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愛とか生とか死とか

2022年2月。母が亡くなった。この字面を今でも見慣れることは無い。でもいつか、生まれた時のことを覚えていないように、2歳のあのころを覚えていないように、少しずつ少しずつ思い出が風化していくのかと思うと怖い。かけてくれた言葉を、私の名前を呼ぶ声を、抱きしめてくれた手の感触を、忘れていくのが怖い。少しでも、少しでも今の思いとか愛とか生とか、はたまた死とかについて言葉で遺せたらと思う。

母とは

どこから書き始めようかな。私の母は、とてもとても強い人だった。父は単身赴任、生まれた頃から家の中にいるのは母と私と妹の3人だった。女3人、約18年間一つ屋根の下で暮らしてきた。私の母は、とてもとても強い人だった。どちらかと言えば外に出て遊び散らかすおてんばだった私とどちらかと言えば物事に慎重で優しい妹。性質の違う2人の育児をしながら、時には喧嘩をなだめ、時にはそれぞれぶつかり合い、口をきかない日もあった。父はいたけれど、ドラマで見る様な一家の大黒柱がいる家とは大違いだった。だけど。私の中でそれが今までの当たり前だった。母はとてもとても頼られる人だったので、家事育児の他に幼稚園ではママさんバレーでキャプテンを務めていたり、小中高PTAの会長をしていたり、常になにかしらの仕事を請け負っていた気がする。今思い返すと凄まじすぎるな。私ならきっと手が足りない。夜20時頃になるといつもソファで寝落ちしかけていたな。そりゃそうなる。それでも私達のことをいつもいつもしっかり見ていてくれた。テストの点数が良かった時には褒めてくれて、部活の試合がある時には現地まで見に来て応援してくれて、私が人を傷つけてしまった時は心から叱ってくれて、一緒に私が大好きなバンドのライブの遠征も付き合ってくれた。年越し深夜4時にお台場のマックで凍える思いをしながら元旦を迎えたな。ちょっと暇になった休日にふと作ってくれたクッキーの味、本当は美容師になりたかったといっていたこと、雨の日には車で学校まで送り迎えをしてくれたこと。小さい頃おなかが痛すぎて泣いていた日にさすってくれた手のひらの温度、眠れない日に瞼を撫でて寝かしつけてくれた少し乾いた指の感触、横で眠るその背中に感じた安心感、家に帰った時に、生活をしていく中で私が守られていることをずっとずっと感じていた。責任感が強くて、周りから好かれて頼られる母の姿を見てずっとそうなりたいと思っていた。今でもそう思っている。


病魔が襲う

2018年の10月。その当たり前の生活が当たり前ではないことに気づかされた。母は何日か前から胃のあたりが痛いという。私は大丈夫かなと思いつつも、一時的なものだろう、すぐに直るだろうと軽く思っていた。だって、先月には一緒に幕張にライブを見に行っていたし、文化祭だって見に来てくれていたもの。しかし、妹の”病院にいったら?”と言う声でタクシーを呼び、急遽医療センターの夜間診療へ。そこでも、私はぬるま湯に浸かりきった脳みそで胃潰瘍だとか胃に穴が空いてしまったのかもしれないだとかを思っていた。検査が終わり誰もいない夜の病院の待合室の空気を今でも肌に憶えている。”腫瘍があります”告げられたのはこの言葉だった。頭の中にはてなが浮かんで何を言われているのか全く分からなかった。”悪性か陽性か検査が必要だからこのまま検査入院するって”と母が言う。この時1番傷つき驚いていたのは母であっただろうに、少し困った様にそう話す姿に私は”わかった”と言うことしか出来なかった。突然の事態に(ああ、私がしっかりしなければいけない、生活を成り立たせていかなければいけない)とそう思った。このまま側にいたいけどそうすることは叶わず、タクシーを呼んで母のいない家へ帰ることになった。今までタクシーなんて妹と二人で使ったこともなかったから、あたふたして心の置き場所が分からずに何とも言えない気持ちで家についた。”お母さん大丈夫かな”目に涙を溜めながら妹が言う。”きっと大丈夫だよ、でももしなんかあった時にしっかりしなくちゃいけないね”そう自分に言い聞かせる様に言葉にして、その日は2人で少し泣いた。そして私は小さな決意をした。(私が泣いたら妹も不安になってしまう。だからもう泣かないようにしよう。)そこから数日後。検査入院の結果が出た。母の病名は「膵臓癌」だった。まさか、自分の母が癌を患うなんて。膵臓癌なんて小説で読んで泣いたくらいの遠い出来事だと思っていた。なんで、なんで、自分の母親じゃいけないのか。とても受け入れることは出来なかったが、その事実は変えることは出来なかった。私も妹も明日も学校はあるし、生活は続いていくのだから。

