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月額200円のコミュニティを作ろうと思ったら自作しかなかった話ーそれ哲公園についてー

本日、それ哲公園というサイトをオープンしました。

こちらのサイトは、2022年4月からSpotifyで公開している、ポッドキャスト「それ哲ラジオ」の公式コミュニティ、という位置づけです。

公開当初は単純に「哲学はおもしろい!」ということを伝えたい、という想いだけで続けていました。

ただ、100回、200回と配信を重ねる中で「もしかしたらこんなことをしたら喜んでくれる人が居るんじゃないか?」という想いが色々と湧いてきまして。

今年4月に行った「それ哲カフェ(哲学カフェ=あるテーマに対してみんなでワイワイと話す座談会のようなもの)第0回」でそのことを確信し、そこからいろいろな歯車がかみ合って、「月額200円で、それ哲ラジオを軸に交流する掲示板を主としたコミュニティサイト」というコンセプトが固まりました。

ただ、それを実際に「サイト」の形で実現するには、また別の壁がありました。

そこで、「それ哲公園」を立ち上げるまでの思考や行動を振り返りながら

・月額200円でコミュニティを立ち上げるとはどういうことか?
・「それ哲公園」とは何なのか?
・なぜ今の時代にあえて「掲示板」を重視するのか?

といったことについて、まとめていきたいと思います。

よろしければぜひ、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。


月額200円でコミュニティを立ち上げるとはどういうことか?

まず最初にお伝えしたいのが、この「月額200円のコミュニティ」ということです。

値段設定というのは、通常のビジネスでも非常に難しいものです。

高すぎれば見向きもされませんし(あえて高値を付ける場合は別ですが)、安すぎればその取り組み自体が継続できない可能性が高まります。

実際、ポッドキャストのコミュニティだと1,000円/月ぐらいの値付けが多いのではないかと思いますし、有名人のサロンのようなサービスだと3,000円とか5,000円とか、利用するのに勇気が要るものもあると思います。

だからこそ、出来るだけ金銭面で負担にならずに、気軽に参加いただけるようにしたい。

資本主義的・ビジネス的な収益性を重視するのではなく、多くの人が気兼ねなく参加でき、おだやかに過ごせる場所にしたい。

後ほど書きますが、「公園」というコンセプトからも、この方向性は外せませんでした。

「月額200円」は「コンビニのホットスナック1つ分」と考えると、「その満足度は感じていただけるはず」という確信もありました。

その意味で、値付け自体は意志の問題でしたが、実はそこから困った事態が起きてしまいました。

というのも、色々なコミュニティ運営サービスを検討していたのですが、どれも「月額500円以上のコミュニティでないとダメ」という利用制限があったのです。

当然、彼らもビジネスなので、コミュニティ運営者から「運営手数料」を受け取ることで、質の高いサービスを提供しています。

そのビジネスモデルから考えると、「月額200円のコミュニティ」というのはそもそもお客様ではない=存在できない場所である、というのは、コミュニティ立ち上げようとしている自分からすると、なかなかショッキングな事実でした。

ですが、ここで一つの閃きがやってきました。

既存のサービスを利用できないなら、自分達で作ってしまえばよいのだ、と。

その方が、本当の意味で自由に、「公園」のような気軽に使われる場ができるはずです。

ある種、「コミュニティ運営サービス」を使うことで「楽」をしようとしていた部分がどこかにあったのですが、そうではなく、自分達(兄と私)が汗をかくことで、本当に実現したい場所が実現できるのではないか?ということに、この時改めて思い至ったのです。

そこからはスムーズで(実際にはどのサービスを使うか?など色々あったのですが、それは置いといて)、「Googleサイト+Stripe+無料の掲示板」の組み合わせで、「コミュニティサイト」を作ることが決まっていきました。

当然会員登録管理機能などもないので、最初の内は手動でご登録の確認や、アクセス情報の送信などを行う予定です。

ですが、この「手動でやる」ということ自体にも意味がある。

自分達の手で、この「それ哲公園」というコミュニティ自体を育てていきたいし、あわよくばみんな(兄と私と参加いただいた皆さん)でより良い場所にしていきたい。

それが、既存サービスを使えなかったからこそ見えてきた、この「それ哲公園」の在り方でした。

この想いは、なんとなく「月額1,000円」といった値付けをしていたら、おそらく湧いてこなかったかもしれません。

なんとなくお金をいただいてしまい、結局何をお届けできているか分からないようでは、ビジネス以前に喜んでいただく運営側のスタンスとして間違いです。

今回「月額200円」という値付けに意志を持たせたからこそ、「既存のサービスが使えない=そのコミュニティは通常のビジネスにおける顧客ではない」という事実にぶつかることで

結局、自分がつくりたいコミュニティとはどういう場なのか?

