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交錯鉄箱


地下鉄の車内は生温い温度に満たされている。取り付けられた扇風機もぬるま湯のような酸素の少ない空気を無駄に攪拌するにすぎなかった。定期的に吹き付ける押しつけがましい風が苦手で、思わず扇風機を睨みつける。
外界の灼熱地獄を汗をかきながら必死になって通り抜けて来たうえに、芋を洗うようにごったがえす人ごみの中。ホームで苛立ちながら列車が到着するのを待ってやっとの事で車内に押し込まれるように滑り込んだ。しかし車内は気の利いた温度ではなかったのが期待外れでがっかりする羽目になった。しかも、目の前で優先席を横取りされた。私は見た目にわからない障碍者なので、メモ付きのヘルプマークを付けている。目の前にどっかりと腰を下ろしたのは明らかに健常者だった。
今日も轟音爆音の世界を少しでもマシにするために立ったままでスマホで器用に日記を書くことに集中していた。両手を空けるためにバッグを肩にかけた。
イヤフォンで不快音を相殺する周波数の音を、流しているにも関わらずそんなものは全部かき消されて、全ての音が頭に割り込んできて地響きがする。その地響きは、痛覚を刺激する無数の鋭い鋼鉄でできた矢となって耳から脳内へと貫通する。
地獄だ。かといって地上へ出てタクシーを拾うような余裕はない。都市に住んでいて高い家賃を払いながらギリギリで生活をする、派遣会社のアラサー女だからだ。
集中しよう、他のことに全神経を集中させよう!と私は心の中で必死に言い聞かせて暗示をかけようと努力していた。
スマホを取り出すと左隣におじいさんがよっこらせ、言いながらと腰掛ける。
身を細くして遠慮がちに座る仕草が、逆立つ神経をやわらげた。
他の人もこんな感じだったらどんなに心が平和になるだろうか。
人を押し退けながら正面に太った中年女性がまず荷物を置いてからドカッと尻を下ろした。二人分の席を陣取るずうずうしさに、さすがに周りの人が冷ややかな視線を送った。向かいに立っている青年が小さく舌打ちをする。だがそんなことは全く気にならない様子の中年女性は「はあ、暑い、暑い。」と独り言をつぶやいて、手に持った扇子をパタパタと仰いだ。買い物袋を山のように持っていて、有名デパートの持ちきれないほどのたくさんの紙袋が床に並んでいた。お願いだから脚を閉じてくれないかな。中年女性はスカートからにょきっと太い足を出して開き気味だった。見たくもないものに目が行ってしまうのが少々不愉快だ。
列車は中に閉じ込められた人々の様子に関係なく各駅に停車、発車を淡々と繰り返していた。
座席の構造上、普通に座っていれば絶対に進行方向に向くことができない。横に高速移動していることに皆、違和感を感じないのが不思議だ。
大体人間は電車や車や飛行機などで、時速なん十キロや何百キロというスピードでそんなに長い距離をたった一日で移動する必要が本当にあるのだろうか。
今までは当たり前で疑いもしなかったこんな疑問が私の頭の中をぐるぐるととめどなく駆け巡る。車内の9割以上は鉄箱の中で何の疑問も抱かずに、手にした四角い板ばかりを、必死に見つめていじってばかりいる。四角い板そんなものを持たされて私たちは寧ろ自由がなくなった。こんなものに支配されて幸福なんだろうか。車内に閉じ込められた体とは別に、意識もまた四角い板のラビリンスに閉じ込められて出られない。誰も危機感をは持ってない。それが急にこわくてたまらなくなってきた。
ふと右肩に何かが触れた。
綺麗な栗色の髪をした若い女の子が居眠りで船を漕いでいる。かすかにシャンプーのさわやかな香りが鼻をかすめる。
もう少しで頭がわたしの肩に乗っかりそうた。

