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百人一首で伸ばす読解力講座第7回:「あまのはら」(安倍仲麿)

今回は遣唐使として若い時に唐の国(中国)に渡りながら、69歳で亡くなるまでとうとう日本に帰って来られなかった安倍仲麻呂の歌です。

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

 【現代語訳】広い大空を仰ぎ眺めてみると(月が出ているが、それは)春日にある三笠山に出ていた月(と同じ月)なのだなあ。

この歌は唐の国からいよいよ日本に帰れるとなって、唐の人々が開いてくれた送別の宴で仲麿が詠んだ歌です。しかし、結局仲麿はこのときには帰りの船が難破してしまい唐に戻ることになってしまいます。そんなこの歌のドラマを思うと、寂しいような悲しいような気分になりますが、ただこの歌の時はまだ帰る気まんまんだったのでしょうから、もしかしたら「どこで見ても月は月だなあ」と感動しているのかもしれません。また「天の原ふりさけ見れば」にはどこか伸び伸びした雰囲気もありますよね。

さて、唐の詩人・李白の作った詩に「静夜思」という題の詩があります。

(読み下し文)牀前月光を看(み)る 疑ふらくは是れ地上の霜かと 頭(こうべ)を挙げて山月を望み 頭を低(た)れて故郷を思ふ
(和訳)寝床に差し込む月光を見た。あまりに明るいので地上に降りた霜かと思った。頭を上げて外の山や月を眺めると、頭が下がってしまい故郷のことを思い出した。

李白は(山や)月を見て、故郷のことを思い出します。ああ、故郷と同じ月だなあ、と。そして「頭をたれて」しまう。明らかに望郷の思いで涙をこぼしてしまっていますよね。故郷でのいろいろな記憶を思い出しているのでしょう。そして、李白と仲麿は唐で親交があったのだそうです。

そう考えると、「月」に対する一つの読み方として、このとき仲麿は月を見て故郷を思い出して泣いているのかもしれません。そして、もしかしたら心のどこかで、もう日本には帰れないということを予感していたのかもしれません。最後の「かも」に込められた思いにはさまざまなものを感じさせます。

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