写は最後まで一切無かった。自分の冷たさを認識すら出来ていない。

友人となったハリーにも「傷ついた少年のままなのね」と余計な嫌味を言いむやみに打ちのめす。貧富の差を目の当たりにし自分が傷つくとわんわん泣き喚くが、人を傷つけたことには気づかない。

いつまで経っても自分本位で身近な人をろくに思いやれない人を「人間的に成長した」と言えるのか。
バクスターの危篤を知り急いで駆けつけるが、それも「バクスターが自分に会いたがってるだろうから」と彼の心情を想像したからではなく、会いに行かないと自分自身が落ち着かないからであって、やはりここでも「自分がそうしたいから」しかない。"心配"は思いやりではない。

ベラは"人類"に愛を向けるが、それは読んだ漫画に感化されて「世界を救うぞ!」と盛り上がってる中学生と同じ、地に足のついていない、実体のない抽象的な博愛のイメージに心酔しているに過ぎない。ナルシシズムの一種だ。世界は置いといて隣にいる人にまず優しくしなさいよ。

カエルの子はカエル

元夫ブレシントンとの結末が"哀れなるもの"の範囲を考える上で決定的だったと思う。

ブレシントンが重体となり急いで自宅に運び込み「殺してはいけない、進化させるの」と意識高いこと言うから一体何をするのかと思ったら、まさかの全裸ヤギ男性爆誕。失笑。
女が男を酷い目に遭わせて終わればガッツポーズ!な似非フェミニストが喜ぶだけの安直な着地で拍子抜けした。ランティモス流の渾身のギャグかしら。

ベラになる前の彼女は自殺するときお腹に宿る憎き夫の子をモンスターと呼んでいた。出自を知ったベラはバクスターをモンスターと呼んだ。

世界を自由に冒険し知的に洗練され人間的に大きく成長を遂げたはずのベラだったが、(脳の)実の親でもあるブレシントンから受け継いだ自分本位で残虐な性質を克服どころか自覚すらできず、モンスターと軽蔑したバクスターと同じマッドサイエンティストの道を歩む。
(医師を志すと言うが医師の職能をこんな蛮行に使いそこに反省もない彼女は既に職業倫理的に終わってる)

ロバが旅に出たところで馬になって帰ってくるわけではない
If an ass goes a-travelling, he’ll not come home a horse.

トーマス・フラー

ベラは2人のモンスター男の性質が宿る呪われた運命を変えられておらず、親の人生をなぞって終わる。"哀れなるもの"にベラが加わる。

カエルの子はカエル、モンスターの子はモンスター。バクスターは動物の脳を人に移すことまではしなかった。"進化"したのはモンスター・ベラの残酷さの方だった。

ベラは独善的で自分本位で残虐、隣人すらろくに思いやれないのに社会主義の理想を語り人類救済の大義に心酔する。
異性を愛玩動物に改造し、最後は自分より強者のいない安全な園で新たな支配者(god)として君臨する。執事のように傍らに立つ夫マックスととても対等な関係には見えない。

彼女は異性を型にはめ差別しようとはしないが、いくつもの旧来的男性、有害男性の特徴をしっかり再現してしまっている。ベラの内部から男性達がドロドロと流れ出たようなこのビジュアルもそれを表してるように見えてくる。

この作品は「女も同じことして何が悪いの!」と男性の蛮行を女性が再生産しているだけで、現代のフェミニズムとしては敗北しているのでは。

自慰に使った果物

この結末を考えていたら、初めて自慰を覚えたシーンを思い出した。「リンゴ」に違和感があった。え、入らなくない?どうやってるの?と、普通に。女性が自慰をするなら細長いもの、食卓にある果物ならバナナが自然だろうに、なぜわざわざリンゴに?(その不自然さをごまかすようにそのあとキュウリに手を伸ばす)

言わずもがなリンゴは知恵の実、人類の叡智や人の知性を象徴する果物だ。そんな六法全書の如き尊いものを性器に押し当て自慰をするなんて「知性への冒涜、茶化し」の記号的表現であると解釈できてしまう。

この点と点が繋がり、そうかこの物語はハナから「様々な経験を通し知的に成長すれば人は運命を乗り越えられる、道を切り開ける」「知性の尊さ」みたいなものを信じ切ってはいない、それらを疑い、シニカルに俯瞰する視点があったんだ、と解釈したら結末もいくらか腑に落ちた。

原作者と監督の、どこか生命を茶化したような、人を食ったような、ブラックでナンセンスなこれまでの作風からしても、こちらの解釈の方がしっくりくる。

プロデューサーから「最近はフェミニズム盛り上がってるからその要素強調したらもっとウケるよ、賞狙えるよ」と説かれたからそうしときました、という感じで監督自身はそんな建設的なメッセージやプロパガンダなどはそこまで興味がなさそう。そこ重視してたらヤギ男エンドなんて避けるでしょう。
(そうなるとプロデューサーにエマ・ストーンが入ってるのが引っ掛かるが、次回作もまたまたタッグを組むらしいし、エマもかなりのクセモノかもしれない)

哀れなる私たち

私からするとベラは「無為自然」を地で行く人で、良くも悪くも条件反射的に流れに身を任せているだけ。段違いの器量と地頭の良さ、豪胆さでたまたま運よく堕ちていかないだけで、確固たる意志を持って"人生を切り開いて"いってるわけでもない。

行動原理があるとしたら"反服従"くらいなもので、一本筋の通った思想・ポリシーなど彼女にはない。行動を評価する基準を持たないので自己矛盾にも気づかない。社会主義への傾倒もイデオロギーを初体験した10代のように一時の熱病に見える。

主体的に肉体を使いたい、自由で自立した女性になりたい、色々経験して人間的に成長したい、笑われたくない、親のようにはなりたくない…そんな意思も欲望もベラは特に持ってないだろう。

彼女は私達が囚われているものからあまりに自由だ。異様なほど。だからこそあんなにもあっけらかんとしていて、魅力的に映るのではないか。
あれこれ囚われたままの私達はただの自然現象に大仰な意味を見出し、一喜一憂することをやめられない。何もない所にさえ自分が見たいものを見る。このレビューだって同じだろう。本作は私達観客のそんな哀れなる性質をも浮かび上がらせているように思う。

兎にも角にもタイトル『Poor Things』がすべてを語っている。
人間讃歌と言ってもアッパーな感じではなく、森田芳光作品の「人間って、可笑しいね」的ニュアンスのオフビートな人間讃歌に近いのかなと思う。

ラストシーンは「ああこのなんと哀れでいて可笑しく、そして愛おしきものたち」を慈しむナマ暖かい眼差しが、何トピアだか分からないシュールな庭をやんわり包んでいるなぁと。庭の芝生はスクリーンのこちら側にも拡がっている。

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