すると突然、目の前の景色に変化が起こり、空気が入れ替わったように清浄になったのだ。わたしは正面に映る自分の姿を探したが何処にもいない。
そんなはずはない、と目を擦りながら再確認した。隣の女性はたしかに存在している。しかし隣にいるはずのわたしの席には見知らぬ男性が座っていた。
わたしはイケているメンズに変化していたのだ。
男性化した私の肩に、居眠りで舟をこいでいた彼女の小さな頭が乗っかった、と思った瞬間。反射的に彼女は目を覚まして我に返り、恥ずかしそうにしてしばらくあたりをキョロキョロとうかがっていた。しかし少しするとまたウトウトしている。長い髪を毛先だけカールさせて、それがブラウスに品よくかかっている。スカートは夏らしいグリーンの薄い生地で、下着が透けて見えないように二重になっているらしかった。綺麗な足に履かれたベージュ色の品のよいパンプス。
細いなあ、何もかも。
手首なんか折れそうなくらい細い。
それを引っ掴んでそのまま次の駅で降り、て二人でどっかにエスケープしてしまおうか。
この世界では自分は清潔感ある美形男子なんだから、突然の思い切った行動にも多少は大目に見てくれるかもしれないな。
などと想像を巡らせていると、駅名を伝えるアナウンスの声に彼女はハッと目を覚まし、ひざ元にあるバッグを抱えなおした。ああ、ここで男性化したわたしの妄想ゲームは終わりを告げるのか。
電車はゆっくりと速度を落とし、そして止まるべき定位置に停車した。
プシューっと自動ドアが開く。
彼女はバッグをしっかりと手にしてさっさと電車を降りた。もうすぐでドアが閉まりそう。と、思ったその瞬間にわたしは閉じかけのドアをすり抜けてホームに降り立った。
彼女の後をつけてみよう。男性化した私の中のわたしは全く躊躇なくそう思った。自分が仕掛けるただのゲームだ。電車で隣り合わせただけのなんの関係性もない女性の後ろを、妄想の中で芽生えた人格がつけていくという奇妙な行為に、わたしは少しだけわくわくしていた。意外にも彼女は歩くスピードがとても速く、まるで魚のようにするすると人ごみの中を泳いでいく。ついていくのに精いっぱいで、気を抜いた瞬間に見失ってしまい、わたしはあせった。すると前方に薄いグリーンのスカートがひらめくのが目に映った。それを目印にして慌てて追いかけていく。
改札を抜けて彼女はエスカレーターに乗り、わたしはそのあとにつづく。地上は人でごったがえしていたが今度は見失わないようにつけていった。ちょっとした探偵ごっこにスリルを感じてワクワクと胸が躍る。10分ほど歩いていっただろうか。細い路地に彼女は入っていったので周りの様子をうかがいながら、そっとついていった。
彼女が入っていった建物を見て偶然の一致にわたしは愕然とした。
そこは昔わたしが住んでいた築50年の木造ぼろアパートだった。見ると中からは灯りがもれていて、誰かと楽しそうにはしゃいでいる声が聞こえてきた。少なくとも数人はいる。わたしが住んでいたのは一人用のワンルームだったはずなんだが。家に入っていった彼女は確かに一人だった。

ここでハッと我に返った。目の前には普段通りスマホに必死になってのぞき込んでいる人たちがずらっと並んで座っていた。
景色はさっきまでの電車内に逆戻りしていた。わたしは別の世界線上にワープしていたのかもしれない。それほど目にした光景がリアルだったのだ。そんな取り留めのないことばかり考えていたら、わたしの降りる駅名を告げるアナウンスの声が響いてきた。
降りて颯爽と歩く人。
疲れてしまった。しかしぐずぐずしていると電車はまた次の駅へと動き出してしまう。疲れてしまった。そのまま座っていたかった。
何だか猛烈な虚脱感が襲いかかり、それに逆らうようにわたしは人の流れの最後尾について列車を降りた。ホームには甲高い注意喚起の音とうるさすぎるアナウンスと、鉄箱が走り出す轟音が鳴り響き耳をつんざく。もう痛いうるさいと思う気力すらなくなっていた。そんな自分を励ますように、エスカレーターではなく階段をリズムをつけながら勢いよく上っていった。

地上に這い出すと空には、まばらな星が遠く本当に遠く無数に瞬いていた。





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