それからの生活

それから母は何週間かに入院することが決まり(退院日がずっと未定だった)、妹との2人暮らしが始まった。今まで自分のことは自分で出来るようになってきたつもりだったけど、全然出来なかった。朝6時にアラームで起きる、顔を洗ってそのままキッチンへ向かい2人分の朝ご飯とお弁当を作る。朝ご飯のメニューを毎日どう組み立てていくのか、お弁当の冷凍食品の割合はどうするのか、自分の身だしなみも整え、妹を家に残したまま7時30分には家を出る。今まで当たり前に過ごしてきた朝の時間がどれほど母に支えられてきたのかを痛いほどに感じた。当時、私は高3で妹は中3で両方が受験を控える最中だった。学校では、誰にもこのことを話せなかった。かろうじて、受験直前に母から担任には話がいっていたのかな。その時、私は地元の宮城ではなく関東の大学を志望していた。もしもこのまま関東に出ることになったら、母も妹も地元に置いていくことになる。初めはそう考えた。それでも、母は自分の病気を原因にして私が成すべきことを諦めたら、それはそれで嫌な思いをするだろうと考え、結局第1志望は変えず関東の大学を目指した。もともと関東に出るなら国立だという約束をしていたので、もちろん他の人並に受験勉強もしなければいけなかった。6限の授業終わりには友人と冷えた教室で気休めばかりのストーブを焚き、学校が閉まるまで机に向かった。それから自転車で家路につき、スーパーで今日の夕飯の食材を買って帰る。家に着いて大体20時。先に帰っている妹に迎えられ、そのままキッチンへ立つ。夕飯を作り、食べ、21時にはまた机に向かう。この時妹が皿洗いや時に洗濯をやってくれて凄く助かっていた。この生活が12月末まで続いた。当時、父は県外に勤めていたので、週末に帰ってきては家の事を手伝ってくれていた。電話や入院している病院に行った時の母は、泣いてる所など一切見せずにいつでも気丈に振舞っていた。そしていつでも私たちの心配をしてくれていた。昔は、足の太さを比べて体重を比べて言い合うことすらあったのに、少しずつ痩せていく身体が、比べるまでもなく抱きしめたら折れそうな身体がとても痛々しかった。12月上旬、手術が決まった。約1日掛かるような大きな手術だという。手術の瞬間に立ち会いたかったが、当たり前のように学校があったのでそれは叶わなかった。倫理の授業を受けながら、生とか死とかに論をつけて語っているくせになんで私は母の命に関わる現場でそばにいないのだろうと思い、誰にも分からなように歯を食いしばって少しの間だけ目を潤ませた。学校が終わって駆けつけると、ちょうど母の手術が終わったところだった。無事成功したという。ストレッチャーに横たわり運ばれて来る母の意識は朦朧としていて、言葉を上手く交わすことが出来なかった。言葉を選ばずに言えば、母が母でないように見えた。私が知っている母は、はつらつとして人をまとめて支えていく芯の強い人だから。ここまで弱りきった母を見るのが始めてで動揺してしまった。また、これは葬式の時に聞いた話だが、本当はこの手術を無事に終えて戻ってこられるかを凄く不安に思っていたらしい。私たちにそんな姿を1つも見せずにいたのに。気づけたらどれほど良かっただろう。