に向き合うことができたのは、今から思うととても良い偶然だったと思います。

(その結果、エンジニアでも何でもないのにサイト制作を1から頑張ってくれた兄には、本当に感謝しかありません・・・!)

「それ哲公園」とは何なのか?

さて、先ほどから「それ哲公園」という言葉を当たり前のように使ってきてしまったのですが、そもそもこれは一体どんな「コミュニティ」「場所」なのか。

一言で言うと

話したいことを話しても、自分の存在が受け入れられる場所

にしていきたいと思っています。

これは、冒頭でもお伝えした「それ哲カフェ第0回」の参加者の方の言葉で、とてもクリアになりました。

その言葉は

「こんなこと、生まれて初めて話した気がします」

というもので、それが本当に嬉しかったんです。

だって、初対面・匿名・カメラオフで、zoomでたった1時間話しただけですよ?

それなのに、「それ哲ラジオを聴いている」という共通点があるだけで、「生まれて初めて」のことが話せる。

これって、凄いことが起きている、と思いました。

この辺りはサラッと書きますが、私自身、言いたいことが言えるようになったのはここ数年のことです。

それまでは

こんなことを話しても、まじめに受け止めてもらえない
期待する反応は返ってこない
むしろ「考え過ぎじゃない?」と茶化されて、距離を取られるだけだ

などなど、「伝わらないから、伝えられない」という経験から思い込んでいました。

これはもちろん、自分の伝え方が悪かった・下手だったというのもあると思うのですが、とはいえ日常の場面において、例えば「なぜいま・ここで自分が生きているという事実があるのか?」と不思議に思ったとき、パッと話せる相手も場所も無いわけです。

そんなことをしても、「自分の問いの重たさ」に付き合ってくれる人は、なかなか居ないわけです。

ですが、第0回のそれ哲カフェでは、「その人の問いの重たさに、みんなで向き合える」という手応えを感じました。

とはいえ、それを扱う場自体が「重たい」のも、それはそれで苦しいものです。

「なぜいま・ここで自分が生きているという事実があるのか?」という問いについても、「昨日、晩ご飯何食べた?」というぐらい気軽に、ふわっと、何でもないことのように話してみたいのです。

だからこそ、このコミュニティは「それ哲公園」という、非常に地味な名前になりました。

公園は、テーマパークや観光地などと違い、とても地味でありふれた存在です。

だからこそ、毎日行くこともできるし、朝に行っても夜に行っても、自分のリズムで生活に取り込むことができます。

(これは私の思い込みかもしれませんが)、テーマパークや観光地には、どちらかといえば「その場に自分を合わせる」という行為が必要な気がします。

テーマパークではそのテーマパークらしくはしゃぎ、観光地ではその土地のものを楽しまないと「いけない」気がしてきます。

ですが、公園にはそういった「いけない」はありません。

散歩をしても、走っても、誰かとおしゃべりしても、一人でベンチに座っていても、どれでも全部「公園らしい」行為です。

もちろん、「本気の球技をやっちゃだめ」とか「ごみは持ち帰ろう」といったルールはありますが、それは公共の場としてお互いの「公園らしい」を守るための、最低限のマナーです。

そんな風に、「なぜいま・ここで自分が生きているという事実があるのか?」といった類の問いも、自然にやり取りされる場が、「それ哲公園」であってほしい。

もちろん、そんなに重たい問いでなく、例えば「なんとなく元気でないんですけど、そんなときにやってることあります?」といった、「何となく気になるけれど、わざわざ誰かに尋ねたりSNSに書き込んだりするまでじゃない」みたいなことも、自然にやり取りされてほしい。

いま、一番「自分らしい」問いを、自然に発してほしい。

それを一言で表したのが

話したいことを話しても、自分の存在が受け入れられる場所

という言葉だ、と思っています。

なぜ今の時代にあえて「掲示板」を重視するのか?

