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「場面緘黙の当事者研究のやり方研究」発表報告

2020年1月11日(土)「第2回東海当事者研究交流集会(名古屋市南医療生協病院)」にて登壇発表を行いました。
テーマは「場面緘黙(ばめんかんもく)の当事者研究のやり方研究」です。
今回、当日の発言内容を書き起こしました。
また、文末に気付き、今後の課題についてまとめました。

       (発表)

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●自己紹介
私たちは、今回「場面緘黙の当事者研究のやり方研究」をしてみました。
私は場面緘黙の経験者なんですけれど、場面緘黙というのは家では普通に話すことができるんですけども、幼稚園や学校に行くとほとんど話せなくなってしまう不安障害です。学校では話せるが家では話せない人とか、家族でも話せない人もいます。私は幼稚園や学校ではしゃべれなくて、家では別人のようにしゃべりまくるというのが幼稚園に入ってから大学に入るまで続いていて、今もその後遺症みたいなものもありまして、「かんもくの声」という活動名で場面緘黙を知ってもらう活動などをしています。

●「自分自身で、共に」のむずかしさ
当事者研究を少しずつやっていたんですけども、場面緘黙の当事者研究が、「なんだかうまくいかないな」という苦労がずっとありました。
何でうまくいかないのかな、向いてないのかなとか思っていたんですけども、やはり話したくても話せない症状もあるので「自分自身で」、個人で当事者研究をして、それを発表するということはできていたんですけども、誰かと「共に」という部分が少し難しくて、他の場面緘黙の当事者の人たちと当事者研究してみたいと思っていたんですけども、なかなか上手くいかなかったです。
対人緊張が強いので参加者も集まりにくいですし、発言や進行、発表も難しいですし、ライブ感のある当事者研究もできないです。対面でのコミュニケーションにめちゃくちゃエネルギーが必要なので、どうしたら場面緘黙の人でも「共に」当事者研究ができるのかという方法をふたつ考えてみました。

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●クローサー/Twitter
場面緘黙の人には、ほとんどの人とは話せないんですけれども、この人とは話せるという限られた安心できる存在がいる場合が多いです。それを「クローサー(closer)」と呼ぶことにしました。そのクローサーでもありパートナーでもあり自分が一番信頼している人と、まず「当事者研究のやり方研究」をしてみました。テーマ設定をしてみることからやってみたんですけども、こちらがミーティングした時の資料です。

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それで、場面緘黙でも楽に当事者研究できる、ふたつの方法を考えました。ひとつは対面の当事者研究に参加する時や、文字のやり取りで当事者研究をするときに、この非当事者であるクローサーと一緒にワンセットで当事者研究をすること。

今もそう。

そうですね。今も一緒に、発表までの段階も、今回一緒に行っています。
もうひとつの方法は Twitter です。対面ではなく文字でのやり取りならできる場合もあるので。場面緘黙の症状に困らずコミュニケーションできる工夫として Twitter で当事者研究をやってみようと思いました。

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ただ場面緘黙だと自己表現全般が難しくなるので Twitter でも発言できない人もいるので、そういう人を排除しないやり方もまた考えていきたいんですけれども、今回はこのふたつの方法でやってみました。

このクローサーというのは場面緘黙の人にとって自分を補完する存在としての他者という側面もあるので、理解者だからこその代弁者なんですけれども、それで距離が近いので共依存的な存在にもなりやすいと思います。私にとってはそういう感じです。今回はテーマ設定から発表の段階まで一緒に行ってみました。

 まず Twitter の当事者研究を始めるときに不特定多数に呼びかけるのがすごく負担で。 SNS でも対人緊張みたいなものが出て、話してる様子とか話の内容とか見られる嫌悪感が強いので、全然 Twitter で当事者研究やろうって呼びかけることができなくて。そしたら「早く!」という励ましとか声かけとかあったんですけども、自分の場合、SNSで呼びかけることや仕切っていくことは全然やりたくないことなのでもめたんですけども、本心ではやりたいので、もめたこともあって時間はかかったんですけども、最終的にはTwitterで当事者研究することができました。