取り戻すように

手術が無事成功し、体力回復も万全までとは行かないが3ヶ月ぶりに母が家に帰ってくることになった。同じ家でまた一緒に暮らせること、年末にまた一緒に年を越せることが嬉しかった。癌も手術すれば治るものはあるというし、手術が無事成功したことで、家族の中でもこれからは再発に気をつけながら、またあの元気な時のように暮らしていけたらいいねということになった。私も受験本番を控え、またいつもの生活に戻れるのだと思い、母の温かさを感じながら暮らしていた。同じテレビを見て笑うし、時には喧嘩もする。私のセンター試験当日に「行ってらっしゃい、頑張って」と手を握って抱きしめてくれたことを多分忘れることはない。受験はなんとか乗り越え、関東に引っ越す時のアパート選びにもついてきてくれることになった。それからおおよそ1年半は私が思うには緩やかに緩やかに進んでいたように思う。私は大学でそれなりの不幸をかぶりながら、それなりの幸せを手に入れていた。痩せ細っていた母も年末に家に帰る頃には、顔色も良く肉付きもあのときよりは格段に良くなっていた。退院当初は、バランスを崩して転んでしまって痣ができた等という報告を受ける度にヒヤヒヤとしていたし、なんだかんだ実家が恋しかったので3ヶ月に1回くらいのペースで地元に帰省していた。2020年の9月、母と妹、私の女3人泊まりでディズニーに行こうという話になった。もともと私と妹の誕生日がある夏に毎年家族旅行でディズニーに行っていたのだが、私がバンドにハマり出したり、だんだん年を重ねていくことで家族で旅行することは無くなっていた。久々のディズニーということで奮発してディズニーホテルを予約して、新しいアトラクションにも乗って夢のような2日間を過ごした。そして、その日に告げられたのだ。”お母さん、また手術することになったんだ”と。何事かと思った。夢の国に来てこんなにショックなことがあるだろうか。それでも、私が不安そうな顔をしたり、必要以上に心配したりしたら余計に辛くなってしまうのではないかと。そして、そんな手術を控えた中で今日ここに来たことを考えると、このまま今日という日は楽しくただいい日にしたいと思った。だから、その場ではなんてことが無いように、自分の中の平常を保ちながら明るめに返したように思う。そして2日間は贅沢を思い切り味わった。母の声が残る動画や音声記録など今見返してこそ少ないが、ふと2人が電車に乗って帰る瞬間を録った動画を見返すことがある。母の声は、それこそ駅舎内の雑踏にかき消されて大きく聞こえることはないが、その動作がいつも通りで夢の日の出来事が夢ではなかったと思わせてくれる。そして、地元に二人が戻ってから手術も無事に終わり、母は通院を続けながらまたこれ以上病気が悪化しないように生活を続けた。当時、詳しくは話してくれなかったが子宮に癌が転移していた。そのため、その通院というのも抗がん剤で病気を”治す”のではなく、”抑制”しながら暮らすためのものだった。それでも、それでも続ければ症状がよくなると信じて生活を続けた。私も成人したし、そこから半年くらいたったときだった、その異変に気づいたのは。2021年7月。丁度バイトをやめて、実家に1ヶ月帰省するタイミングがあった。事前に母からは、そのタイミングで地元の近場のホテルに泊まりに出かけようと言われていた。私達が大きくなってからはそういうこともなかなかなかったから、小学校の頃に学校休んで東京までジャニーズのライブを見に行ったこと等を思い出して嬉しくなっていた。久しぶりに地元に帰って見た母の姿は大きく変わっていた。そのお腹が妊婦さんのように大きく膨らんでたのだ。「腹水」である。癌の末期患者に見られる症状で、お腹の中にあるがん細胞が炎症を起こし、血管から水分等が染み出し、腹部に溜まるという。母の症状が悪化する度に何度もその「余命」という現実を何度も顔面に突きつけられているようで苦しかった、悲しかった、無力だった。私は医者でもないし何も出来ないから。この症状のことを母に聞くと、”少しずつ病院で腹水を抜いて貰っている”という(CARTという療法です)。自分でも症例などを調べてみるも、治る症例も治らない症例も目にして、どうにか元通りになることを祈るしか出来なかった。それでもその日は折角遠出しに来ているのだから、いつもの家では味わえないようなことを存分にした。でもその当時就活インターンの最中だった私は、妹と母が近場のショッピングモールに買い物に行っている2時間を締切直前のESを書くことに必死になっていた。その時は必死だったのだろうが今考えてもどれだけ無意味なことに時間を費やしていたのだろうと思う。その時、供にいたらまた今記憶に呼び起こせる思い出が言葉がそこにあったかもしれないのに。それ以外を除けば、少し高級な中華を食べ、アフタヌーンティーを嗜み、良いホテルに泊まるという贅沢が出来た。この頃にも少し感じていたが、急に贅沢な1日だったり十何年間そのままだった実家のお風呂やトイレを急にリフォームしたり、少し高価な掃除機やストーブを購入していたりとお金の使い方が大胆になっていたように思う。自分の将来のことを考えてのことだったのかなとか少し思う。

