昆虫採集

虫取りは良い思い出だ。
虫を捕るのに必死になってもなかなか捕れなかった。
遊んでもらったのかもしれない。

しかし昆虫採集となると苦い思い出が顔を出す。

虫取りと昆虫採集の違いは、採集した虫を保管するか否かだろう。
虫取りで捕った虫はせいぜい一日捕獲しておく程度で、
面倒を見きれずに放してしまうものだ。
昆虫採集は、専用のキットを使い虫を標本にして保管する。
今、昆虫採集キットが売ってあるのかはわからない。
しかし昔はのび太やカツオが夏休みにやる課題としてポピュラーだった。
俺ものび太やカツオのように昆虫採集をやって凡庸な評価が欲しかった。
馬鹿げているが、有名人に憧れるような感覚でやってみたかった。

小学校の2年か3年の時、親が昆虫採集キットを買ってきてくれた。
喜んで早速虫を採集に向かった。
狙いは蝶である。
当時は山に住んでいたので今では珍しい種類のアゲハ蝶を複数捕獲できた。

帰宅しいよいよ標本作りをしようとした時、
「かわいそうだから放してあげたら」と母が言った。
しかしのび太やカツオに憧れている小学生には字面の意味しか届かなかった。むしろ「せっかくの機会に何を言うんだろう」と思った。

防腐剤兼毒薬の入った注射針をアゲハ蝶に向けると、
必死に腰をよじって逃げようとしていた。
「ほら、逃げたがってるじゃない」と、母が最後のアドバイスをくれたが、
この時はマッドサイエンティストに近い気持ちになっている。
毒針はブスリと刺さった。

しばらくしてアゲハ蝶5種類程度の標本が完成した。
作り上げた事に満足だった。
その後の事はあまり覚えていない。
確か学校に提出して望み通り凡庸な評価をもらったはずだ。

時は流れて大人になってから、ふとあのアゲハ蝶を思い出す。
必死に腰をよじって逃げようとしていたあの姿だ。
昆虫の標本は自然科学の発展には必要である。
南方熊楠が作るのならアゲハ蝶も死ぬ意味があったのかもしれない。
しかし「のび太やカツオがやってるから」という理由の小学生に殺される理由はないだろう。今ならば母が言った言葉の意味がよくわかる。仮に同じ状況になったならば、「生きてこそ美しいしね」と注射針を捨てアゲハ蝶を放すに違いない。しかし小学生の自分にそこまで悟る事はできなかった。最後まで生きようとあがいたアゲハ蝶の映像は消したくても消せない十字架になっている。

今も地元に戻って山間地に行くとアゲハ蝶が色々と飛んでいる。
数は減っているだろうが嬉しい事だと思う。
それと同時に小学生の自分にしょうもない理由で標本にされた蝶たちを、思い出さずにはいられないのである。

#エッセイ #昆虫採集


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