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緘黙の人にとって命綱くらい SNS とか文字のやり取りが大切なツールであることがあって、苦手は苦手なんですけども、これがあることで誰ともコミュニケーション取れないというところから、誰かとコミュニケーションとれる世界に生きることができる、それぐらい他の人と違う切実な意味を持っているツールが SNS かなと思っています。

 Twitter で当事者研究することで、初めて「共に」ができた感じがあって、実際にこの「#かんもくの当事者研究」「#話しやすいとき話せるとき」というハッシュタグでやってみました。 Twitter 上でこのハッシュタグで見てもらえたら研究のプロセスを追ってもらえると思います。この研究で出た考察は「見通しが安心を保証してくれるとき私たちは話せる」というものでした。最初はあまり参加してくれる人がいなかったんですけども、Twitter はオープンな場所であるにも関わらず、「事前に私も参加してみたいのでよろしくお願いします」という個人メッセージが2、3人から来まして、それからその人たちが参加してきて、それを見た人たちがまた参加してきて、最終的に10人ぐらいの人が Twitter の当事者研究に参加してくれました。参加してもよいかどうか、見つけてもらえるかどうか、どのように進むのか分からない、そういった不安があるのかなと感じました。

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途中で研究フローを投稿したりして、見通しがつき始めたあたりから参加者が増えてきたので、考察通り見通しがつくと参加しやすいのかなと思いました。Twitter での当事者研究のテーマや考察は、場面緘黙の当事者研究がうまくいかないという分析とも重なりました。こちらが Twitter で当事者研究をした時の板書風の紙です。これも画像を Twitter に流しました。

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 Twitter で当事者研究をすると匿名性の安心があるんですけども、オープンというところが不安の要素でもあって、先ほどの発表で「当事者研究の危険性」という話があったんですけども、場面緘黙というのは危険性を感じやすい人たちなので、ある程度クローズの少人数でやることで、知っている人同士少人数だと雰囲気の見通しもつくので、そういう安心できる環境で行った後に全員の承諾を得て公開する方が安全安心を保てるやり方だと。今度はその方法も行ってみたいと思いました。その場合 LINE グループなどでクローズにしてもよいと思いますし、対面でやる場合はクローサーが付き添うことで発言するときの負担が減るのかなと思いました。マイクを交代します。

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●クローサーの当事者研究
私からは、クローサーということについて、考えたこと、気づいたことを発表します。
時間も限られているんで、急いでいきたいと思いますんで、詳しくはポスター発表をご覧いただければと思います。

もともと6年ぐらいこういう活動を一緒にしているんですが、ずっとジレンマというか、モヤモヤがあって、自分は場面緘黙ではないので、緘黙の当事者活動を一緒にすること、非当事者が当事者活動をするというスタンスが、座りが悪いというか居心地が悪い感じがしていました。横にいても支援者なのか、活動をサポートしてる人なのか、「かんもくの声」の中の人なのか、どうなんだろうなという感覚が、ずっとモヤモヤありました。
さっきも発言がありましたけど、Twitter で当事者研究を始めるにあたってバトルが起こったりとかも、そういうことのひとつです。

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個人的に最近気がついたことがあるんですが、飲食店に行ったときにどうしても注文役になるんですね。まあそれはそれでいいんですけど、何かこうふたりの仲が険悪だったりとか、自分の体調が悪くて疲れていたりするときは、普段どうでもいい注文役がすごく億劫になったり、「なんで自分ばっかり」っていう風になったりします。

あと、最近一人でとある会合に行く機会があって、打ち上げにも参加したんですけど、ふたりで参加してるときよりもひとりで参加してるときの方が、しゃべりにくいということに気がつきました。
たまたまそこに居合わせた仲のよい、気心の知れた友人がいたんですけど、その人の隣にいたりとか、影に隠れていたときの方が自分が安心するという、変な感覚を覚えました。なんか自分が緘黙で友人がクローサーなんじゃないかという、変な逆転の気付きがありました。
今言った、社交性の場面でこそ自分を閉じちゃうっていう、ある意味「遮光性」というのは、まさにそれは自分が緘黙的だったんじゃないかっていうことを思いました。

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クローサーという人格を発明したことによって、これで大手を振って「かんもくの声」の一員として語ることができる存在になったと思ったんですけど、それは自分を語らなくていい安心感だったんだなっていうことに、同時に気が付きました。だからこそ、クローサーこそ当事者研究が必要なんじゃないかなと思ってます。