夢か現実か

夏は終わり、秋。そういえばこの年の自分の誕生日には実家に帰っていなかった。友人と江ノ島に行き、海を見ていた時に実家から電話がかかってきたのを憶えている。ああ、帰れば良かったな。まさかもう誕生日を祝って貰うことすら出来ないとは思わなかったな。2021年9月。またしてもことは起きた。母が再び入院したのだ。妹曰く、帰り道歩いていたら急に呼吸が苦しそうになって急いで病院へ連れて行ったという。詳しい事情を聞くと、肺に水が溜まっていた。いわゆる「癌性胸水」だ。がん細胞が肺にまで広がっていた。その入院に伴い、急遽私は1週間実家に帰ることにした。妹もテスト期間であったため、家事その他をしながらインターンを受けるなどして過ごした。コロナ禍で面会もなかなか出来ないため、電話で話を聞くと私が関東に戻る前日には退院できるとのことで、一目でも顔が見られることに安心した。そして次に実家に帰ったのは2022年1月1日。録画してもらっていたCDTVを見たり、おせち料理を食べたりあくまでいつも通りに過ごせていた。母もそれ以降胸水が溜まることは無かった。腹水に関しても、月1回病院で処置して貰っていると言っていた。ただ、その通院スパンが短くなっているとも。帰省中も少しお腹が苦しそうで、”私がこっちにいる間に病院で見て貰ったら?”と伝えていた。でも、妹のセンター試験が近づいていることを危惧していたのか”うん、まだ大丈夫だから”の一点張りだった。母が無理する人だと知っていながら、どうすることもできなかった。帰省最終日、玄関先まで見送ってくれたことを憶えている。いつものように、”今度は夏かな、また帰ってくるね”と伝えて、”気をつけてね”と笑顔で見送ってくれたことを憶えている。それが母と家で会う最後の日になるなんて、少しも思わなかった。後日関東に戻ってから、連絡が来た。”腹水のため入院しました”と。私が帰省で珍しく地元にいたから病院に行かなかったのかなとかを少し考えた。それでも、妹の受験には間に合うように退院したらしい。母親が強いのかたまたま私の母の意思が強いのかは分からないが、相当無理をしていると思う。しかし、腹水も処置して貰い軽くなったようだったし、試験終了まで我慢することはなくて1度は安心した。しかし、その安心もつかの間。再び入院の連絡が来た。妹が東京に試験を受けに来る直前、腹水処置で入院したのだ。明らかにスパンが短すぎる。そう思いながらも、妹の進路を決める試験もあるし、母の代わりに会場まで送り届けるなど家のことを任せきりだった妹が東京観光できるように案内するなどをしていた。1月末のことだった。妹の状況や送り迎えに関して直接電話を通してやり取りもしていた。声は比較的元気だったし、また処置を終えて退院するのを待とうと思った。この時、私は就活の他に舞台ボランティアを行っており、2月にその本番があって忙しくしていた。5日間は会場に縛り付けられてしまうため、その前々日思い立って母に電話してみようと思った。その時は、タイミングが悪く繋がらず、翌日電話することが出来た。最近の近況報告、病院と体調は大丈夫か、ごく普通のことを話していたと記憶している。”〇〇はしっかりしているから話しておこうと思っている”私は長女だから、病状も詳しく包み隠さず教えて貰っていた。母は、妹が動揺して大きなショックを受けてしまうことを心配しているようだった。勿論、私だってショックじゃない訳ではない。それでも、母の前で泣いては元も子もないだろうと思っていた。歪みそうになる顔を押さえながら笑顔でいるように努めていた。そして笑顔であることを伝えられるよう、私は大丈夫であると伝えられるように画面のスイッチを入れてビデオ通話に切り替えた。しかし、いつもならビデオに切り替えてくれるような母も今日の画面は固まったアイコンのままだった。そして話している中で、”何もしてあげられなくてごめんね”と呟いたのだ。その声は震えていた。顔を見ることは出来なかったが、きっと泣いていたのだろう。母のそんな姿を見るのは初めてで、泣きそうだった。泣いてしまえれば良いと思った。泣いてすべてが夢だと、そう言ってしまえれば良いと思った。だけど、私はそこまで素直ではない。私は、大丈夫だと、そんなことは決してないと伝えた。だって今まで、全てを与えて貰っていたんだから。そう伝えた。多分笑顔で。多分画面には涙は写っていないはずだった。私はこの母からの言葉を生涯を忘れることは出来ないだろう。

