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素敵さを、お手本にして。

こんな風に書いたら、随分暗いなぁと思われてしまうかもしれないけれど。昔から、誰かと過ごした後はいつもちょっと切ないような気持ちになります。もっと一緒にいたい恋しさとか、楽しい時間が終わった寂しさとはまた別の切ない気持ち。この気持ちについて話すのは、今日が初めてです。話してみたら意外と「わかるわかる」ってなるのかもしれないし、やっぱり「どうして?」って首を傾げられるかもしれませんね。

この日記を読んでくれている皆さんは、どうでしょうか。

私はそういう気持ちをこっそり抱えたまま、30歳になってしまいました。できるなら手放してもっとカラッと生きたかったのですが、できませんでした。もちろん、毎回のことではなくて。ちょっとしたお喋りの後で切なくなることはないし、仕事の会話も別です。切なく感じるのは、決まって誰かとゆっくり話したとき。その人にあって自分にないものに気づくとき。そして、憧れるとき。切なさの理由に気が付いたのは、わりと最近のことです。

20代の終わりにひとりだけ、切なくならない人を見つけました。その人とはいつもゆっくり話したのに、帰り道はいつも温かい気持ちになりました。私にとっての、ちょっとした発見。大抵の気持ちを話せる人だったけど、切なさのことも、そうならないことも、伝えたことはありません。伝えていたら頷いてくれたと思うし、わかってはもらえなくても一緒に考えてくれた気がします。せっかくなら、話してみたらよかった。いつかまた、そういうひとに出会えたら、伝えられるときに伝えてみたいです。


この頃、いい影響を受けている人がいます。気配りや、態度や、明るさ。素敵だなと思うところがあまりにもたくさんあって、私はただただ感心してばかり。ついつい「こういうところが素敵だね」と伝えてしまうのですが、さらっと流れていく感じがします。本音だって伝わっていたらいいな。でもまぁ、どっちでもいっか。

素敵だなと思う気持ちと、やっぱり切なくなる気持ち。最初はその2つでいっぱいでしたが、最近ちょっと新しい気持ちに出会いました。「同じようにはなれないけど、見習いたい。ちょっとだけ、近づいてみたい」。

同じじゃなくていいから、素敵だなと思うところをお手本にして取り入れてみたらいい。違うところにいるんだって線を引いてしまうのは、悲しいです。比べるよりも、憧れを。足りないと思うことと、憧れることって根本的な部分は似ているのではないでしょうか。根っこの部分が同じなら、明るいほうに向かっていきたい。今は、そんな風に思います。

書きながらはっとしたのですが、同じにはなれないと思うのは、このままの自分でいたい部分があるからなのかもしれませんね。手放したくても手放せないものは、大事にしていい部分なのかもしれません。都合よく考え過ぎでしょうか。でも、もっとカラッと飄々とした私になれていたなら、きっとここで文章を書いていなかったと思います。そして私は、文章を書いている私が好きです。


素敵だなと思うひと。いつでもニコニコ朗らかに笑っているひと。周りに明るさをもたらしてくれるひと。ありったけの優しさで迎えてくれるひと。身の回りを心地よく整えているひと。空気をほっと柔らかくしてくれるひと。コツコツと丁寧に仕事をするひと。

素敵だなと思った習慣。春分を軸に目標を立てて暮らすこと。「果物は食べられますか?」と聞かれたら「はい」ではなく「大好きです」と答えること。早起きして日記を書くこと。庭の花を摘んできて好きな花瓶に活けること。晴れの日も雨の日も同じ時間に散歩すること。

いつか振り返った時に、ちょっといい感じの自分になっていられるように。春分を軸にするって習慣を真似して、夏至の日を振り返る日にしてみようかなと思います。ちょうど今年の夏至の日は、頭の中でなりたい自分について考えていたし、一年の中でも特に大好きな日なので。

今日の写真は、素敵なご夫婦のところへお邪魔したときいただいたほかほかのフォカッチャ。私も誰かが遊びに来てくれるとき、焼きたての何かを用意して待っていられるひとになりたいです。

雨の音がする夜に、ちょっぴり眠たい頭で書きました。隣には、水出しコーヒー。眠たげな文章になっていませんように。


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