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さっきのエピソードからクローサーにおける緘黙性って思ったんですけども、この仮説も言ってみればあやしくて、これってつまり自分はクローサーという殻に閉じこもったり、陰に隠れて、自分を主語にしたつもりが、自分の自己病名がつけられない病気なんじゃないかなということを、昨日の夕方ぐらいに「これだったんだ!」ってひらめいたら、隣から「私もそうだ、そうだったんだ!」っていうことを言ってたんで、マイクを交代します。

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●当事者研究の夜明け
以前、向谷地生良さんが名古屋にいらっしゃったときに、ふたりとも自己病名がつけられないという話をしたことがあって、何でかなと思ったんですけども、自分も緘黙の啓発をしなきゃっていう気持ちもあると思うんですけども、私ではなく、場面緘黙の当事者全体を主語にした当事者研究を考えていて、なんか頭でっかちで、「頭じゃなくて体でやる」っていう当事者研究が全然できていなくて、「私を主語にできない病」というのが、これが本当の私が場面緘黙の当事者研究がうまくいかない理由だったんじゃないのかなってことが分かってきて、それがなんかこう、これからやっと私たちが当事者研究を出来るようになるんじゃないかなという最後の気付きでした。

そう。つまり最初に戻るんですけども「当事者研究の夜明け」ということで、「かんもくの声の当事者研究」ではなくて、ふたりそれぞれの当事者研究のエピソードゼロがようやく始まったんだという気付きでした。

そうですね。あとポスターがあるので気軽に声をかけてくださると嬉しいです。ありがとうございました。

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(終了)

●まとめ
あらためて発表内容を振り返ってみると、意図せず「クローサーの当事者研究」と、「当事者活動者の当事者研究」が立ち上がったように思いました。それらが、私(たち)自身の当事者研究と絡み合っていたようです。

場面緘黙におけるクローサーについては、今回発表のために独自に定義しましたが、場面緘黙の認知度が未だ低いことを鑑みると、その存在の認知度もかなり低いと思われます。潜在的にクローサーとしての苦労は必ず世にあるはずですし、当事者研究の必要性は意義深いと思います。通常は、家族、兄弟姉妹、友人、パートナーがクローサーとなるケースが多く、家族としての関係性、支援的関わりや共依存などの問題もはらんでおり、さまざまな苦労がしのばれます。また、当事者活動者(何らかの障害などの当事者活動をする人)が自分自身の苦労を語る前に、当事者全体の苦労を語ってしまうことは起こりがちなのではないでしょうか。しかし、発表後に向谷地さんがおっしゃってくださったように、前提として、当事者研究は、何かのため、誰かのためにするものではないはずです。当事者活動が生きがいやアイデンティティになり過ぎてはいないか。自問自答してきたつもりではありますが、役割に飲まれていた面、役割に隠してきた面があるのだと思います。私を主語にして苦労を語ることの難しさをあらためて実感しました。

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当日、他の発表では「当事者研究の危険性」といったお話が出ました。その発表にも影響を受けて振り返ってみると、オンライン、オフラインに関わらず、当事者研究がオープン/クローズであることのメリット、デメリットはそれぞれあると感じます。オープン=参加者の流動性が高く、多様な人たちが集まる危険性はあるが、研究の発展性もある。匿名にすることで、発言しやすくなる。当事者研究を知らない人に、知ってもらうことができる。クローズ=参加者同士、顔が見える。表情、声色などの雰囲気が伝わる。プライバシーが守られる(フロアルールは必要)。未知のノイズが少ないため安心感はあるが、参加者の流動性が低いため、研究の発展性が薄いのではないか、などです。

ちなみに、「自己病名をつける」「自分自身で、共に」「研究は頭でしない、身体でする」は、当事者研究発祥「べてるの家」の当事者研究の方法・理念のひとつです。
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また、今回の発表で触れられなかった(紀要には掲載)「共依存の良い面を採用する」点においては、場面緘黙の(元)当事者とクローサーのふたりで、「クローサーの共同研究」を行っていきたいと思います。そして、役割や貢献ではない各人の苦労の当事者研究も引き続き行っていければと思います。

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