その瞬間

それから舞台は本番まで3日に迫ったところ。私は朝の電車でも夜の電車でも訳も分からず泣いていた。ただいやな予感だけがしていたのだ。もしかしたら、母が死ぬのではないかと。ただいやな直感だけが頭の片隅から離れなかった。舞台現場二日目の夜、妹から一件のLINEが来ていた。”お母さん、体調悪いみたいだから電話してあげて”と。現場真っ只中だった私は、”今はどうしても無理だから明日かける”と伝え、母にはLINEだけ送った。その日の夜だった。父から”母の様態が悪いから地元に帰ってこられるか”と電話がきたのは。私は、明後日に本番を控えた舞台ボランティア辞めると関係者に伝え、翌日の朝一の新幹線で地元に帰った。2月11日のことだった。地元に着いて、荷物等まとめて午後1番で病院に向かうことになった。コロナ禍であったが特別に面会できるとのことだった。私は手紙を書いた。どうにか持ち直すようにと、今まで伝えられなかったことを伝えようと。本当は手紙なんか書くのはいやだったし、今までの感謝を伝えるのもいやだった。だって、そうしてしまったら母がいなくなるのを認めてしまうようだったから。病院につくと、家族一人ずつなら対面できるということになった。何を伝えたら話したら良いか分からなくなるんだな、こういうときって。母は食事も十分に取ることが出来ずに、水で口を潤すだけだった。それでもその時は、話すことが出来て食べ物は冷蔵庫に入れておいて欲しいだとか、妹の受験は今大丈夫かとかそういう話をした。本当に伝えたいことを伝えるのには時間が必要だった。便箋2枚に書き連ねた手紙は、枕元に置くだけにしようかとも思った。でも字を読むのももう辛いと以前話していたことを思い出して、手紙を読んで伝える事にした。こんなことは二分の一成人式か未だしたことはないが結婚式ぐらいだろう。こんな時でも恥ずかしくて直接母の顔を見ることが出来なかった。泣きはしなかったが、母は声を返すことはなく右手で丸を作って反応をしてくれた。ちゃんと聞こえていたのだろうか、ちゃんと届いていただろうか、ちゃんと伝わっただろうか、これを聞いて何を思っただろうか。聞きたいことは山ほどあったが、それを聞くのも違うと思ったので”また明日来るからね”と声をかけてその日は病室を出た。それが母と交わした最後の言葉だった。翌日病院から呼ばれていくと、母は呼吸も浅くもう言葉を交わせる状態ではなかったからだ。ドラマでよく見ていた。最後には別れの言葉を口にして、エンディングらしいエンディングを迎えて、残された者はその人が残した最後の言葉を胸に生きる。そんなものは現実にはない。母の最後の言葉がなんだったのかなんてもう既に思い出せない。”そこのグレープフルーツは持ち帰って”だったかもしれないし、”水は机に置いといて”だったかもしれない。その日は母の旧友にも来ていただき、その後は私と妹と父は病室へ泊まって良いということになった。もういつどうなってもおかしくはないということなのだろう。ぐしゃぐしゃに泣いた。意味が分からないと思った。昨日まで喋っていたじゃないか。1日、たった1日で、なんで。もう声をかけても声は出せない母は、瞼を動かして私達の声に反応する。そして私達は家族で写真を撮った。私達家族は家族写真というものがほとんどない。集まることも少なければ、父と母はずっと仲が良いわけではなかったからだ。それでも家族で写真が取りたかった。そして、それから結局3日間は病院に泊まった。母の耳元では昔好きだった近藤真彦やSMAPの曲を流した。好きな曲になると目を見開くことで反応していて耳がしっかり聞こえていること、好きな音楽やその思い出は体に残り続けることを知った。夜間は3人が交代で眠り母の側にいた。