上記のような流れから、「それ哲公園」のメインは「それ哲フォーラム」という「掲示板」にすることにしました。

「掲示板」は、自分がインターネットの世界に入った2000年前後は活況だったと思いますが、いまや目に触れること自体、かなり減っているはずです。

このリアルタイムコミュニケーション全盛期の時代に、ある意味時代に逆行しまくっている気はするのですが、「それ哲公園」の「自然なやり取り」を実現するには、この形が最適だ、と思いました。

なぜなら、真に公園的なやり取りとは「コミュニケーションをしてもいいし、しなくてもいい」だと思ったからです。

実際、公園に行くとだいたい誰かいますが、世間話をすることもあれば、挨拶すらしないこともあり、どちらも「自然」だと思っています。

あるいは、たまたまタイミングが重なり何度か挨拶を重ねた親子と、子ども同士場遊ぶようになる、という風に一気に距離が近づくことも「自然」です。

だからこそ、リアルタイムの「誰かが必ずリアクションを返してくれる」という場以上に、掲示板的な「1分後にレスがあるかもしれないし、1年後に誰かが見つけて反応してくれるかもしれない」といった場の方が、今の世の中において「不足しているコミュニケーション」を補ってくれるんじゃないか?と想像しています。

もちろん、自分の発信に反応がないと非常に寂しいですので、兄と私が積極的に反応をお伝えしていこう、とは思っています。

ただ、それも「やらなきゃ」と思うと急に不自然になってしまいますし、「何かアクションすれば必ずリアクションが返ってくる」というのも、それでいいんだっけ?と思う部分があります。

僕らが生きている世界には「必ず」や「絶対」というものは基本的になく、例えば「お金を払えば必ず品物が手に入る」というのは、非常に資本主義的・人工的な、限られた世界でのコミュニケーションだと感じています。

本来的には、精一杯育てた花も枯れるし、良い行いをしても得するわけではないし、伝えた愛情は返ってこないことがある。

それが現実の、僕らが生きている世界だと思います。

こうした世界が「自然」なのだとしたら、僕らが目指すコミュニケーションも、現実的には「期待したものが返ってこない」ことが含まれます。

ですがこれは、「返ってこない」だけで、「その場から排除される」わけではありません。

話したいことを話しても、自分の存在が受け入れられる場所

というのは、

話したいことを話しても、必ずいい感じに返してくれる場所

ではありません。

上手く伝えられない、表現できない、自分の問いかけが正しく受け止められない。

そういう感情も含めて、「それでもあなたという存在がいて良い」という場所。

それが「それ哲公園」であり、「あなたが自然に居られる場所」になればよいな、と思っています。
(この「自然に」という言葉にはいろいろな意味が含まれているので、それを「それ哲フォーラム」で話せたら面白そうだな・・・と思いつつ。)

そして、それを正しく味わう場として、まったくリアルタイムではない、タイムラグがある「掲示板」が、一番適切ではないか、と思うのです。

おわりに

さて、「それ哲公園」というコミュニティに関して、想いのままに書いてしまいました。

最後に少し違う角度からの話なのですが、ある会社で働いていた時、当時自分が携わっていたサービスの開発趣意書のようなものに、こんな言葉が書いてありました。
(だいぶうろ覚えなのですが、だいたいのニュアンスとして・・・)

すでに様々なものやサービスが溢れている世界に、なぜ我々はさらに新しいサービスを開発しようとしているのか?
それは無駄を増やすだけの行為ではないのか?

「それ哲公園」というコミュニティを作ろう!と思ってからも、私の中にも常にこの問いがありました。

すでに素晴らしいコミュニティやコミュニケーションの場があるのに、なんでわざわざ新しいものを立ち上げるのか。

それは世の中に無駄を生み出し、無為にリソースを消費しているだけではないか。

そんなことを考える一方で、

「だったらどうして、自分の人生はこんなにも生きづらかったのか。素晴らしいサービスは確かにくさんあるかもしれないが、私にとって、私らしい自然なコミュニケーションを取れる場が、とても限られているように感じるのはなぜなのか」

という想いも、消えることはありませんでした。

「それ哲公園」は、そんなあなたのための場です。

そのような想いを持っている方に、一人でも多く出会い、コミュニケーションを取れることを願って、このnoteを閉じようと思います。

今回も、有難うございました!

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