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アマンフロムで感じた生と死について

滞在していたアマンフロムでは、生と死が巡っていた。


最近赤ちゃんを抱っこすることなんてなくて、別に抱っこしたいとも思ってなかったけど、アマンフロムで赤ちゃんを抱っこしたことが私の中ですごくすごく大きな出来事だった。

赤ちゃんからは生のエネルギーをとてつもなく感じる。
彼女はただ生きている。生きるために生きている。生きることに一生懸命だ。だから、何にも埋もれていないピュアな生のエネルギーが彼女の全身から溢れていた。

私たちは大人になるにつれて、そのエネルギーが少しずつ薄れていく。埋もれていく。吸い取られていく。もちろん、死に近づいていっているということもあると思うが、人間関係、お金、仕事・・・生きることの付随品に生のエネルギーを吸い取られているのではないか。

でも赤ちゃんは、お金も仕事も、この世界のことを何も知らない。
でも彼女は一番大事なことを知っている。生きること。
私たちがおろそかにしている生きることを、彼女は誰よりも全うしている気がした。

私は生きることを全うできているかな。この世界に生きていることを全身で嚙み締めているのかな。目の前のこと、仕事、責任、役職に埋もれて私は生きることにちゃんと向き合えてるのかな。
私たちは生きているだけで素晴らしくて愛おしい。それで十分じゃないか。


あかちゃんの目はまっすぐで、透き通っていて、彼女の目にはこの世界がどんな風に見えているんだろう。私と見ている世界は同じだけれど、きっと全く違う世界が、色眼鏡のない透き通った彼女の目には見えているんだろう。

そんな思いが湧いて、

あなたの目のように、この世界は美しくてきれいなものばかりじゃない。
でもあなたはこの世界に生を受けて、生まれてきたのね。
この世界で生きることに苦しくなったり、絶望したりすることもあるかもしれない。でも、彼女の幸多き人生を心から願いたいと思った。

そんな想いで私の心のコップはいっぱいになって、彼女のことがすごくすごく愛おしくて、決してきれいなものだけじゃないこの世界ごと彼女をぎゅっと抱きしめたくなった。

言ってしまえば赤の他人で、会って5分も経ってない彼女に私はこれだけ感情が湧いて、愛おしく思った。いわゆる母性本能っていうやつかもしれないけど、血がつながっているとか他人だとかそんなの関係なくて、私たちはこの同じ地球に生まれた大きな大きな家族で、決して他人じゃない。

でも一方で、これが自分のお腹の中から生まれてきた子だったら、感じる愛はとてつもないものになるんだろうと思った。
今まで子供が欲しいなんて思ったことがなかったけれど、こんな幸せを感じられるんだなと私の価値観に大きな変化を与えてくれた。


ガーナのお葬式は日本と全く違う。

まず、看板を作り約一か月かけてお葬式を周知する。

ガーナで見た中で最大級のお葬式の看板

そして3日間にわたるお葬式では、アフリカ布で作ったドレスを身にまとった村人が、バンドの音楽とともに踊り狂いながら、この世を生き切った故人を讃え、祝福し、新たな人生に送り出す。

私がアマンフロムに滞在していた時にちょうどお葬式があり、1日目は白と黒、2日目は赤と黒のドレスを身にまとった村人の中に私も入って一緒に踊り、歌った。

外にテントを張ってお葬式会場に

ガーナでは、『死』は決して終わりではなく、次の新たな人生へのスタートに過ぎない。お葬式に参加している人の穏やかな笑顔からそんなガーナの死生観が滲み出ていた。

その光景を見たときに、

“ あぁ、私もこんな死に方をしたい ”

と思った。今までは、私が死ぬときに周りの人が泣いてくれるような人生を生きたいと思っていた。

でも、こうやって周りの人が、自分がこの生を生き切ったことを讃え、祝福してくれながら次の人生に進むことほど幸せなことはない。

死は決して悲しくて、苦しくて、怖いものではなく、一つの区切りであり、生きてきたから死があるわけで、死は自分が生きてきたことの何よりの証。


この村で巡っていた生と死は、幸せなエネルギーを放っていた。

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