見出し画像

【日記】ニューエラ

最近、ニューエラの帽子がなんだか似合わなくなってきて若干悲しい。
二週間くらい前に新しいのを買ったばかりなのに。

32歳なので、ニューエラはなんだか無理している感があるのかも。
ニューエラの帽子なんて20代の為に存在するものなのだろうか。
私の陰キャだった歴史を大人になってニューエラを被って取り戻そうとしている元陰キャ感がぬぐえない。

おしゃれとはいったいなんなのだろう。
自分は上下GUを着るととんでもない既視感に襲われるし、ポールスミスのコートとポールスミスのマフラーを合わせたところでお洒落になる訳でもない。かといって、GUとポールスミスをミックスさせてバランスをとってもオシャレになるとは限らない。

靴を磨いて髪をヘアオイルなどでセットしても、同じである。
結局、このスカスカな気持ちは何も変わらない。

革のローファーが好きとか、この香水が好きとか、そういう自分が好きだから使っているもので全身固めると楽しいし気分も上がる。
革のタッセルローファーは32歳でもまだ全然いけるが、ニューエラが厳しくなってきた。という…これはいけるけど、これは。。みたいなのが発生してくるのは、なかなかの喪失感である。

ニューエラのあの丸いシールのついた帽子を初めて見たのは、多分今から7年くらい前だったと思う。今でこそ、一回コンビニに行って帰って来るだけで確実に一人は被っているレベルで浸透しているが、7年くらい前はむしろ「何そのシール?」みたいな感じだった。
そういう、まだ流行っていない段階で「これよくね?」と思って、シールをついたまま被っておしゃれをした初期の少数派の人はすごいと思う。
ファッションにおいて「これやってみよう」というのを見つけられる人の勇気というか感覚は本当に尊敬する。

自分はただ売られているものを買って、適当に組み合わせるだけで、そこそこ有名なものを買うことで心理的安心も買っているようなものなので、「これよくね?」と思って何かを着たりするセンスが存在しない。
イソップがお洒落そうという超絶ふわっとしたイメージだけでイソップのハンドソープを買っておしゃれになったとはギリ勘違いしない程度のIQしかない。

だんだんだんだん、大人になってしまうと社会的にキモい思われないようなマナーとして髪をセットしたり、靴を磨いたりしているニュアンスが強くなってきていて、そっちが優勢になった状態だからとんでもなくスカスカに感じるのかもしれない。

ここでも一人称を私にして僕とか俺とかにしないのも、そういうマナーというか、意識が働いている。でも私の心の中の本当の一人称は確実に「俺」である。
その俺感の片鱗もなくただ社会性と年相応さに包まれたくない。という平凡な反発精神から生まれた「ハズシとしてのニューエラ」は思考の変遷が浅すぎてダサく見えるというか、今の自分にキツく見えるのかもしれない。
やはり、もう2~3ステップ、社会性、年齢に対する反発→一旦受け入れた体のフォーマルさを装う→1アイテムだけ外す……というそれなりのロジックがなければおしゃれにはなれないのだろうか。

これを書きながら思うのは、私の場合は、靴なり帽子なりのそのもののデザインとか形が本当に心から好きで、客観的に見てもある程度それが似合っているのなら、惜しみなくそれを着ればいいと思う。
のびのびと楽しむものだと思うから。

ただ、20代はそれでOKでもなんか30代はちょっと違うゾーンに来た感じがして、32歳の今どう対処すべきか完全に不明な状態である。
とりあえずローファーを磨くのは楽しい。


小説を書きまくってます。応援してくれると嬉しいです。