母に纏わる思い出を話す。その中で父は言った。”昔お母さんと二人で行った沖縄に、ずっと家族4人で旅行に行きたかったんだ”と。家庭であまり自分から何かを提案することが少なかった父だがそんなことを思っていただなんて。初めて知ったことだった。今まで知らなかった出来事を沢山知った。私は母のことを分かったつもりでいたが、知っていたのは私の母である母のことで、1人の女性としての生き方を何も知らなかったのかもしれない。そうして何回か夜が明けて朝が沈んだ。午前中数時間だけ家に戻って着替え、夜は病室で寄り添うことを繰り返した。日に日に下がる脈拍数値と、増える呼吸回数、異常数値になると鳴り出す警報音。2時間置きに計る血圧の数値の上がり下がりに心臓を縮ませる。何もない天井に向かって時折手を伸ばしては力が抜けたように下ろす母。病室に用意される簡易ベッドは硬く狭く、外に出られずに食事は病院のコンビニ飯を食べていた。2月15日。さすがに家族にも疲労が溜まってきて今日は家で眠ろうということになった。そして翌日の2月16日。病院から”血圧の数値が低くなってきているので来て欲しい”と連絡を受けた。行きの車が永遠に永く感じた。車窓から見える青に暮れる空が滲んだ。言葉が出なかった。心臓が止まるあの電子音を聞くのだけは絶対に耐えられないと思っていた。その日は、今日も病院に泊まろうとしていた。次第に下がる血圧計。何度も何度も強く母のことを呼んだ。ついに心拍数が70を切り、毎秒数値が大きく下がっていく。何度も母を呼んだ。妹は母の手を握りながら、泣きながら、叫ぶように母のことを呼んでいた。人の耳は息を引き取る最後の瞬間まで聞こえているという。”ありがとうって伝えよう”そう言って、何度も何度も何度も何度も母に”ありがとう”と”大好き”を伝えた。電子音が鳴る。画面の数値は0を表し、看護師がやってくる。それでも声を掛け続ける。何度も。何度も。すると再び画面の数値は70を叩き出し、呼吸回数は125へ、そこから異常な数値の変化。心拍が乱れていることが分かる。もう心臓を動かすのが限界なのだ。そして、再び画面の数値は0になった。電子音が真っ白な病室に響き渡った。もうその画面は変わることはなかった。母は、もともと緩和ケアを希望していた。そのため、心臓が止まっても心肺蘇生をすることはない。緩和ケアという柔らかな字面だが、その中身は想像以上に残された者に無力さを感じさせるものだった。”嘘だ...”泣いた。今まで留めていたはずの涙が溢れて止まらなかった。現実を受け入れられなかった。その一方で、その瞬間が来たことを俯瞰で見えていた自分もいたことに気づく。正直な話をすれば、ここ1週間とその心電図が乱れ続けた時が1番心を張り詰めていた。それがなくなったことと、もうどうしようもなく受け入れるしかない状況を目の当たりにさせられたことで、端から見たらその事実を受け入れている人のように振る舞えていたと思う、異常なほどに。今思えば、それは現実からただ逃げていたのだ。演じていたのだ。悲しい出来事を割り切り、受け入れ、乗り越えて進む様を。そうでもしなければ心が壊れてしまいそうだったから。だから、病院を出る時の荷物の運搬もありえないほどテキパキと行っていたし、何食わぬような顔で病院待合室で父や親戚と話していたし、笑った。母が亡くなって1時間も経っていないのに、笑っていた。思ってもいないようなことを、正論の振りをした綺麗事をつらつらと並べた。今、母の代わりになれるのは自分しかいないのだから。その気持ちが先行していたのではないかと、今考えると思う。ただ、待合室から見えた、病院をあとにする時に見えたあの満月の異様な綺麗さだけは忘れることがないだろう。

今これから愛に溢れて

その日以降、葬儀やらなんやらで本当に落ち着くことが出来たのは1週間後だった。実家で朝目覚めた時にキッチンに母がいることが当たり前だったが、そう思って起きてあとから頭が追いついてそこにいないと気づいた時に心に空いた穴を感じた。また、遺品を整理して出てくる母の文字や写真が愛しかった。ある手帳に書かれた何かの会合での祝辞。”やりたいと思うことをやってほしい、夢は変わるけどその夢を追いかけていて欲しい。”黒いボールペンで二重線を引きながら、何度も推敲された文章。思い出す”母親らしいこと、何もしてあげられなくてごめんね”という言葉。母が亡くなって約3ヶ月が経とうとする今、毎日その存在の大きさに気づかされている。その瞬間は感じなかった、感じ取れなかった悲しみだったり虚しさだったりが1人の部屋に押し寄せる。その存在がいないことにふと辛くなる。私は何のためにどう生きていくべきなのか、その指針を見失った気持ちでいる。生きることは何なのだろうか。生きることは常に死に向かって足を進めることだろうか。生と死は壮大のように見えるが全ての生きとし生けるものに約束された唯一のものだ。現時点で答えはでないが、生きることは死に方を選ぶことなのかもしれない。人生で無駄と呼べる物は何一つないはずだ。人の言葉を少し借りれば、今日の幸せが明日の悲しみへ繋ぎ、その悲しみが次の幸せを運んでくる。私はどうやって死にたいだろう。死ぬまでに何がしたいだろう。何が私の心を満たすのだろう。決められた人生など1つもない。何が大切で何がその人を形作るかなんて人それぞれだ。でも、自分の気持ちにだけは正直に生きていきたい。好きなものを全て抱きしめて生きていきたい。人生は驚くほどに短いし、その瞬間は驚く程に儚い。嫌いなものにかける時間なんて一瞬たりともないのだ。好きで満たしてそれに愛情を与え、注いで生きていくことが出来たら幸せだ。この世で何より大事なのはお金を稼ぐことでも広い土地で暮らすことでも仕事で高い名声を得ることでも多様な人脈を持つことでもない。自分の中身全てを曝け出し、自分が持つ物全てを与えたいと思うような大事な人と供に過ごすことを大事にしたい。そういう存在を多くはなくて良いけれど、少しずつ増やして大事にしていくことが出来たなら豊かな生き方かもしれないと少し考える。

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